治承四年(1180)12月28日、平重衡の兵火により、興福寺の伽藍のほとんどが失われた時に、西金堂創建の時に造られた十大弟子像と八部衆像は乾漆像で持ち運び易かったので奇跡的に助けられたという説が最近は大勢を占めているようですが、かって小林剛氏は「興福寺十大弟子及び八部衆像の傳来について」という論文を発表し、それがあり得ない事を論述されました。
 僕が「興福寺曼荼羅図」を見て想像する治承四年12月28日の真実を書かせてもらう前に、小林氏の論考の要旨を紹介させてもらいます。 

 小林氏は、まず「扶桑略記」の承暦二年(1078)正月の塔と西金堂の供養の記事を紹介し、そこには十大弟子像と八部衆像の高さが六尺と明記されており、現存する十大弟子像と八部衆像の高さが五尺前後である事との差異を指摘されています。 

 次に、治承四年12月28日の兵火による被害状況を記載した「玉葉」の記事を紹介され、仏像に関しては、そこに記載された春日神主の文中の、官兵を恐れるにより仏像一躰も取り出す事が出来なかったという言葉を紹介されています。 

 約一月後、詳細が明らかになり「玉葉」には、救い出された仏像としては、金堂釈迦眉間に籠められていた銀釈迦小像、東金堂の後戸に安置されていた釈迦三尊像、西金堂の十一面観音像が報告された事が記載されている事を紹介され、その中で十一面観音像は、厳宗と蔵西という二人の僧侶が命懸けで救い出して、焼失を免れた厳宗の小房に安置した事が分かるが、それ以外は火災の後に発見されたもので損傷が激しかった事を紹介しておられます。

 そして、これらの記述から、この治承四年の兵火で興福寺は全寺をあげて灰燼に帰したとみるべきで、この渦中にあって尚、西金堂の十大弟子像および八部衆の十八躯の仏像が揃って無事であったとは到底考える事は出来ない。 
 もし、これらの天平以来の二具の像が、そのままに取り出されて、何処かの堂舎に移されていたものとするならば、詳細に火災並びに検知、後始末等の事を記述している「玉葉」及びその他の多くの史料に、何処かに、その名を見出すのが、当然であるのに、それが何れにも記されていないのは、官兵を恐れたために、諸堂の霊験ある本尊像を始め、その他の殆んどすべての仏像が灰中に遺棄された中に、西金堂に於いても第二義第三義的な十大弟子及び八部衆像が、他の霊像を差し置いて救い出されたとは如何にしても想像する事は出来ないと述べておられます。