お宝映画・番組私的見聞録 -157ページ目

8時だヨ!出発進行 その2

さて「8時だヨ!出発進行」だが、ゲストについて触れてみたい。まず、第1回では引き続きでドリフターズが登場。「全員集合」の1期最終回(つまりこの前週)では、クレージーキャッツも番組最後に舞台に登場して、来週からは出発進行をやるみたいなことを予告していたようなイメージがあるのだが、これは勝手な記憶の捏造かもしれない。ドリフの出演はこの1回のみである。
ゲスト歌手は、辺見マリ、黛ジュン、由紀さおり、奥村チヨ、日吉ミミ、小川知子、九重祐三子といったところがよく出演していた。いしだあゆみも何度か出演し、妹のレギュラー・石田ゆりとの共演を果たしている。
20回以降の2ヶ月間、毎週出演していたのがザ・シュークリーム。同じナベプロ所属で四人組のゴールデン・ハーフの代役だったようである(二組とも出演している回もある)。二組とも同じ70年のデビューで、シュークリームは73年、ゴールデン・ハーフは74年に解散している。
シュークリームはグループとしてはパッとしなかったが、解散してからは全員それなりに活躍している。ホーン・ユキは女優として活躍。「傷だらけの天使」「ミラクルガール」などが印象に深い。この人もハーフなのだが、何故かゴールデン・ハーフではなかった。そして、清水クーコ。清水国明の嫁としてタレントで活躍したが、離婚したのち、91年に癌で他界した(享年38歳)。北原由紀(由貴)は演歌歌手として活躍。解散直後は南麻衣子と名乗っていた。もちろんオナッターズの南麻衣子とは別人である。もう一人の甲山暁美はモデルとして活躍したようだ。
そのシュークリームと同じ回に登場していたのが、里見洋と一番星なるグループ。元々はレオ・ビーツという6人組のGSで、そこに女性ボーカル三人が入ってルート№1というグループとなる。やがて女性陣が抜け、レオ・ビーツの中の4人に元ヤンガースの窪孝(絵川たかし)と元アダムスの土屋守が加わったのが里見洋と一番星である。時期的にデビュー曲となる「新盛り場ブルース」を披露したと思われる。森進一の「盛り場ブルース」のカバー(改曲)のはずだが、とても怪しい曲に仕上がっており、ステージでやったら客が惹きそうである。
例によって大きく話がそれたが、予定通り番組は半年で終了する。ドリフには及ばなかったものの、低視聴率だから終わったということではないらしい。いずれにしろクレージーキャッツとしては最後の公開番組になったのである(スペシャル番組などは除く)。

8時だヨ!出発進行

前項の「ハイ!やりました」という公開番組が失敗に終わったクレージーキャッツだったが、3ヵ月あまりで再び公開番組に挑戦したのが「8時だヨ!出発進行」(71年)である。五年ほど前にこのブログでも取り上げてはいるのだが、たいしたことも書いてないので、ここで改めて。
ドリフの「8時だヨ!全員集合」(69~85年)が一度中断したのを覚えているだろうか。71年の4月~9月に土曜8時に割り込んだのがこの「出発進行」なのである。TBSは一方的に渡辺プロからドリフを半年間、日本テレビに貸すので、その穴をクレージーにやらせると通告されたという。
日テレからドリフが欲しいという強い要請があったことや、クレージーをもう一度輝かせたいといったナベプロ側の思惑もあったようである。ちなみに日テレで放送されたのが「日曜日だヨ!ドリフターズ」という「全員集合」と似たような番組であった。制作費が大幅にかかることから幹部に嫌われ、予定通り半年で終了することになったという。個人的には、この番組の記憶はない。
さて「出発進行」だが、これは個人的にも覚えてはいる。しかし内容については全く覚えていない。簡単にいえば、ドリフがやっていたことを、そのままクレージーがやったという感じのようだ。実際「全員集合」のスタッフがそのまま制作にあったていた。
前述のとおり、直前に石橋エータローが脱退し、クレージーは6人組となっていた。映画を見ていない人はクレージーは6人組だったという印象を持っている人も多いかもしれない。
他のレギュラーは布施明、ゴールデン・ハーフ、石田ゆり。石田ゆり(当時19歳)は石田ゆり子、石田えりなどとややこしいが、いしだあゆみの実妹である(本名は由利子)。前年にデビューしたばかりだったが、この番組を最後に、自分のシングルの作詞を手がけていた、なかにし礼と結婚して引退した。
ゴールデン・ハーフは4人組の時代。といっても70年のデビュー時数ヶ月のみ5人組で、ユミが抜けた翌74年には解散したので、ほとんど4人組だったが。なんかイメージではエバ、マリア、ルナの3人時代も結構長かった気がするのだが。ちなみにユミは両親とも日本人だと後に告白したらしい。確かにハーフにはあまり見えないなあと子供心に思ったりしたものだが。
次回に続く。

ハイ!やりました/植木等のそれ行けドンドン

今回も、「クレージーTV大全」からクレージーキャッツのほとんど知られていないだろう番組をピックアップしてみたい。
まずは「ハイ!やりました」(70年)。タイトルからは、どんな番組だか想像つかないが、これはクレージとしたは初の公開収録番組なのである。公開番組が70年になるまで、一度もなかったというのが意外な感じがする。
これは後輩のドリフターズが「8時だヨ!全員集合」で高視聴率を獲得していたことや、ハナ肇のタメゴロー・ブームだったこともあって、企画されたようである。
レギュラーは他に江崎英子。当時はヤング101のメンバーで、後に女優となり個人的には「大江戸捜査網」や映画版「ルパン三世」のイメージが強い。ゲストは辺見マリ、奥村チヨ、梓みちよなどで、第2回にはドリフターズの名もある。しかし、この番組はわずか8回で終了となってしまっている。裏番組に「ふるさとの歌まつり」(NHK)や当時大人気のドラマ「ありがとう」(TBS)があったことも一因にあると思われる。他にも「これが歌謡曲だ!」(日テレ、ちなみにこの番組も1カ月で打ち切られたらしい)「ただ今ヒット中!」(12チャン)という歌番組が放送されていた。
この「ハイ!やりました」と全く同じ日にスタートしたのが「植木等のそれ行けドンドン」(70年)である。「やりました」は20時からで、こちらは直後の21時からの放送であった。
これはスタジオ収録のコメディドラマで、レギュラーは大泥棒の植木(ドンドン)と相棒の発明家・谷啓(パチパチ)、そして謎の美女・朝丘雪路の三人。毎回、お宝を狙って騒動を繰り広げるという「ルパン三世」を思わせるような設定である(漫画は既に連載されていた)。この番組もやはり視聴率は振るわず14回で終了となり、翌週から出演者はそのままで「スターはまかせろ!」(71年)というバラエティ番組にリニューアルされている。詳細は不明な番組だが、他のクレージーのメンバーや岸部シローなどがゲストで出演していたようだ。これも1クールで終了している。丁度、この番組がスタートした頃に石橋エータローが脱退している。

ドカンと一発!

ちょっと前にローテーションで主演が交代する方式の「おれの番だ!」を取り上げたが、やはりクレージーキャッツによる主演交代方式の作品がある。「ドカンと一発」(68年)がそれだ。
「おれの番だ!」と同様に、ハナ肇、植木等、谷啓、そして藤田まことというのは一緒だが、今回はさらにザ・ドリフターズが加わるという豪華ラインナップであった。他のレギュラー陣も中村メイコ、島かおり、春川ますみ、山東昭子、笠置シヅ子、北林早苗といった面々だ。
主役交代方式といっても、舞台・人物設定は毎回同じで、ようするに連続ドラマなのである。高層ビルの最上階にある商事会社が舞台となっており、社長が犬塚弘で、副社長はハナ肇、他のクレージーのメンバーと藤田まことが社員で、その会社の運送を一手に引き受けてる運送会社の面々がドリフターズということのようだ。
「植木等ショー!クレージーTV大全」によれば、第1話の主演は植木で、2話はドリフ、3話はクレージー全員、4話は藤田というような感じだったようだ。上記レギュラー以外にも進藤英太郎、三宅邦子、石川進、ひし美ゆり子、小松政夫あたりもゲスト出演していたようだ。
本作は月曜の20時、♪明るいナショナル~♪でお馴染みのナショナル劇場の枠(現・パナソニックドラマシアター)で、鳴り物入りで始まったわけだが、視聴率はふるわず、わずか1クール13回で終了してしまった。
クレージー人気にも陰りが見え始め、ドリフの人気もまだまだということだったのだろうか。ドリフ人気が爆発するのはやはり69年スタートの「8時だヨ!全員集合」からであろう。
ちなみに、この枠の前番組は黒沢年男、栗原小巻、柏木由紀子などが出演の「オレと彼女」で、後番組は酒井和歌子、関口宏、松山英太郎などが出演の「こんにちは!そよ風さん」で、以降「S・Hは恋のイニシャル」そして「水戸黄門(第1部)」へと続くのである。

どろん秘帖

さて、「びっくり捕物帳」と「スチャラカ社員」の間には「どろん秘帖」(60~61年)という番組が存在する。ついでなので、この番組について触れておこう。
といっても人気番組の間に挟まれた半年程度で終わってしまった番組ということもあり、その詳細はほぼ不明である。自分が見た澤田隆治の著書にも「どろん秘帖」に関しては、ほぼスルーされている。
主演は「びっくり捕物帳」から引き続き、中田ダイマル・ラケットだが、ヒロイン役は宝塚映画(東宝)の環三千世(当時27歳)という女優であった。忍術学校を舞台にした喜劇で、ダイラケがそこの落第生、環はその学校長の娘という設定であったようだ。他に俳優の高田稔が出演していたようだが、他は不明である。
「びっくり捕物帳」で森光子が降板した後、環三千世もその後任で出演していたようだが、森光子の穴は大きく、まもなく番組は終了しまっており、ヒロイン探しには苦労していたようである。
環三千世について、よく知らんので調べてみると、50本もの映画に出演していた。江利チエミの「サザエさんシリーズ」や「やりくりアパート」の映画版といたったコメディ映画にも顔をだしている。「女家族」(61年)には翌年「スチャラカ」に出演する長谷百合ともども出演していた。この「どろん秘帖」が放送された61年に松竹に移籍し、小津安二郎の「秋刀魚の味」(62年)などにも出演しているが、翌63年には引退してしまったようだ。
宝塚歌劇団に54年に入団しているが、同期には大臣にもなった扇千景や小山田崇徳夫人となる日夏有里、公演中にセリに衣装が巻き込まれ事故死した香月弘美などがいた。香月は風をひいて休演した日夏の代役で、偶然相手役となり惨劇を目の当たりにした松島三那子は香月とは小中学校の同級生で友人であったという。
詳細は不明だが、環三千世は73年に40才の若さで他界したという。

スチャラカ社員(映画版)

実は「スチャラカ社員」には映画版がある。映画化は66年ということで、番組後期のメンバーが出演している。ミヤコ蝶々、中田ダイマル・ラケット、長門勇、ルーキー新一とここまではテレビと一緒だが、事務員役には当時17歳の新藤恵美が扮している。ちなみに新藤のデビューは15歳の時だ。
映画版では、会社名は都田物産となっており、同じビルに「テキサス・リース」という同業の会社が入ってくる。リース会社って当時からあったんだなあと意外に思う。
その支社長がビンボ・ダナオで、事務員が西岡慶子、そして若手社員が「スチャラカ社員」という言葉に似つかわしくない男・藤岡弘(当時20歳)である。別にスチャラカな役ではないようだけれども。藤岡は前年(65年)にデビューしたばかりであった。
当時松竹では藤岡と新藤をカップルのように売り出しており、新藤がこの年出演した映画4本には、すべて藤岡も出演しているのだ。ご存知のとおり、二人が有名になるのは、それぞれ「仮面ライダー」「美しきチャレンジャー」で主役を演じてからで、共に71年の作品だ。当時は新人のようなイメージを感じていたが、結構キャリアのある役者だったのである。
ビンボ・ダナオは以前も書いたと思うが、フィリピン人歌手であり、日本映画にも4作品ほど顔を出している。名前がどうしても「貧乏」を連想させるが、逆にリッチだったかもしれない。淡路恵子と結婚していたが、この前年に離婚していた。淡路はこの66年に中村錦之助と結婚し、ビンボは翌67年に病気で急死している。
他の出演者だが、ミヤコ蝶々の相方だった南都雄二(テレビ版でも準レギュラーだった)、上方柳次・柳太、若井けんじ・はんじ、かしまし娘、夢路いとし、先日亡くなった喜味こいしといった芸人たちが顔を出し、他にも南道郎、ミスター珍、都はるみ、テレビ版のレギュラーだった東山明美なども出演していたようだ。
本作は66年8月13日からの公開だったが、東宝では「スチャラカ」を抜けた藤田まこと、白木みのるが主演の「てなもんや東海道」を翌14日から公開した。

スチャラカ社員 その3

「スチャラカ社員」の3回目である。この番組がスタートした翌62年に、同じ澤田隆治、香川登志緒のコンビが始めたのが、ご存知「てなもんや三度笠」であった。ここで、初めて藤田まことが主役に抜擢されることになった。当初は藤田も並行して出演していたようだが、やがて彼も番組を去ることになった。
その後釜的な役割で起用されたのが長門勇であった。「三匹の侍」は63年スタートなので、おそらくそちらの方が先だったと思われる。つまりお茶の間には長門は、ちょっとコミカルな俳優というイメージだったのではないだろうか。しかし、長門は元々は浅草・フランス座などで約10年活動していたコメディアンである。長門は岡山訛りを直したいと思っていらしいが、澤田は逆に岡山弁で喋ることを要求したという。本人は嫌がったようだが、結果的には成功したようである。
しかし、長門勇も、入れ替わるように降板した人見きよしも、個人的には役者のイメージである。特に人見きよしにはコミカルな印象はほとんどない。
さて、もう一人後期になってレギュラー加入したのがルーキー新一であった。澤田は元、素人漫才コンテストのラジオ番組「漫才教室」のディレクターをやっており、ルーキーもその番組を勝ち抜いてプロになっている。ちなみに、横山やすしもその番組の出身だが、彼は当時中学二年生で天才少年漫才といわれていた。やすしは一時期、ルーキーの紹介で横山たかしとコンビを組んでいたが、たかしとはルーキーの実弟・正二のこと。つまり現在のレッツゴー三匹のリーダー正児のことだ。
さて、ルーキー新一だが人気が出だしたころ所属の吉本興業を辞めてしまう。世話になっていた先輩に追随する形だったようだが、人気のあった彼が座長となる「ルーキー爆笑劇団」が結成された。吉本からの圧力がある中で、澤田は彼を「スチャラカ社員」に起用したのであった。
順調そうにみえたルーキー新一だったが、劇団ぐるみの恐喝事件というのが起こり、劇団は解散に追い込まれ、ここから苦難の道が始まる。映画「不良番長」シリーズに顔を出したりしていたが、相変わらず圧力もかかり、再浮上することはできなかった。そして80年、自宅で衰弱死しているのを発見された。まだ44歳であった。番組出演者では中田ダイマルが82年に68歳で、人見きよしも85年に54歳で、この頃相次いで亡くなっている。

スチャラカ社員 その2

前回の続きである。「スチャラカ社員」のディレクター澤田隆治が二代目事務員として藤純子(富司純子)を選んだいきさつだが、別に父である俊藤浩滋が売り込んできたわけではない。彼女を見て閃いた澤田が「テレビに出てみない?」声をかけたところ「出たい」と答えたので決定したという。
当時の彼女は高校2年生で、優等生でもあったようで、収録のあった月曜日も学校を休むのをいやがり、京都の学校で朝一時間授業を受けた後、大阪に駆けつけ、収録が終わるとまた学校に戻っていくという生活を送っていたそうだ。
藤純子のデビューは意外にも「スチャラカ社員」であったということになるのだが、Wikiによれば映画「八州遊侠伝・男の盃」への出演のほうが早かったようである。この63年だけで映画にも六本出演している。
藤田まことの「はせく~ん」も当然「ふじく~ん」に代わり、彼女も人気を獲得し出していたのだが、彼女の映画での役柄が悲しい女という感じになっていき、父俊藤がプロデュースするやくざ路線にも顔を出すようになり、澤田はこのまま「スチャラカ」に出ていてもマイナスになるのではと、彼女を番組からはずすことを俊藤に提案したという。
こうして藤純子は降板し、三代目事務員となったのは東山明美だったようである。このへんのいきさつは不明だが、歌手としてデビューしてまもない頃である。後の「お嫁さん 第2シリーズ」(67年)のヒロイン役が有名であろう。
そして、四代目がハーフのヘレン杉本、つまり後の西川ヘレンである。この時、すでに同じ年齢の西川きよしとは恋愛関係にあり、共に10代のうちに結婚している。西川と坂田利夫は一時期ヘレンに養ってもらっていたという。西川が横山やすしとコンビを組むのはこの翌年のことである。ちなみに、西川は新喜劇がスタートであり、漫才の経験はこの時点ではなかったようだ。
マドンナ事務員として判明しているのは以上だが、ひょっとしたら他にもいたかもしれない。とりあえず続く。

スチャラカ社員 その1

「ダイラケといえば『スチャラカ社員』でしょう」というリクエストにお応えして、今回は「スチャラカ社員」(61~67年)である。
有名な番組だし、自分も子供の頃から知ってはいたが、よく考えてみると、実際に見たことはなかったと思うし、内容もよく知らないことに今さらながら気づいた。
簡単にいえば、日曜日の昼間にやっていた公開形式のコメディだ。
舞台は海山物産という中小企業で、社長がミヤコ蝶々、支店長が横山エンタツ、課長が人見きよし、社員に中田ダイマル・ラケットはじめ、笑福亭松之助、藤田まこと、川上のぼる、白木みのる、長谷百合といったところが当初のメンバーであった。
この中で、まず松之助(明石家さんまの師匠)は吉本から松竹への移籍問題に絡み、すぐに降板することになったという。エンタツも体調を崩し2年ほどで降板。最後のレギュラー出演になっている。人見きよしも長門勇と交替となったようである。長谷百合は喜劇女優というわけではないが、元々は森光子の推薦だったという。藤田まことは女性事務員を口説きたがる役で、彼の「はせく~ん」という呼びかけが、当時流行ったという。しかし、長谷も映画女優へと転身をはかり二年ほどで降板している。長谷はその後、日活で4本ほどの映画に出演。「俺たちの血が許さない」(64年)という作品では、高橋英樹の恋人役などをやっていたのだが、それを最後に結婚、引退したようである。
ところで、この番組、脚本は香川登志緒、演出は澤田隆治という「てなもんや三度笠」でもお馴染みのコンビである。場面転換が一切なく、30分オフィスセットでの会話だけで話が進んでいくというもの。公開録画ではあったが、前日リハーサルはなく、当日の朝9時の集合して、ぶっつけでドライ、カメリハ、本番と進み、放送時間と同じ12時45分には終了というスケジュールだったという。
さて長谷が降板した63年、澤田が並行してやっていた「てなもんや三度笠」の映画化の打ち合わせのため東映京都撮影所に行ったときの話。相手はプロデューサー俊藤浩滋で、後にやくざ路線で大プロデューサーとなる人物(彼の名がクレジットされるようになるのは翌64年から)だが、そこに彼の娘である藤純子も来ていたのである。ここから2代目事務員・藤純子が誕生するのであった。次回に続く。

ダイラケ二等兵

前項で書いたように、「月曜日の男」→「おれの番だ!」→「三木のり平のおお!ぽん人」→「青島幸男のおお!ながら人」とロート製薬一社提供枠は続いたのだが、「月曜日の男」の前はどうだったかというと、「ダイラケ二等兵」(60~61年)という番組が放送されていたのである。これが、TBS初のロート製薬枠の番組だったそうだ。この頃は例の♪ロートロートロート~のオープニングキャッチはなかったようで、62年から流れたという。
さて、ダイラケとは若者にはわからないかもしれないので、一応解説すると中田ダイマル・ラケットという当時人気の兄弟漫才コンビのこと。このコンビは男6人女6人という12人兄弟の三男と六男とのこと。元々はダイマルと長男であるデパートとのコンビだったが、デパートが病死したため、弟を無理矢理引き入れたという。
「ダイラケ二等兵」は軍隊を舞台にした公開形式のコメディで、ダイラケの劇団に所属していた藤田まことが上官の役で出ていた。他には声帯模写の川上のぼるや軍隊漫才の秋山右楽・左楽などが出演していた。
この番組はコミカライズされており、「ロボット三等兵シリーズ」で有名な前谷惟光によって、「ぼくら」に連載されていた。「ぼくら」(69年休刊)を読んだ記憶はあるが、前谷の作品を読んだ記憶はない。現在、復刻されており「ロボット」シリーズがずらりと書店に並んでたりするが、それらにこの「ダイラケ二等兵」は収録されていないようである。
ダイラケといえば、以前ここで「ダイラケのびっくり捕物帖」(57~60年)を取り上げたことがある。藤田のテレビデビュー作であり、その妹を演じた森光子も有名になった。ちなみに、藤田は24歳で妹役の森は37歳であった(当時は3歳サバよんでいたという)。森は結婚のため、途中で降板したが、四年ほどで離婚したようである。
ところで、ロート製薬のオープニングキャッチだが、昨年の3月で消滅したということである。つまり不景気のあおりで一社提供をやめたということ。最後になった番組は「SMAP×SMAP」であったようだ。