のびのびボランティア紀行

(手渡したぬいぐるみを手に。ジャカルタ集合住宅で)





朝、自分でいれたコピをのみつつ、身支度をした。

きょうはこの旅の目的地、パダンへ行く日だ。

パダンは、その日の2ヶ月ほど前、大地震があった。



スマトラ島の、バンダアチェ州のとなりで、マグニチュード8以上の、大地震が多発するところだ。



そこに、慰霊と支援に行く。



太平洋戦争中は、日本軍が進駐していた。

その時代の基地なども残っている。



ちょうどスマトラ島のインド洋側に位置している。

大航海時代よりもずっと前から、世界の海洋交通の要所として、とても大事な場所だった。



マレー人や、アラビアのイスラム教徒、また中国人、大航海時代に入ってからはポルトガル人やオランダ人など、あらゆる人種のひとびとがやってきた。



そのパダンの原住民族といわれるのは、ミナンカバウという人たちだ。

穏やかな性格で、女性の方が男性よりも優位に立つという、独特の社会習慣がある。



一族の土地や財産を、男子ではなく女子がつぐのだ。

つまり母系社会というわけ。



パダンに関するうんちくはさておき。



私たちの泊まったホテルは、ぐうぜん、とても交通の便のいい場所にあった。用意をととのえて、チェックアウトすると、すぐにタクシーが見つかった。



というよりも総合アミューズメント施設のようなホテルなので、朝から晩まで、ずっと玄関にタクシーが待っている。これはわざわざ通りまでいって、タクシーをつかまえてくるたいへんさを考えると、しごく楽だった。



ジャカルタで半分ほどに減った、支援物資をトランクにいれる。

一人につき20キロから30キロの航空手荷物として、持ってきたもので、二人でおよそ60から70キロほどある。



それを自分たちの手で運ぶ。

身体を酷使する活動形態だ。



ひざや、腰など、とくに負担がかかる。



ときには、タクシーから降りて、目的地まで2-3キロ歩くときもある。

そんなときは、30キロの荷物を抱えて、文字通り汗だくで歩く。



だから、私は思うのだ、支援は1に体力2に体力、34が無くて5に体力と。



日本にいるあいだ、支援活動の予定が入っている場合、私は体力づくりをかかさない。そうしないと、活動の途中にへばってしまう。



だいたい、日本を出るときの、充実した体力を「10」として、あとはマイナスで考える。



まずは行きの飛行機で、マイナス0.5。

気候や天候の落差でのダメージ、マイナス1。

もしも食べ物が合わず、おなかをこわせばマイナス2、というふうに。



そして慰霊や支援が全て終わった時点で、できるかぎり体力「5」は残っていてほしい。



そのためには、日本にいるうちから、「10」よりちょっとうえ、「11~12」くらい体力をもっておく必要が出てくる。



わけで。

ごたくはおいといて。



パダンへは、格安航空会社のうち、ちょい高めの、ライオンエアにのった。

これは、現地でチケットをとったとき、この航空会社しか残ってなかったため。



他にインドネシアには、五つくらい格安航空があるようだ。



タクシーは高速にのり、20分ほどで、空港についた。

それからパダンへいったけれど、その間の記憶があんまりない。



たぶん、かなり緊張はしていたはずだ。

なぜなら、大地震の2ヶ月後で、ホテルなどの高層建築は、のきなみ倒壊したときいていたから。

それに、10万人が職を失い、街はほとんど壊滅状態ともきいていた。



死者の数はさだかではなく、ともかく、すさまじい被害の被災地を思い浮かべていた。



どこをどうやっていったか覚えていないけど、多分夕方か、夜のはじめに、予定していたゲストハウスに着いた。



おそらく外が暗かったので、被害状況は分からなかった。

ゲストハウスの周りは、ふだんどおりの生活があった。



そして次の朝目を覚ました。



(つづく)




(ジャカルタの集合住宅で。手渡したぬいぐるみを手に)