森下和貴子氏は昭和62年発行の「美術史研究第25冊」に「藤原寺考―律師道慈をめぐって―」という論文を発表され、従来、平城京における大安寺修造の功績から、大安寺僧としてのイメージが定着していた道慈が、養老二年(718)に帰朝後は、藤原寺の異称を持っていた興福寺に止住していたと考察されています。
また興福寺西金堂に施入された舶載経が道慈によって将来された事を考察されて、西金堂が完成する天平六年(734)1月までは興福寺にいたと考えておられます。
さらに西金堂に安置されていた釈迦衆会像と大安寺金堂に安置されていた群像構成の一致を指摘し、「七大寺日記」および「七大寺巡礼私記」に記載された額田氏の出自である道慈の氏寺、額田部寺(額安寺)の八部衆像が平安時代の一時期、興福寺西金堂に移安された事にも触れられ、その共通性、相関性は、何よりも道慈という一人の僧侶を軸に考えるとき、もっとも容易に理解されようと述べられています。
前に書かせてもらいましたが、興福寺では養老五年(721)に中金堂西の間に造られた弥勒浄土変、天平二年(730)に五重塔の初層の南方に造られた釈迦浄土変にも八部衆像が含まれていました。
しかし、中金堂の弥勒浄土変では羅漢像は四躰、五重塔の釈迦浄土変では羅漢像は六躰で十大弟子像として造られたのは西金堂の釈迦集会像が初めてだったと考えられます。
「興福寺曼荼羅図」の中金堂西の間の八部衆像と西金堂の八部衆像の像容の明らかな違いから、西金堂像は道慈によってもたらされた新しい様式に基づいたものであると以前、推理しましたが、十大弟子像の確立も道慈によって行われ、それが同じく道慈によって造営が進められていた大安寺金堂に引き継がれ、天平十四年(742)、すでにあった乾漆造りの丈六仏像と四天王像に乾漆の菩薩像二躰、羅漢像十躰、八部像一具を追加安置して、西金堂と、ほぼ同じ群像構成が出来上がったと考えられます。
大安寺金堂に安置されていた十大弟子像、八部衆像は寛仁元年(1017)3月1日、大安寺の主要伽藍が塔一基を遺して焼失した時に失われ、その像容を知る事は出来ませんが、その造立に道慈という共通の僧侶の関与が考えられるので、造立時期に8年の差が有りますが「興福寺曼荼羅図」の西金堂に描かれた十大弟子像、八部衆像から、その像容を偲ぶ事が出来るように思います。