この後、小林氏は、治承四年(1180)の兵火後、史料文献上に始めて十大弟子及び八部衆像の名を見るものとして室町時代に成立した「南都七大寺巡礼記」の記事について論考されていますが、この書は「七大寺巡礼私記」の記事をそのまま転写した箇所が多く、その当時の現状を伝えるものではない事が明らかになっているので割愛します。
鎌倉時代以降の沿革については、嘉暦二年(1327)3月、大乗院禅師房と六万衆の争いによって、金堂、講堂と共に西金堂が焼失した事を紹介し、西金堂の仏像などに関しては余り明らかでないが、前記の享保二年(1717)の「尊像之録」や現存の遺物等から見て、この時には丈六の本尊像を始めとして仏像の大部分は無事であった様に考えられると述べられています。
これが室町時代を経て江戸時代に入って、享保二年(1717)正月に講堂から出火して金堂、南円堂等が焼け、西金堂も焼亡した事が回禄暦敷を始めとして寺蔵文書にかなり詳しく記されていて、この時は不幸にして本尊像は、その頭部、腕部および光背の一部を取り出しただけであったが、その他の仏像は無事であったらしく、前記の「相残尊像之録」などには両脇侍像を始めとして、かなり多くの仏像を掲げている事を紹介され、十大弟子及び八部衆像も、とにかく無事に取り出されたらしいが、現在の逸失および破損などは大抵この時に蒙ったものと思われると述べられています。
そして、以上の論述から、この十大弟子及び八部衆像は決して興福寺西金堂の創建当初からのものではなく、治承四年(1180)の兵火の後に他から、恐らく額安寺から移されたものである事が明らかになったと思うと述べられ、これらの像が、その本寺に於いて如何なる来由をもつものであるかという事は、不幸にして額安寺の縁起沿革に関して殆んど史料を欠いているので、これを明らかにする事は出来ないと述べられています。
そして、最後に現存の十大弟子像が像高約四尺八九寸、洲濱座高四寸内外、八部衆像が像高約五尺内外、洲濱座高四寸として、「興福寺濫觴記」の丈量とほぼ近いものであるが、前述した「扶桑略記」承暦二年(1078)正月の記載によれば、二具の像共に高六尺とあり、この丈量の差異だけによっても、西金堂創建当初からの像が現存像と異なっている事が明らかにされると述べられています。