小林氏は、この論文を発表された昭和7年当時の興福寺の寺伝で、十大弟子像及び八部衆像が額安寺の古像と称されていた事に注目し、その寺伝の根拠になったと考えられる「興福寺濫觴記」の記事を紹介されています。 

十大弟子(各尊名略)
 各立像御長四尺八寸 
 佛師問答師造 額安寺古像 

八部衆(各尊名略)
 各立像御長五尺 
 佛師問答師造 額安寺古像 

右十大弟子十躯八部衆八躯
貞永元年壬辰十二月十七日修復 

 小林氏は、この「興福寺濫觴記」は江戸時代の享保二年(1717)以後の記録で、唯これだけによって、その十大弟子及び八部衆像の来由を推定する事は勿論早計であろうが、興福寺文書、享保二年(1717)二月日の興福寺伽藍安置之諸尊今度焼失相残尊像之録の中に「興福寺濫觴記」と殆んど同様な記載を掲げ、これに引き続いて 

 絵所大佛師寺主蔵慶 幸賢 幸賀 幸林 慶尊 大佛師重賢 慶千 永賀 幸全 定照 大佛師幸千 栄千 勝慶 圓慶 重命 薄師権守安長 散位采女 

但十大弟子八部衆修復 貞永元年壬辰十一月廿日始之 十二月十七日終功 

と云う、貞永元年(1232)における修理の詳細な記事を録しているのを見れば、少なくとも享保二年(1717)頃には、この十大弟子及び八部衆像に関して、寺家に、かなり正確な古記録を存していたと考えねばならないと述べられ、前の「興福寺濫觴記」と、この「尊像之録」は、現在、我々の手元に残っている史料よりも正確な古記録があって、その「額安寺古像」との説をなしているものと思われると述べておられます。