パダンのイスラム教徒コミュニティーで。衣服を渡しているところ
パダンだー。
とりあえず言ってみた。
パダン。
「あーパダンね」と分かってくれる人、どれだけいるだろう。
ほとんどいないだろう。
2009年に大地震があった。
マグニチュード7.6といわれているけれど、現地の人の感覚では、それ以上あったらしい。
それで街はこのありさま。
さいわいだったのは津波が来なかったこと。
2004年のスマトラ沖地震では、大津波が来て、となりのバンダアチェは徹底的に破壊された。
現地の人によると、地震の来たあと、みんな津波を怖れて高台にあがった。すると海があふれて、川をどんどんさかのぼってきた。
それでも、土手がきれるまでは至らず、少しずつひいていったという。
もし津波が来ていたら、被害はこれでは済まなかった。
とはいえ経済活動は、ほとんどストップした。
大手の銀行や、デパートは、倒壊して営業できなくなった。
そのとき復興のはじめの声をあげたのが、地元の市場だった。
私たちが訪れたときも、市場は地震なんてあったのか、と疑うほどの大盛況ぶりだった。
バナナや、トロピカルな果物が売り買いされ、貴金属店もあった。
外貨両替は、そこでできた。
パダンは、スマトラ島の西部では最大の都市だった。
だからまわりの地方から人々が集まり、商業活動を行う。
その市場の活気がなくならないかぎりは、パダンは大丈夫だと思った。
さて私たちはホテルをかえた。
もう少し町の中心のあたりにうつったのだ。
地震の前は、高級ホテルとよばれるホテルがたくさんあった。
というのは、外見は立派でも、耐震構造は弱くて、大地震のあとの余震で、だんだんと倒壊し、とうとうぼろぼろになってしまっていたから。
そこで残ったのは、2階建て以下のホテル。
私たちの見つけたのは、エマニュエルホテルといって、オランダ人が設計した石造りのホテル。
そのホテルも、ところどころ、壁が崩れかけたりしていたけど、みんな見て見ぬふりをして、やっとこ営業していた。
エマニュエルホテルは、レストランや中華街、私たちの慰霊の目的地である、旧日本軍のつくった砲台に近かった。
海ぞいにあり、あるけばすぐに砂浜へ出れる。
そこでとりあえず落ち着くと、次の日からの計画を練った。
まずは、近くのイスラム教徒の貧民街で、衣服支援。
その後、川をわたって向こう岸へ行き、砲台で慰霊。
全て済めば、帰国する日まで休む。
じつは帰りの飛行機さえ、とってなかった。
非常に大胆というか、てきとーな計画だ。
そうならざるを得なかったのは、被災地のパダン、先のことは何ひとつ分からなかったからだ。
ホテルを移動したあと、センセイと大衆食堂に夕飯を食べにいった。
その食堂は、黄色い麺類のそばしかなかった。
テーブルも何もかも、最低限。となりには、地震後ゆいいつ営業していた美容室のあるビル。
そのお世辞にもロマンティックとはいえない食堂で、黄色い麺を食べていた。
すると、小さな男の子が、ボロをまとって物乞いに来た。
地震で被災して、そのままストリート・チルドレンになったのだろう。
レストランの客たちは、ちらちら見て、哀れそうな顔をするけれど、誰もお金をあげようとしなかった。
仕方がない。客自体が、生活に困っている。自分のことで精一杯なのだ。
周りは、がれきの片付かない街。先のことは何も分からない。
ストリート・チルドレンの男の子は、私たちのところへ来た。
お金をくれ、と手をさし出す。
お金を渡すのは、ためらわれた。何故なら、大人が物乞いをさせていて、後で巻き上げるかもしれないし、子どもも、食べ物を買うよりも、シンナーなど薬物を買ってしまうかもしれないからだ。
路上の生活に耐え切れず、薬物に手を出す子どもはあとをたたない。
タバコを吸うくらいは、普通のはんちゅうだ。
私たちがお金を渡さないので、男の子はあきらめて、店の前をとぼとぼ行こうとした。
センセイが、自分の食べていた麺をさして、これが欲しいか、ときいた。
それは、おなかが減っているか、同じ麺を買ってあげるよ、という意味だったはずだけど、子どもは、たべかけの麺を食べたいか、ときかれたように思ったらしい。
おなかは減っているはずなのに、首をふって、いらないと言う。
それなら、と私は立ち上がって、男の子を手でよび、麺をゆでているところを指さして、「食べるか」とジェスチャーで示した。
はじめはとまどっていた男の子だったけれど、やがて、頭をたてにふった。
店の人に一杯の中華そばのような麺を頼み、子どもに食べさせて欲しい、といった。
店の人は、「よかったな、ぼうず」というように、笑って麺をゆでた。
男の子は、私たちのテーブルについて、麺を食べた。
店中の客たちが、ほほえんで見ていた。
きっとみんな、助けたいのはやまやまなのだけど、そんな子どもは山のようにいるし、きりがないから、放っておくしかないのだと思う。
男の子は、私たちを信用したのか、のどがかわいたという。
店の入り口に冷蔵庫があり、ジュースを売っていたので、買ってあげた。
男の子は、すぐにストローをさして飲んだ。
その姿を見て、とりあえずはこれでいい、と思い、私たちは店を出た。
こんなふうに、経済的に困窮している国で、地震などの自然災害にあうと、その日からすぐに路上生活者が大量に出る。
東日本大震災では、スマトラのパダンよりも被害は大きかったけれど、路上生活者は出なかった。是非はともかく、避難所がすぐに用意された。
そういうところにも、日本と他の東南アジアの国との違いが見える。
パダンで会ったあの男の子、いまは元気かな。
もう一度パダンへ行くつもりが、3年もたってしまった。
(つづく)
