興福寺国宝館に現存する十大弟子像と八部衆像が、西金堂創建当初からのものか、あるいは当初のものが治承四年の兵火で失われた後、額安寺から移されたものかの論争については、昨年、発行された大橋一章氏と片岡直樹氏の編著「興福寺ー美術史研究のあゆみー」の中でも、村松哲文氏により「十大弟子像と八部衆像」というタイトルで経緯が紹介されていますが、昭和四年に安藤更生氏が「興福寺の天龍八部衆と釈迦十大弟子像の伝来に就いて」という論文を発表し、現在の十大弟子像と八部衆像が西金堂当初の像であると主張した事から本格的な論争になったようです。 
 その後、要旨を紹介させてもらった小林氏の「興福寺十大弟子像および八部衆像の伝来について」という論文が昭和七年に発表され額安寺移入説を主張したため、これが当初説を主張する安藤氏と、それを支持する足立康氏を過敏に反応させ、二ヶ月後、安藤氏と足立氏が一斉に小林氏の説に反論する論文を発表されたようです。 

 この両氏の反論に対する、更に反論として発表されたのが、「興福寺十大弟子像及び八部衆像の傳来再考」と題された小林氏の論文です。 

 その要旨を僕なりに、まとめて紹介させてもらいます。 

 まず、西金堂の創建当初に造られた十大弟子及び八部衆像の材料が如何なるものであったかについて、足立氏は正倉院文書の天平六年の造仏所作物帳に記載された多量の漆から、これらの像が乾漆像であったと推察され、それを今の像が創建当初のものである根拠の一つだと主張された事に関しては、小林氏は、当時の造像が一般的に乾漆を多く利用している事実は、これが興福寺に限らず他寺にも、その存在を肯定するもので、この乾漆造との一特色は、むしろ当時にあっては普通の例として、興福寺在来説に役立つものではないと述べられています。