のびのびボランティア紀行
パダンの岬にて。旧日本軍のつくった砲台に住む人たち。衣服を渡しているところ




来た。とうとう来てしまった。

暑い夏だ。



この日が来るのを、今か今かと待っていた。

かなりビビりつつ。



なぜかって今年は、電気料金アップ。

エアコンなど、できるだけストップかけるか、弱くしなくっちゃならない。

私は大きな声でいっていいとおもう。



赤道直下の国々を、いくつもまわって来た、ワタクシが言わせてもらう。



日本の夏は、アジア・太平洋地域の中でも、もっとも暑い!

そして辛い!



バンコクよりジャカルタよりポートモレスビーより、

だんぜん、不快度数が高い!



この事実は、意外とみんな知らない。



なぜだか理由は知りません。

バンコクも同じくらい暑いけど、どっかしら息抜きできる。

というか、みんな暑いのになれているので、「頑張っても仕方ない」ことを知っている。



しかし日本は、なまじっか先進国なので、”暑いのにみんな頑張る”。

これが、さらに暑苦しさを増す条件になっている。



というのは、暑くてもバリバリ経済活動するので、そのために、パソコンやキカイなどを、冷やさなくてはならない。



機械類は熱に弱い。だから、モウレツにエアコンを使う。

すると、室外機から熱風が出て、人間を、もろに直撃する!



マシーンを冷やし、ヒューマン・ビーングスを、暑くさせる。

それでも走らなくてはならない、ニッポン。

走って走って、どこに行くのやら。



だから言わせてもらう。

もらうぞ。



日本の夏は、アジア・太平洋地域で、もっとも苛烈!

これ本当だよ。



節電せよ、エアコンを弱くせよというのは、一般ピーポー(私含め)に、

"You must die. "



といってるようなものだ。



それで、めちゃくちゃ暑い夏を乗り切る、クールグッズとして、

私が、モウレツゲキレツにおすすめしたいのは、



抱き枕!



タイで出会った、抱き枕。

抱き枕は、ほんとうにいい。

夏の熱帯夜、それなしには、本当に眠れなかった。

というくらいに、いい。



笑うなヨ。本当にいいんだから。



抱き枕がなぜいいかというと。



寝るときに、寝汗をかくでしょう。

あれが、不快さを増している。



寝汗で、べとべとしている肌が、布団やベッドに、べったりつく。

これが原因で、眠れなかったり、気持ちがわるい。



そこに抱き枕があると!

横向きに、抱いて寝れる。

どいうことは、つまり布団と肌の接地面積が、減る!



どういうことかっていうと、

べたべたする部分が、減るってこと。



そして快眠。



しかぁーし、日本の問題点は。



抱き枕が、どこにも売ってなーい!



ドンキにも、ハンズにもない!



もっと総務省は、クールグッズとして、抱き枕を推奨するべしだ。

抱き枕、ああ抱き枕。

タイから輸入してください。



あれ、本当にいいから。



(つづかない)








のびのびボランティア紀行
パダンのイスラム教徒コミュニティーで。衣服を渡しているところ





パダンだー。

とりあえず言ってみた。

パダン。



「あーパダンね」と分かってくれる人、どれだけいるだろう。

ほとんどいないだろう。



2009年に大地震があった。

マグニチュード7.6といわれているけれど、現地の人の感覚では、それ以上あったらしい。



それで街はこのありさま。





のびのびボランティア紀行



さいわいだったのは津波が来なかったこと。

2004年のスマトラ沖地震では、大津波が来て、となりのバンダアチェは徹底的に破壊された。



現地の人によると、地震の来たあと、みんな津波を怖れて高台にあがった。すると海があふれて、川をどんどんさかのぼってきた。



それでも、土手がきれるまでは至らず、少しずつひいていったという。

もし津波が来ていたら、被害はこれでは済まなかった。



とはいえ経済活動は、ほとんどストップした。



大手の銀行や、デパートは、倒壊して営業できなくなった。

そのとき復興のはじめの声をあげたのが、地元の市場だった。

私たちが訪れたときも、市場は地震なんてあったのか、と疑うほどの大盛況ぶりだった。



バナナや、トロピカルな果物が売り買いされ、貴金属店もあった。

外貨両替は、そこでできた。



パダンは、スマトラ島の西部では最大の都市だった。

だからまわりの地方から人々が集まり、商業活動を行う。

その市場の活気がなくならないかぎりは、パダンは大丈夫だと思った。



さて私たちはホテルをかえた。

もう少し町の中心のあたりにうつったのだ。



地震の前は、高級ホテルとよばれるホテルがたくさんあった。

というのは、外見は立派でも、耐震構造は弱くて、大地震のあとの余震で、だんだんと倒壊し、とうとうぼろぼろになってしまっていたから。



そこで残ったのは、2階建て以下のホテル。

私たちの見つけたのは、エマニュエルホテルといって、オランダ人が設計した石造りのホテル。



そのホテルも、ところどころ、壁が崩れかけたりしていたけど、みんな見て見ぬふりをして、やっとこ営業していた。



エマニュエルホテルは、レストランや中華街、私たちの慰霊の目的地である、旧日本軍のつくった砲台に近かった。



海ぞいにあり、あるけばすぐに砂浜へ出れる。



そこでとりあえず落ち着くと、次の日からの計画を練った。

まずは、近くのイスラム教徒の貧民街で、衣服支援。

その後、川をわたって向こう岸へ行き、砲台で慰霊。

全て済めば、帰国する日まで休む。



じつは帰りの飛行機さえ、とってなかった。

非常に大胆というか、てきとーな計画だ。

そうならざるを得なかったのは、被災地のパダン、先のことは何ひとつ分からなかったからだ。



ホテルを移動したあと、センセイと大衆食堂に夕飯を食べにいった。

その食堂は、黄色い麺類のそばしかなかった。

テーブルも何もかも、最低限。となりには、地震後ゆいいつ営業していた美容室のあるビル。



そのお世辞にもロマンティックとはいえない食堂で、黄色い麺を食べていた。



すると、小さな男の子が、ボロをまとって物乞いに来た。

地震で被災して、そのままストリート・チルドレンになったのだろう。

レストランの客たちは、ちらちら見て、哀れそうな顔をするけれど、誰もお金をあげようとしなかった。



仕方がない。客自体が、生活に困っている。自分のことで精一杯なのだ。

周りは、がれきの片付かない街。先のことは何も分からない。



ストリート・チルドレンの男の子は、私たちのところへ来た。

お金をくれ、と手をさし出す。



お金を渡すのは、ためらわれた。何故なら、大人が物乞いをさせていて、後で巻き上げるかもしれないし、子どもも、食べ物を買うよりも、シンナーなど薬物を買ってしまうかもしれないからだ。



路上の生活に耐え切れず、薬物に手を出す子どもはあとをたたない。

タバコを吸うくらいは、普通のはんちゅうだ。



私たちがお金を渡さないので、男の子はあきらめて、店の前をとぼとぼ行こうとした。



センセイが、自分の食べていた麺をさして、これが欲しいか、ときいた。

それは、おなかが減っているか、同じ麺を買ってあげるよ、という意味だったはずだけど、子どもは、たべかけの麺を食べたいか、ときかれたように思ったらしい。



おなかは減っているはずなのに、首をふって、いらないと言う。

それなら、と私は立ち上がって、男の子を手でよび、麺をゆでているところを指さして、「食べるか」とジェスチャーで示した。



はじめはとまどっていた男の子だったけれど、やがて、頭をたてにふった。



店の人に一杯の中華そばのような麺を頼み、子どもに食べさせて欲しい、といった。



店の人は、「よかったな、ぼうず」というように、笑って麺をゆでた。

男の子は、私たちのテーブルについて、麺を食べた。

店中の客たちが、ほほえんで見ていた。



きっとみんな、助けたいのはやまやまなのだけど、そんな子どもは山のようにいるし、きりがないから、放っておくしかないのだと思う。



男の子は、私たちを信用したのか、のどがかわいたという。

店の入り口に冷蔵庫があり、ジュースを売っていたので、買ってあげた。

男の子は、すぐにストローをさして飲んだ。



その姿を見て、とりあえずはこれでいい、と思い、私たちは店を出た。



こんなふうに、経済的に困窮している国で、地震などの自然災害にあうと、その日からすぐに路上生活者が大量に出る。



東日本大震災では、スマトラのパダンよりも被害は大きかったけれど、路上生活者は出なかった。是非はともかく、避難所がすぐに用意された。



そういうところにも、日本と他の東南アジアの国との違いが見える。

パダンで会ったあの男の子、いまは元気かな。



もう一度パダンへ行くつもりが、3年もたってしまった。



(つづく)















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ジャカルタの空港の看板。右下の方に、「祈り室」とあるのが分かるかな?つまり日本人のイスラム教徒への配慮なのだ





アジアには無いものはない、というのは、私のかってな考え方。

アジアといえば、日本を含めて、もちろんインドネシアも含む。

インドやパキスタン、アフガニスタンも、遠いけれど、何とかアジア、という感じがある。



アジアって何なの?

アジア人ってどんな人?



という疑問(なんてある人いるかな)には、

ばつっとぶっちゃけて、「米が好きな人」

といってしまいたい。



という気持ち。



インドでも、南の方にいくと、みんな米が大好き。

そして、性格もまるくて、人なつこい。



インドの北のほうは、米というより、むしろ小麦粉が好きな人が多い。

ナンとか、チャパティとか。

もちろんナンもおいしいけど、私としては、毎日食べたいのは、断然お米。



インドネシアも大部分のひとは米を食べる。



だからやっぱりアジアだな~、なんて思う。



そんなインドネシアでも料理がおいしいことで有名な、パダン。

ジャカルタでも、バリ島のクタでも、必ず「マサカン・パダン」がある。

これは、パダン料理屋という意味。



話はずどーんととぶけど、パダンで、慰霊と支援を終えたあと、レストランに入った。



パダンはやっぱり大地震の被災地で、ほとんどホテルも、デパートもなくなっていた。



その中で、ど根性で営業していたレストラン。

そこに入ったら、

も~~~~~~う!



何食べてもおいしいっ、おいしいったら!



さらに、食後のコーヒーが、

も~~~~~~う、も~~~~~~う、

舌がとろけだすほどおいしい!



またお米が、ちょうどそんな料理にあう品種なのだ。



どんな料理があるかというと、たとえば、そら豆をからし味噌みたいなので炒めたものとか。



味噌の味も、韓国料理みたいで、豆も新鮮だし、何より、私好みの激辛!

その辛さにも旨みがある。



センセイと、2人で、目をまんまるくして、食べた。



他にビーフンのような、米でできた麺のスープ。これも中華風でうまい。



なーんでパダンに、こんなすごい食文化が生まれたか?

それは、大航海時代より、いぜんにさかのぼるんです。

パダンは、インド洋のとても需要な海の道の拠点だった。



アラビア人の商人や、インド人をはじめ、中国人もたくさん、行ったり来たりした。そうして、アジア中の「うまいもの」の交流現象が、そこで起きた。



インドからは、いろんなスパイスがもたらされる。

中国からは、多種多様な麺類、そして米が来る。

このスパイス、むかしヨーロッパの貴族がよだれ垂らしてさがしまわった。



大航海時代は、別に世界をみたいとか、そういう冒険心からはじまったわけではないのです。



ヨーロッパで爆破的大人気だった、スパイスの商売を一手ににぎっていたのが、アラビア商人だった。



アラビアのイスラム教徒たちは、がっちりとインドやインドネシアなど、スパイスの産地をにぎっていて、ヨーロッパ人たちは、手が出せなかった。



くやしい。生産地にいって買ってくれば、ボロ儲けなはずだ。

そう思ったスペイン人やポルトガル人は、アフリカをまわりこんで、インド洋に出る航路を見つけた。



それが、世に言う大航海時代ってわけ。



うまいものを欲しいのは、ヨーロッパの貴族だろうが、今日の私だろうが、かわらない。



パダンはまた、すぐとなりがバンダアチェという、知る人ぞ知る、コーヒーの名産地。そこから安く高級豆が流れてくるんだろう。



コーヒーも、日本ではあんな味だせないだろうな、という深い味だった。

それらが、大衆食堂よりは、二倍ほど高いが、日本円にすれば、なんということもない値段で食べられる、飲める。



何でみんなスマトラ島に行かないの~?

ごはんはおいしいし、海はきれいだし、山は最高だよ。

これは、インドネシアの観光大臣が、仕事さぼってるとしか思えん。



あのパダンの、スパイシーでジューシーな料理を思い浮かべてたら、今にも行きたくなってきた。



いまはエアアジアという格安航空がマレーシアまでとび、そこからパダンに連れていてくれる。だから、比較的安く、簡単にいける。



みんな、元気があるなら、格安航空乗り継いで、スマトラ島にいってみたら?

きっと素敵なことばかりだよ。



(つづく)










のびのびボランティア紀行
(パダンのイスラム教の集会所のおトイレの窓から。なかなかいかすトイレでしょう)




パダンに着いた次の日の朝。

ゲストハウスの部屋の前の、ちいさなバルコニーみたいなところで、コピを飲んでいた。



コピは、だいたいインドネシアの宿なら、どこでも無料で持ってきてくれる。細かくひいたコーヒーの粉を、カップに入れてお湯をそそぐ。あるいは、ポットにいれて、何杯分か、いっぺんにいれる。



その薄くて素朴な味は、おなかの調子のよくない朝でも、安心して飲める。アメリカン好きのセンセイも、気に入ってよく飲んだ。



そんな朝。



となりの部屋の泊まり客も、同じようにコピタイムを楽しんでいた。

インドネシア人の富裕層の男性二人で、トレッキングのため、4WDで乗り付けてきていた。



「スマトラ島には、まだ観光地化されていない、すばらしい山々がたくさんあるんだ」



とは男性の言葉。


私が、

「バリ島には行ったことがあります」

というと、



2人は頭をふりふり、



「バリはもうダメだ。観光客が入りすぎて、自然が台無しになってしまった。インドネシア人の旅好きは、バリなんか、行きませんよ」

という。



そうなんだ、バリ島は、インドネシア人の中でも、もう終わった観光地なのか。



「どうして外国人は、バリ島にこだわるんだい? インドネシアには、もっと素敵な島々や、山々がたくさんあるんだよ」

だって。



日本の山ガール! 今こそフル装備でスマトラ島へ行くべし。



そしてそんな軽い話題から、彼らは少しディープな話にうつした。



「日本人は、イスラム教徒について、どう思っているのか?」



彼らはイスラム教徒だった。2001年のアメリカ同時多発テロの以降、イスラム教徒が世界中でやりだまにあげられ、つるし上げをくっているのが、残念でならないという。



日本人は、アメリカの言うことをうのみにして、イスラム教徒といえば、テロリストだと、思い込んでないか。それが、彼らの心配することだった。



センセイがこたえた。



「いいえ、その心配には及びません。日本には、アメリカ以外からも、たくさんの情報が入ってきています。アメリカの言うことをうのみにして、イスラム教徒といえば、みんなテロリスト、などとは思っていません」



彼らは、ほっとしたようだった。笑顔がみえた。



それから彼らは、日本のことについて、たくさん疑問をぶつけてきた。

たとえば、エンペラーとはどんな存在なのか。日本にはどんな宗教があるのか。などなど。



彼らの態度は真剣そのもので、日本人と接するチャンスを逃すまいと、ここぞとばかり質問してきた。



センセイは、宗教関連については、専門家なみの知識を持っている。カソリックをはじめ、仏教、神道、その他、ほとんどの疑問に答えるほど博識だ。



とくに日本の文化や、信仰については、ライフワークともいうべき研究を日夜つづけている。



その知見の広さ、深さは、木村天山のメインブログのぼう大な記事を見れば、一目瞭然だ。



インドネシア人のイスラム教徒である彼らの疑問を、ひとつひとつ、センセイが応える。それを、何とかぼくが英語に訳しながら、教える。



彼らがもっとも知りたがったのは、日本人のもっとも崇めるものは何か、ということだった。



つまり、イスラム教徒のいうところの、アッラーは、日本では何にあたるか。



これは、非常に込み入った質問なので、センセイとぼくは、こたえを慎重に考えながら、しかし明確に説明した。



日本に全知全能の神という考え方は、伝統的にない。

もっともそれに近いものは、日本人にとっては自然である。

なかでも象徴的なのは太陽である。



エンペラーは日御子(ひのみこ)といい、代々、太陽を祭祀する家系のことである。エンペラーの先祖に当たり、もっとも崇敬をあつめるのが、天照大御神である。



こういった、今の日本でも忘れられてきたような、基本的なことがらを、英語で彼らに説明するのは、楽しい経験だった。



何より、彼らがとても真剣にきいてくれたのが、嬉しかった。

エンペラーは、政治的な力は持たず、ただ祈る存在である、というと、彼らは、なるほどとうなずいていた。



日本には、宗教による差別はなく、イスラム教徒も若干ながら、いる。彼らの信仰の自由は、完全に保障されている。



などなど、コピの力も借りて、いろんな興味深い話が出来た。



彼らはとても感謝して、「きょうは本当によい議論ができたよ。私たちは、これからトレッキングに行ってくる。ではよい一日を」



といって、出かけていった。



インドネシア人の、日本に対する興味の深さと、また頼りにしているという信頼感とを、しっかりと実感できた。



こんなふうに、日本の果たす役割は、いがいと大きいと思う。

つまり、プロテスタントが大きな力を持つアメリカや、宗教を阿片とみなして、否定してきた中国などに比べて、宗教に対して寛容なのが日本だ。



だから、イスラム教徒とキリスト教徒が対立するような地域でも、互いの主張をバランスよくきくことができる。



日本人が世代をこえて求めるのは、平和と繁栄。

それは、99パーセントの日本人の思いといっていいだろう。



説教くさくなるのは、イヤーな感じだけど、日本人は、日本のことをよく知り、そして外国人に、分かるように説明できる言葉をもった方がいい。



自分が、そうできているとは、毛ほども思わないけど。

パダンの朝は、そんな知的な興奮とともに、はじまった。

悪くないスタートだ。



(つづく)


















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(手渡したぬいぐるみを手に。ジャカルタ集合住宅で)





朝、自分でいれたコピをのみつつ、身支度をした。

きょうはこの旅の目的地、パダンへ行く日だ。

パダンは、その日の2ヶ月ほど前、大地震があった。



スマトラ島の、バンダアチェ州のとなりで、マグニチュード8以上の、大地震が多発するところだ。



そこに、慰霊と支援に行く。



太平洋戦争中は、日本軍が進駐していた。

その時代の基地なども残っている。



ちょうどスマトラ島のインド洋側に位置している。

大航海時代よりもずっと前から、世界の海洋交通の要所として、とても大事な場所だった。



マレー人や、アラビアのイスラム教徒、また中国人、大航海時代に入ってからはポルトガル人やオランダ人など、あらゆる人種のひとびとがやってきた。



そのパダンの原住民族といわれるのは、ミナンカバウという人たちだ。

穏やかな性格で、女性の方が男性よりも優位に立つという、独特の社会習慣がある。



一族の土地や財産を、男子ではなく女子がつぐのだ。

つまり母系社会というわけ。



パダンに関するうんちくはさておき。



私たちの泊まったホテルは、ぐうぜん、とても交通の便のいい場所にあった。用意をととのえて、チェックアウトすると、すぐにタクシーが見つかった。



というよりも総合アミューズメント施設のようなホテルなので、朝から晩まで、ずっと玄関にタクシーが待っている。これはわざわざ通りまでいって、タクシーをつかまえてくるたいへんさを考えると、しごく楽だった。



ジャカルタで半分ほどに減った、支援物資をトランクにいれる。

一人につき20キロから30キロの航空手荷物として、持ってきたもので、二人でおよそ60から70キロほどある。



それを自分たちの手で運ぶ。

身体を酷使する活動形態だ。



ひざや、腰など、とくに負担がかかる。



ときには、タクシーから降りて、目的地まで2-3キロ歩くときもある。

そんなときは、30キロの荷物を抱えて、文字通り汗だくで歩く。



だから、私は思うのだ、支援は1に体力2に体力、34が無くて5に体力と。



日本にいるあいだ、支援活動の予定が入っている場合、私は体力づくりをかかさない。そうしないと、活動の途中にへばってしまう。



だいたい、日本を出るときの、充実した体力を「10」として、あとはマイナスで考える。



まずは行きの飛行機で、マイナス0.5。

気候や天候の落差でのダメージ、マイナス1。

もしも食べ物が合わず、おなかをこわせばマイナス2、というふうに。



そして慰霊や支援が全て終わった時点で、できるかぎり体力「5」は残っていてほしい。



そのためには、日本にいるうちから、「10」よりちょっとうえ、「11~12」くらい体力をもっておく必要が出てくる。



わけで。

ごたくはおいといて。



パダンへは、格安航空会社のうち、ちょい高めの、ライオンエアにのった。

これは、現地でチケットをとったとき、この航空会社しか残ってなかったため。



他にインドネシアには、五つくらい格安航空があるようだ。



タクシーは高速にのり、20分ほどで、空港についた。

それからパダンへいったけれど、その間の記憶があんまりない。



たぶん、かなり緊張はしていたはずだ。

なぜなら、大地震の2ヶ月後で、ホテルなどの高層建築は、のきなみ倒壊したときいていたから。

それに、10万人が職を失い、街はほとんど壊滅状態ともきいていた。



死者の数はさだかではなく、ともかく、すさまじい被害の被災地を思い浮かべていた。



どこをどうやっていったか覚えていないけど、多分夕方か、夜のはじめに、予定していたゲストハウスに着いた。



おそらく外が暗かったので、被害状況は分からなかった。

ゲストハウスの周りは、ふだんどおりの生活があった。



そして次の朝目を覚ました。



(つづく)




(ジャカルタの集合住宅で。手渡したぬいぐるみを手に)


のびのびボランティア紀行
(ジャカルタのスラム。集合住宅の子どもたち。みんな日本のこどもと何にも変わらない)




今回はおばかなことを話すぞ。

おばかなんかに、付き合ってられない、という人は、どうぞご退場を。

出口は後方、右手にありますんでー。



私たちの泊まったタマティックホテル。

これが一筋縄ではいかないホテルだった。

経営者は中華系で、ホテルとはいっても、総合アミューズメント施設、といったかんじだ。



ホテルの敷地は広い。

奥へ行くと、マッサージと「浴室」がある。

浴室といって、日本みたいに、すてきなスーパー銭湯があるわけじゃない。

ずばりいうと風俗店です。



このへんから、18禁の話題になるので、18才以下の方は、どうかご退場下さい。出口は後方、右手にありますんでー。



ホテルの施設見取り図があった。

よくみると、私たちの泊まっている5階の下、3、4階がカラオケルームになっている。これは、家族みんなで楽しむカラオケというよりかは、おじさんたちがダマになって、水割りを傾けつつ、綺麗な女の人とお話しするタイプのやつ。



その下の2階に、なぞの「ミュージック・ホール」があった。

文字通りよむと、音楽室。

つまり、何かしら音楽がきけるホールのようだ。

私は、旅先で、現地の音楽をきくのを大の楽しみにしている。



だから、受付の人に、ミュージックホールって何ですか、ときいた。

受付の青年は、なぜかにやりと笑った。



「ご自分の目で確かめたらいいですよ。誰でも入れますから」



その言葉を信じて、なかに入った。

うすぐらくて、だだっぴろいホール。

確かに、ドラムセットやギター、ベースギターなんかが置いてある。

でも前の方の席には、やはりおじさんが、綺麗な服を着た女性といっしょに水割りをかたむけている。



なんだ、いったいこのホール。



それが分かるまでいすわろうと、ジンジャーエールを頼んで、後ろの席に座った。



しばらくすると、はしっこのテーブルに、着飾った女性たちが、わらわら現れて座った。こっちを見るでもなく、ぼーっとしてる。



すると、少し年配の女性がきた。



「あそこにいる女性と話しませんか」



ずばり言って、ホステスのあっせんだ。

そんな遊びをするほど、予算がない。

遊んでも何も問題ないとは思うけど、遊べないから、とりあえず値段だけきいた。



その値段は、えーっと思うような高額。

はじめは、ぼってるのかな、と思った。

でも、よく話をきくと、いっしょに部屋に行くサービスまであるっていう。



うーん・・・



ますますもってよくわからない、ミュージックホール。

ひとりで、ホステスさんたちをお断りして、ジンジャーエールを飲んでると、となりに若い中国人たちがきた。



とてもきさくな兄ちゃんたちで、一緒に飲もうということになった。

断る理由とてさらになく、ビールのピッチャーを傾けて乾杯。

だんだんと酔いがまわってきた。



あいては中国語なので、何話してんのか、わけがわからない。

こっちは、「うん、OK.OK」となぞの応対を繰り返すばかり。



しばらくすると、中国人の男の子たちが、ホステスの子を呼んだ。

それでいっしょに楽しくやろうということに。

中国人が、北京語のポップスを歌い、大盛り上がりだ。



インドネシア人の女の子は、21才ということで、ぽっちゃり系のインドっぽい顔立ちがかわいらしかった。



「あんたも何かうたえ」


ということに。こういうこともあろうかと、歌う歌を考えていたところだった。

BEGINの”恋しくて”なら、歌詞の意味が分からなくても、メロディーがいいので受けるだろうと思った。



インドネシア人の、ホールスタッフに「KOISHIKUTE」というと、何と、即流れてきた。おなじみの、ブルース調のイントロ。



舞台にあがれ、となり、ビールでだいぶ酔ってもいた私は、おばかにもみんなの前で舞台にあがった。



そのとたん、全てのまともな判断力がぶっとび、「恋しくて」を力いっぱい熱唱。ほんとうにいい歌だなと思いつつマイクをおくと、やんややんやの大喝采。



調子がよくなって席にもどった。



そのまま楽しく2時まで飲んだ。すると閉店だという。

さっきのホールスタッフのインドネシア人青年がきて、いっぱい一緒に飲もうという。もちろん断る理由などさらになく。



彼の話をきいていると、胸にしみじみ、ジャカルタのたいへんな暮らしがせまってきた。



彼は家族の中で一人だけこうして働いている。弟や妹の学費の面倒を見ているという。夜勤であり、これからホールを閉めたあと、上の階のカラオケで働くという。



「ハァー・・・ ほんとうに疲れたよ」



ととても辛そうだった。



「そろそろ仕事に行かなきゃ」と青年は立ち上がった。

これから朝5時までよっぱらいの相手をするという。



「じゃあね。いつかぼくも日本で働きたいよ」

と言い残して、彼は肩をおとしてカラオケルームへ向かった。



日本で働けるということは、そうとう特権的なことなのだ。

それを生まれながらにできる日本人は、アジアの中では、相当恵まれている。



彼の疲れた背中を見ながら、何となくしんみりしてしまった。

これいじょう遊ぶ気になれず、部屋にもどった。

ずっと朝まで、下のカラオケや、ディスコから大音量の音楽が流れてきた。



タマティックホテルは、そんなちょい怪しげなホテルなのだった。



(つづく)








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(集合住宅のなか。洗濯物や台所用具でいっぱいだ)




支援活動は1に体力2に体力、34がなくて5に体力、です。



何しろアジアはあつい。

温度も暑いし、人も熱い。

さらには情も厚い。



だから日本の都会で、冷たい風に吹かれても、アジアにもどれば、暑苦しいほどの人の情に出会える。



とはいっても、こっちにもそれを受け止める度量の深さ、大きさが必要。

つまり人間力を思いっきりためされる。



こっちが腰が引けてると、向こうにもすぐ伝わる。

むしろがんがん押せ押せで行くと、向こうもどんどん近づいてくる。

扉を開こうか、開くまいかとくよくよするより、頭突きで開けるくらいがちょうどよい。



もちろん、そのやり方で何が起きようが、責任を取れるのは自分だけなんだけど。



ジャカルタのスラムの支援も、一段落して、ホテルで休んだ。

このホテル、タマティックホテルという、中級以下のホテルだけど、すぐ近くに超巨大なSOGO百貨店もあって、とても便利。



食事もそこの屋上レストランで済ませられる。

地下一階には食料品売り場があり、ハムでもパンでも、何でもそろう。

さらには両替屋もあり。



ジャカルタ北部に泊まる場合は、本当におすすめです。

空港にも高速で一本だし。



そしてタマティックホテルのいいところは、プンジャリガンの巨大スラムの端に位置しているところ。



つまり、ホテルを出てすぐに、ジャカルタの下町暮らしを見物できる。これはお得。疲れたら、すぐにホテルで休めるし、ちょうどいい。



ぶらりと中小路に入ってみた。

インドネシアの商店街は、熱気たっぷり。

無いものは無いかと思うほど。



センセイと2人で、小さな麺類やに入った。

イスラム教徒のおばさんが、黄色い麺をゆでてくれた。

油っこいけど、それなりにおいしい。



インドネシア語で、「日本人か?」みたいなことをきかれる。

センセイとなぜかコミニュケーションが成立する。

この辺は、センセイの生まれもっての国際感覚が、ばつんと通じる。



麺類屋のおばさんに、「エナックスカリー」、とってもおいしい、というとニッコリ。さいごに、インドネシアのあいさつを教えてくれた。



片手を招き猫みたいにあげて、「アビース」という。

どんな意味だか、ぜんぜんわからなかった。ただ、多分いい意味だと思った。



その後のインドネシアの旅の途中、なんかいも、「アビース」をやってみたが、まったく誰にも通じなかった。なんだったんだろう。



「アビース」の意味の分かる方、コメント下さい。



(つづくよどこまでも)


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ジャカルタの集合住宅の玄関で。イスラム教徒の親子




ジャカルタの海のように広大なスラム。

その端っこに、その集合住宅はある。

2階建ての長屋といった方が、分かりやすいかも。



小さな部屋が、ズラーッと奥まで並んでいる。

土地不足の日本では、まねできない建て付け。



そんな長屋に、突撃支援を行いました。



文字どおりの突撃。

そのくらいのつっぱりの強さがないと、人間のパワーに負ける。

何しろ、子どもも大人も入り乱れの集合住宅。



その中に入りきれない人たちは、高速道路の高架下に、段ボールで家を建てて住んでいる。



暑い国だから、そういう暮らしもできる。



さて集合住宅。

入ったとたんに、みんな飛び出してきた。

ひとりひとりに、「ドナトル、ダリジェパン!」

と叫びつつ、服を渡す。



ドナトル・ダリジェパンとは、インドネシア語で「日本からの寄付」という意味。

日本の国旗も掲げていたので、日本の支援だと、ひとめで分かったはず。



何しろインドネシア人は親日。

国旗も日の丸カラー。

赤と白。



インドネシアと日本は、今も交流がとてもさかん。

昔はジャカルタのある島はジャワといって、爪哇ともかき、さまざまな文化が日本に流れこんできた。



たとえばコーヒー。

正確に調べてないので、確かなことは分からないけど、多分日本に入ってきた最初期のコーヒーは、ジャワのもの。



きっとインドネシアを占領していたオランダ人が、もたらしたものだと思う。

なぜって、今でも古いコーヒー屋は、「珈琲店」という。

これは、ふつうに読むと、「カヒ」あるいは「カピ」だ。



ジャワあたりでも、コーヒーのことを、コピとか、カッピという。

おそらくオランダ人が、ジャワからコーヒーを日本に持ち込んだとき、ジャワでの呼び方をそのまま広めたんでは。



とにらんでいる。ワタクシは~。



ともあれ、ジャカルタは文化のるつぼ。東西入り乱れてのジャカジャカ・ルタルタなシェイキング・シティー。



そのスラムなのだから、パワーは半端なもんじゃない。

顔立ちを観ても、マレー系もいれば、インド系もいるし、どっかトルコあたりから飛び火したような人もいる。もちろん中華系も。



そんな人たちに、アサラーム・アライクムとイスラム式のあいさつをしつつ、もんでもまれて、もみころされて。



気がついたときには、スマイルが広がっていた。




のびのびボランティア紀行
(集合住宅のなか。すさまじい熱気)




少子化問題どこ吹く風。

ころころ生まれるこどもたち。

人口は二億だとか?



そんな人の海にこっちはたった2人で対抗するので、汗だく、汗まみれ。



ほとんどふらふらになりながら、あれよあれよのあいだにバッグの中はからっぽになった。



さいごにみんなで一緒にポーズ。



へとへとでホテルにもどったテラの会であった。




のびのびボランティア紀行



のびのびボランティア紀行
(子どもとぬいぐるみ。ベスト・マッチングなショット。ジャカルタのスラムにて)




二年前、ジャカルタのことを、話していて、止まってた。

たぶん、つぎの活動に、アジアのどこかへ行っている間に、忘れたのだろう。



いやになるほどアバウトな性格だ、自分。

でもいいのさ、2年ぶりに話のつづきは、はじまるのだから。



ジャカルタの活動記録、①~⑤を、ムリに要約すると;



台湾経由でジャカルタに着いたテラの会。右も左も分からないまま、港の近くのスラムにむかう。そこがスラムというより、広大なの貧民の海だったことに、かなりショックを受ける。



その後、気をとりなおし、スラムのはしにあるホテルに泊まった。次の日、スラムに入って活動をする予定を立てたのだが・・・



要約終わり。

こうして話していると、だんだん思い出してきた。

あの日も暑かった。



ホテルの裏は、本当にすぐスラムになっていて。

高速道路が通っていて、その高架下に、住む家のない人たちが、段ボールや、木切れで家をつくって、暮らしていた。



ホームレスといえば、日本では、もうある程度年のいった人のイメージがある。



でもジャカルタは違う。赤ん坊もいるし、若い女の子もいる。



そういった事情を、あらかじめ予測して、いろいろな衣服をとりそろえて、日本から持参していた。



全て、日本の支援者の方たちから、寄付されたもの。

感謝、感謝。



さて。

ふう。

何から話せばいいのかしらん。



とりあえず飲むヨーグルトを一気のみした。これは現在の話ね。



朝10時ごろだったと思うけど、センセイと、大きなバッグを持って、よし! とばかりにホテルを出た。



といっても、ホテルの玄関を出て、脇道にはいるだけ。

そこには小さなどぶ川があったと思う。

そのどぶ川にそって、小さな商店が並んでいて、その小道を奥へいくと、鉄の扉があった。



その向こう側が、スラムというわけだ。



鉄の扉は、開け放してあった。

かんたんに中に入れた。



入るとき、門番の男に声をかけられた。



「あんたたち、どこへ行くんだ?」



「衣服を手渡しに行くんだ」

と大きなバッグを見せる。



「ああ・・・そうか」



何となく私たちのやりたいことが、わかったみたい。

門番は何もいわず通してくれた。



中に入り、どこへ行こうかと思う。



何しろ、どこまでもスラムは広がっている。

道は、泥でぬかるんでいた。

もちろん舗装なんてしてない。



歩きながら、センセイがこどもたちに、おもちゃや、ぬいぐるみを渡している。



わーっと嬉しそうな声をあげる、子どもたち。



その声を合図にしてなのか、人が集まってきた。




のびのびボランティア紀行



そんなに大騒ぎにはならない。

静かな興奮といったところ。

そのあたりは、イスラム教徒のコミュニティーがある。



朝と夕方、決まった時間にコーラン(イスラム経の経典)が詠唱される。



詠唱とは、つまりは、ふしをつけて歌うこと。

そのふしは、まさしく「い~しや~きいも~」と同じ。

あるいは、お相撲の、「ひぃが~しぃ~、きょ~くてェんほぉ~~~」という、アレそっくり。



それが、町内放送のスピーカーで、耳もわれんばかり、どでっかく流される。



ま、そんな場所です。



道々、ものを配りながら、歩いていると集合住宅の玄関があった。



よし、この中なら、きっと子どもがたくさんいるだろう、と当てをつけて、中に入った。



(つづく)





のびのびボランティア紀行



気がついたら、だいぶ前に、ジャカルタのこと、お話ししてた。



それがいつもながらの尻切れバタフライ。



失礼しました~



このへんから、見直しとてくだっさい。


ジャカルタ①

(小さなおもちゃと女の子。楽しいよね)