のびのびボランティア紀行
(パダンの中国寺院にお参り。じつは線香が欲しかっただけ)





パダンの話が長くなりましたわ。

はじめからみたい人はこちら⇒クリック



とうとう帰る日がやってきた。

その日が来るまで、ホテルでひっくりかえってひっ算のおさらいしたし、九九を逆から言えるようにもなった。



その他、となりのレストランのステージで、ビールとラム酒でできあがったあげく、一曲歌ったりもした。



スラウェシ出身のアバズレ姉ちゃんが、白人3、4人を引きつれて毎晩飲み歩いてるのも見た。



そういうこともありなんで、帰る日になったというわけ。




のびのびボランティア紀行
格安のライオンエア。なかは生活臭たっぷり。赤ちゃんの黄金爆弾テロも。



この飛行機でおこった、イスラム過激派(推定年齢ゼロ歳)のテロ未遂事件については、さきに話したので、参照してもいいでしょう⇒こちらクリック



まあそういう、けっこう厳しい状況で、ジャカルタに到着。

その後がまた、けっこう厳しかった。



翌日のタイペイ経由、成田行きの中華航空まで、16時間くらいあった。

ひたすた、空港をうろついたり、ハンバーガー食べたり、はては寝転がったりしてすごした。



もう飛行機に乗る頃には、くたくた。



いま思い出すと、よくもあんな、非人道的手段で、人道支援を行ってきたもんだ。



成田に帰ると、もう12月の末で、何だか寒さが気持ちよかった、気がする。



その数日後に行った、カンボジアのプノンペンの写真をのっけて、ジャカルタ・パダン編をこのへんで、切り上げたいでございます。



また来てね。

また見てね。

どうせまた、たらたらしゃべるから。




のびのびボランティア紀行

快食快眠運動が、早くも崩壊のピンチ。

何とかならないかな、と無責任に考えるこの頃です。

どうでもいい話だけど。



さてテラの会はパダンで、全ての活動を終えて、帰国の日まで、死んだセミみたいな日々を送っていました。



センセイは、さすがに人生の達人とあって、和歌をつくるなど、そういう時間の使い方も上手です。



わたくしことコータは、とても苦手。

何をしていいのか、わかりません。



仕方がないので、となりのレストランの、ミナンカバウ人の兄ちゃんと、だべりに行きました。



そのとき、たまたま、日本製の雪駄(せった)をはいていました。

雪駄は、下駄みたいに、木でできているけど、底がひらぺったい。

何と意外にも、その雪駄に、ミナンカバウ人の熱い視線が集まったのでした。



「コータ、そのシューズ、くれ」



とミナンカバウの兄ちゃんは言います。



「あげるわけにはいかんな。貸すならいいけど」

といって、はかせてあげました。



すると、とっても喜んで、歩き回っています。



「これ、すげーはき心地いいな。

こういうの、欲しい」



木なんか、そのへんにいくらでもあるから、つくればいいじゃんか、と思いました。でも、日本の職人さんが、ちゃんとつくった雪駄だから、やっぱり違うんだろう。



「日本人はすごいな。こんな靴つくるなんてな」

とミナンカバウの兄ちゃんは、しきりに感心してました。



こんど来るとき、買って来てあげる、と安うけ合いしたけど、もう三年もたってしまいました。



ことほどさように!

日本の何でもない日用品、それも伝統的なやつは、海外で受けるのです。

焼き物とかも、毎日つかうようなものに、じつはじっくり心がこもってるのが、日本製品なんです。



それを、感性のするどいアジア人は、びしっと見抜きます。

ヨーロッパ人、アメリカ人は、たいがい無視します。文化が全く違うので、理解できないのでしょうか。



ラブストーリーとは、全く関係ない話になってしまいました。

しかし、もう一度、今こそ、日本人は、何げなく使ってる道具やなんかの、日本伝統のものが、いかにスゴイかを、気がついた方がいいでしょう。



そしてそれら普通の道具類は、もはや日本ではあんまり売れないけど、アジア方面の文化が似てるところへもってけば、ばりばりもてはやされるんです。



これって本当ですよ。ただ、あまりにも当然その通りなことなので、誰もあんまり気がつかずに、やってないだけです。



アメリカやヨーロッパで認められないと・・・、みたいな強迫観念は、このさいポイ捨てしましょう。文化があんまりにも違う彼らには、正直言って、馬の耳に念仏状態です。



これをタイ風にいうと、”水牛に胡弓をきかせる”になるそうで。つまり価値の分からない者に、価値の高い物を与えても、わかりゃーせんということ。



だから。ヨーロッパに出品するお金があったら、アジアの都市で見本市ひらくといいです。だって、ヨーロッパで1回やるお金で、アジアなら10回はできますから。



おんなじように、文化公演とか、コンサートも、ヨーロッパやアメリカで1回やるより、アジアで10回やった方が、これからはゼッタイに勝ちです!



マジ、本当に。



(つづけさせて、下しゃんせ)




 (パダンの子ども。大きくなったら何になるのかな? ちゃんと歯みがきしなよ)




まったくこの世ってのは、何なの。
といいたくなるときがある。


そんな神秘をもっとも感じさせてくれるのが、恋愛、なんではないでしょうか。


なんであんな男にこだわってたんだろ、とか、
どうしてあの子と結婚しなかったのかのな、とか、
さまざまにあると思う。


甘い思い出、苦い思い出。


スマトラ島のパダンでも、そんな恋愛中毒者が増殖中。
というか夜になると、海そいだからか、または赤道直下で暑いからか、インドネシア人カップルを見ない夜はなかった。


日本でも毎晩見るけどさ。


それで、パダンの恋愛のカタチってものを、部外者の目で観察させてもらったんだ。


恋愛のパターンその1、あい引きする。
みんなどこでどうやって会ってるのか。
会わないと、愛も語れないし、ケンカもできない。


たまたま、夜暑くて眠れなかったぼくは、海ぞいの海の家みたいな店にいった。


ふらりと入り、ビールでも飲んで帰ろうと思っていた。
海の家は、夜のあいだも営業している。しかし節電中なのか、なぜか真っ暗。


ふしぎに思いつつ、一人でビールを傾けていた。
だんだんと暗さに目がなれ、店の中が見えてきた。
すると・・・


暗いなかに、人影が。それも3組くらい。
どうみてもカップルだ。


目の前は砂浜、そして海。真っ暗で誰もいない。
さらに海の家は、ラブな空気を演出するためか、甘いインドネシアのラブソングを超大音量でかけている。


これはたぶん、となりのカップルの話声とかを気にせず、思いっきりいちゃつけるように、との店側の配慮だと思う。


なんだよー、おれだけ一人かよー、みたいな気分になってきて、すぐに店を出た。


目の前は、道路。ずーっと砂浜ぞいに道が伸びていて、ちょうどパダンの市街をぐるっとまわっている。


その道路を、ひっきりなしに、スクーターがぶんぶん。
よく見ると、乗ってるのはやっぱりカップルで。


2人でピチッと身を寄せ合って、一本しかないその道路を、ぐーるぐる。ひたすらまわってる。


恋愛とバイクは、切っても切り離せないもののようだ。


またある夜。
ホテルのそばがやかましいので、何だろうと思い、出てみた。すると、すぐとなりのレストランが、土日だけ、カラオケ屋になっていた。


どうせなら一緒に楽しもうと、その家族みんながカラオケしているレストランに入った。


まだ夜9時くらいだったので、夜に弱いセンセイも来ることができた。


レストランは、屋外のテーブルがあり、星空がきれい。
目の前のステージでは、イスラムのスカーフをつけた奥さんと、ダンディーなだんなさんが、デュエット。


奥さんの方が歌の先生みたいで、ダンナを横から
「ちょっと、違うわよ」みたいな感じでつついている。


そんな和気あいあいのレストランで。
ふととなりを見ると、ひとつのテーブルに2人の男女が向かいあって、しっかりと目と目をみつめあってる。


女の子の方は、やはりイスラムのスカーフを巻いている。つまりは2人は親公認の仲で、もう少しで、結婚、てな雰囲気。


夢を語り合っているような、その2人の周りだけ、ノウミツなラブのフィーリング。


ステージでは夫婦がデュエット、それを見ている夫婦の子ども。


「じゃ、歌うよ」
とセンセイが立ち上がった。


ビールでかなりできあがっている。
ぼくは、「歌うつっても、インドネシアだよ、日本の歌あるわけないよ」と止めた。


無視してステージに上がるセンセイ。
その日はスペシャル・ナイトで、キーボードの生演奏つきだった。


ステージにのぼったセンセイが、キーボードひきのヒゲの男性と、何かしら打ち合わせしている。


OK、分かった、みたいな感じでうなずいたヒゲの男性。
そしてイントロがなり、センセイが歌い出したのは・・・


♪ は~はは、きましぃた、
 今日もきぃた


なんと「岸壁の母」。
ぼくは耳を疑った。しかもキーボードのヒゲ男性と、ぴったり息が合っている。ちゃんと伴奏している。


1番と2番のあいだ、センセイがだまって間をとると、ヒゲ男性がタラタラタラリラと演歌っぽいソロをかます。


いやはや、合ってる。
さっきデュエットしてた夫婦は大喜び。
ビールをがぶ飲みしながら、大拍手だ。


ぼくはもうそのシチュエーションが笑えて笑えて、必死で息を吸わないとやばいくらい笑った。


となりのテーブルは、今もってドリーミーな夢の中への2人。
そうしてパダンの夜は更けていきました、とさ。


(つづきます、別の話題で)







のびのびボランティア紀行
(砲台の住民のみんなと。漁師さんなので筋骨たくましい)




ふんわりスマトラ。

慰霊も、支援も全部終えて、やることなくなった。

ようするにヒマ。



こうなると、パダンというところは、とにかく何にもできない。



帰る飛行機のチケットも予約できたし、他に何かすることないかな、とホテルにいた。



ぼけっとしてても暑い。



あんまりにも、やることが無いので、ホテルの受け付けの、女の子とダベることに。



またこのホテル、客がいるようで、いない。

ホテルというよりかは、ふつうのオランダ植民地風の邸宅。

それをホテルに改装した、という感じ。



受付の子は、パダンの原住民、ミナンカバウ人だった。

ダベるなら、もち恋の話。コイバナ。



やっぱり若い女の子だけあって、恋の悩みをもっていた。



「わたし、付き合ってる彼がいるんだけど、住んでるところが、ここから10キロも離れたところなの」



「ふーん。じゃあどうやって会うの?」



「週末に彼が遊びに来るのを待つだけ」



だってさ。ちなみにミナンカバウ人は、イスラム教徒だけれど、女性の方が強い。強いし、ダンナにも、ずばずばモノをいう。



その受付の女の子も、スタッフのどう見ても年上の男の人を、ばりばり使い倒していた。



基本的に結婚してなければ、スカーフは巻かなくてもいいみたい。

スカーフといえば思い出した。

パダンの地震のあと、唯一残った美容室。



ぼくも髪を切りにいったのだけど、3日間かよっても、つねに満員だった。

最新式の設備をそなえた美容室は、ミナンカバウ女性に大人気。



その待合室で待っていると。



ストレート・パーマをあてていた女の人が、終わってお金を払いにきた。

インドネシア人は生まれつき天然パーマが強いみたいで、まっすぐな髪には、なみなみならぬあこがれがあるようで。



その女の人も、つやつやのピッカピカのストレートにしていた。

キレイな髪だなあ、とぼんやり見ていると。

お金を払ったあと、彼女は驚くべき行動に出た。



せっかくストレートにした髪を、スカーフですっぽり隠してしまった。



なんで!? せっかくキレイにしたのに、ひとに見せなくていいの?



どうやら、そのへんがイスラムの美容のツボらしい。

スカーフは巻く。でもそのなかみは、めっちゃくちゃ丁寧にキレイに飾る。

でも隠す。



あるイスラム女性によると、「髪の毛もプライバシーですからね」だって。

つまり髪の毛さえも、外で見せるのは恥とされるみたい。

それでも部屋のなかなどでは、わりと平気。



そんな日本の感覚からすると、「えっ!?」と思うようなことが、多々あった。

そんなことでも、これからぼそぼそ、語ることにしようかな。



眠眠(みんみん)。



(つづきます)



日本兵とインドネシア人の間にできた、日系3世の少年。アジア一帯には、そんな話がたくさん



パダンの砲台の慰霊を終えてホテルで休みました。
上の写真は、その時のもの。
サーフィンのガイドをして稼いでいた青年。


英語ができたので話がきけました。
北海道出身の日本兵を祖父にもつ、日系3世だった。
インドネシアには、同じような話が各地に残っています。


ティモールやフローレンス島の方で、伝説のように語られる話。
「美人島」とでもいうような島の話です。


太平洋戦争の時、インドネシアを占領していた日本兵の、位の高い人たちが、ジョグジャカルタなどの都会から、えりすぐりの美人をつれて、とある島に移ってきた。


その島に日本人と美人は一緒に住み、子供をもうけた。
しかし連合軍の反撃がはじまり、日本兵は敗退して、日本に帰ってしまた。


そして島には美人と子どもだけが残った。
だから、今でもその島には、日本人の血を引く美人が多い。


そのような話は、まことしやかに語られています。
事実の確かめようはありません。


かつて戦時中、”ジャワの極楽、ビルマの地獄、死んでも帰れぬニューギニア”という噂のようなものが、兵隊の間でささやかれていたといいます。


ジャワとは、インドネシアのこと。


だから、インドネシアのおいしい果物や、美しい人々のことが、当時から日本の軍隊で噂になっていたのは確かです。


ジャワやスマトラに行った兵隊さんの中で、現地の女性と恋におちた例があったことは、容易に想像できることです。


何しろ数万人単位の男性が、移動してくるのです。
それもほとんどが若者ばかり。恋のひとつも知らず入隊する人も多かった。


もちろん慰安婦のような存在を、無視することはできません。
とうぜんのようにそういう仕事はあったでしょうし、その労働環境は、とても酷いものだったはずです。


それとは別に、真剣に現地の女性と恋をした日本兵もいたのです。


もちろんその恋は、あまりにあやういものであり、フィリピンでは、恋人に会いに毎晩、隊を抜け出していた兵隊が、ある夜、殺された遺体で発見された、などという哀れという他ない話もあります。


日本兵は、現地人の上に君臨する存在として、尊敬も集め、同時にうらまれてもいたのでしょう。


そういった話は、あまりにも多種多様ですから、ここではふれないでおこうと思います。


ぼくは砂浜の近くの、オランダ人のつくったホテルで休みながら、考えていました。


今でも、戦時中とかわらないような貧しさが、このスマトラ島のあちこちで見られる。


とくに隣のバンダアチェ州は、貧しいイスラム教徒の若者が、イスラム革命の夢を持ち、アフガニスタンや、パキスタン、はてはイラクで自爆テロの要員となるため、故郷を出ていく。


命を捨てても、賭けたい夢とは、何なのだろう、と。


そして67年前、日本人は、その何かしらのため、死を覚悟して町や村を出ていった。


ぼくはひとりで、砂浜に出ました。
どこまでも、スマトラの白い浜がつづいています。
もしも自分が、67年前に、この地に出征してきていた軍人だったなら、何を感じていただろうか。


スマトラの東部は、日本からももっとも遠い、かつて日本領だったいわゆる「大東亜共栄圏」の端の端です。


もちろん、そんな話は、いまの若い人には現実感が無さ過ぎるでしょう。かつてそんなところまで、日本の領土だったとは。


きっとぼくだったなら、何とか正義を探すだろうと思います。
武器を持ち、現地人とは違う特別な待遇を受け、任務を持ってそこにいたなら。


いつかインドネシアに、独立自尊の国をうち立てよう、ヨーロッパの国家の植民地などに甘んじず、自分の力で国づくりをできるようにしてやろう、と思うはずです。


信じられない話ですが、ほんのつい最近まで、アジアの国々は、ヨーロッパの国々の植民地であり、それは必然で当然のこと、という考えが一般的でした。


アジアは遅れているから、ヨーロッパの支配下にあるのは、当たり前なのだと。


その考えが、少しずつ払われていったのは、太平洋戦争の後の話です。


砂浜で、ぼくも考えました。


どうしてアジアは、一方的にヨーロッパに支配されたのだろうか。
そして支配は、本当に終わったのだろうか。
もしかしたら、今でも・・・


もう、やめよう。
あんまり考えたら、きっと頭が爆発するだろう。


ただ、もしも67年前、どうしても逃げることができず、戦うしか道が残されていなかったなら、ぼくだって戦ったはずだ。


現代の、見通しのよくなった歴史の見方で、ものごとを判断してはいけません。


逃げるか、戦うか、どちらかしかない。
そして、逃げる道は、もう無い。


それなら前進して、現実に斬り込んで、どんな高い壁でも突破するしかない。


それ以外が死しかないのなら。


(つづきます)





のびのびボランティア紀行
(パダンの要塞を登る道。汗だくだ)




パダンに砦あり。

その砦、むかしは日本の兵隊がインド洋を監視したものなり。



たまたまいま歌舞伎の曲をきいているので、

なんとはなしに古風な言い方になっておるなり。



やめだ。やめ。

現代風にもどそう。



パダンで衣服支援をしながら、今回の慰霊の主目的、旧日本軍の砦を登る。



赤道直下なので、ものすごく暑い。

風もほとんど吹かず、急な階段を登るうちに、汗が吹き出してくる。

かつて67年前、ぼくらのおじいさんたちは、確かにここにいた。



その感慨をかみしめつつ、一歩一歩踏みしめて登る。



やがて要塞の上に出た。




のびのびボランティア紀行



360度ひらけた視界。

美しいインド洋が水平線までよく見える。

後ろにはパダン市街。



目の前には、ずっと遠くまで砂浜がつづく。

きっと、戦時中、敵が上陸するなら、この砂浜からだと、常に監視していたのだろう。



海から砂浜、全てがよく眺められる。

まさしく自然の要塞。



運よくその砂浜には、敵は上陸しなかった。

しかし、南太平洋の島々から沖縄にかけて、同じような砂浜は、文字通り血みどろの戦場になった。



上陸するアメリカ・オーストラリアの連合軍と、それを水際で防ごうと猛攻撃を浴びせる日本軍。



戦争末期に行われた、そうした上陸戦で、一生直らない戦争神経症になったアメリカ兵もいる。



「ここまで酷い戦いとは、思わなかった」

とは彼らのことば。



日本軍は作戦をつぎつぎに編み出して、山の奥深く穴を掘り、そこに潜んで死ぬまで戦う戦法をとった。



その塹壕(ざんごう)戦は死ぬより辛かった。

絶望した兵隊は、どんどん自決していった。



幸いに、インドネシアでは、そこまでひどい戦いは少なかった。

慰霊をしながら、いろんなことをふつふつと考える。




のびのびボランティア紀行



そこまでしなくてはならなかったのか。

なんとか避けることはできなかったのか。



ぼくと同じ年齢や、もっと下の若者が、飢えやマラリアで、つぎつぎに倒れていく戦場とは。



何なのだろう。



そして今でも、中東のアラブや、パキスタンやアフガニスタン、またアフリカでは、まともにご飯も食べられない若者たちが、武器をとってたたかっている。



太平洋戦争の規模の大きさ、犠牲の大きさを思うと、やるせなくなる。

というより無力感にうちひしがれる。



慰霊に同行して、各地の戦場がどんなふうだったか、身をもって体験するにつけ、悲しさばかり増してくる。



だから誰にも、慰霊などはすすめない。

知れば知るほど、辛いばかりだから。



どうしてもしたい人、しなくてはならないと感じる人が、自分の責任でやるといい。



アジアや太平洋の島、また海や空で、300万人近くのひとびとが、わずか数年の間に死んでいった。



その現実の大きさ、重さは、ぼくの感情や汲み取る力の器を大幅にこえている。こえすぎている。



だから慰霊のことを話すのは難しい。

その場で、感じたことをことばに表すことは、できそうにない。



ただ、この砦の中で、永遠のように敵艦を待ち続けた兵隊は、さぞ暑かっただろうなあ、虫にかまれて気持ち悪かっただろうな。と想像するだけだ。



暑い暑い、日本から遠く離れたインドネシアのパダン。

そのいっかくに、日本人の記憶が、誰にも知られずに置き去りにされている。



(つづく)


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(旧日本軍の砲台のある、かくし砦に住む人たち。衣服支援しているところ)




ユニクロが300万着、ユニクロの衣服を集めて、難民の人たちなどに届けるんだって。



とってもスマートなアイデアだと思う。

アイデアだけじゃなく、実行するわけだから。



たいへんだよ。

世界中の、本当に一着の衣服に困る人のところへ行き、衣服を渡すってのは。



よくおちいりがちなのは、一部の機関を通してだけ、大量に支援物資が来て、そこを通して手に入れられる人と、たまたまそことつながりが無く、一個も手に入れられない人が出ること。



もちろん完璧な支援なんてないだろうから、ユニクロも手探りでやるんだろう。



でも企業として、そういうことを前面に出すのは、今までなかった。

今後に期待、なんてねエラそうに。



それはいいとして。

スマトラ島のパダンの岬に、かくし砦があるんだ。

それは太平洋戦争中に、日本軍がつくったもの。



うまく自然の岩山をいかしてつくられたもの。



その中腹あたりに砲台が残る。



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まじでかい砲台。

たぶん、戦争末期に、艦船からおろして、すえつけたんでないかなー。

トラック島で見たものより、数倍大きかったもの。



日本中をさがせば、この砲台を「わしがつくった」というおじいちゃんがいるだろう。インドネシアの兵隊は、比較的戦闘が激しくなかったので、日本に帰れた人が大勢いるから。



そしてこの砲台の目の前に住むのが、このおばあちゃん。




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ぼくたちがインドネシア語を話せたら、くわしい話がきけたでしょう。

でも惜しいことに、それはできなかった。



このおばあちゃんは、まるで砲台守りをしてるかのように、砲台と一体化した家に住んでいた。



このあたりは漁民の住む地区で、あまり豊かではない。

というよりかなり貧しい。

地震で家が壊れなかたのは、不幸中の幸い。



そんな砲台を通りすぎ、砦をぐるりと巻くように、伸びる散歩道が整備されていた。



その道をどんどん上にのぼっていった。



砲台の上にのっかていた男性が、

「案内してあげましょうか?」

と申し出てくれたけど、丁寧に断って、ぼくたちだけで登っていった。



(つづく)





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(パダンの、旧日本軍のつくった砦に、なんと人が住んでいた。信じられますか)




アジアのへんぴなところへ行くと、驚き桃の木の連続。

その中でも、けっこう驚いたのが、この砲台だ。



その砲台は、パダンの岬にあり、もともと自然に小山というか、かなり高さのある岩山だった。



それを、当時の日本軍が、要塞に改良した。

ほんとうにうまく、自然を利用してつくられた要塞であり、インド洋を航行する船を監視できる。



高さがあるから、上で望遠鏡をのぞけば、けっこう遠くまで見えるのだ。



その要塞には、ちょうど外からはかくれる形で、巨大な大砲がそなえ付けられている。



この隠し砦ができた経緯については、くわしいことは分からない。

私たちが、慰霊と支援に向かったときは、かくし砦は、貧しい人たちの住環境になっていた。



昔日本人がつくった砦に、いまインドネシア人が住むという・・・

何だか不思議な気分です。



その砦をのぼる道は一本しかない。



その道は細い石だたみで、登りながら支援した。

どんどん民家から人がでてきて、衣服を受け取る。



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こんなところまで来て、支援を行う人は、ほとんどいないに違いない。

みんな驚いて、そして喜んでくれた。



とちゅう、地元の警察官が来たが、かるく質問を受けた程度で、おとがめは何もなかった。



猛烈な暑さ。

支援しながら、道をだんだん登っていく。

道は、砲台のある要塞を、まわり込むように上に伸びている。




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「暑いでしょう」


と誰かが、売り物の、冷えたミネラル・ウォーターをくれた。

ありがたくいただいた。渇いたのどに、新鮮な水がおいしかった。



電気が来ているか、来ていないかの住環境なのに、冷蔵庫で冷やしたミネラル・ウォーターというのは、ぜいたく品だ。



それをふるまわれたことに、受け入れられていることを感じた。



どんどん登っていくと、やがて砲台に出くわした。



(つづきます)


のびのびボランティア紀行
(河口の川の渡し舟。少年二人が漕いでいる。風情ありますか~)




パダンだってば。

どこかと問われれば、答えよう。

インドネシアのスマトラ島、その東側だ。



わからないってかい。

じゃあテラの会活動地図を参照してくれ。




のびのびボランティア紀行
(クリックして拡大してください)




左下だ。

パダン、ってあるでしょう。

そこだ。



きょうはやたらとぶっきらぼうだ。

というのは、急いでいるからだ。

快食快眠運動中なので、早く寝なくてはならん。



ジムキョクのそんな身勝手な理由から、無作法な話し方になってる。

あいすまん。



で、パダンだ。



大地震があったってことは、もう確認ずみだよね。

え、知らないって? 悪いけれど、3話くらい前から、読み直してくれないかい。



イスラム教徒のコミュニティーで、衣服手渡しをしたあと、小舟で川を渡ったんだ。



川というか、河といったほうがいい。

すぐ目の前に海がある。でも岬がぐっとまわりこんで、あるからちょうどよく、その河は、あんまり流れが激しくない。



それだから、みんな漁船やなんかを、ぷかぷか浮かしてる。



その渡し場でひともんちゃくあった。

だいたい時代劇とかでも、何かしら起きるのは、渡し場。



私たちは、はじめ渡し舟(アーだじゃれくさい)のあるところを、知らなかった。

すると、にやにやした善人づらの野郎どもが、



「だんな、あっちに渡りたいんですかい」ときた。



「ああ。いくらかい」



「うーん。常ひごろは、あっちまでの渡しってのは、やってないもんで。だいたいサーフィンや釣りなんかで、沖まで貸切で出るのが、あたしらの仕事だもんで。ま、だんながあっちに行きたいってんなら、仕方ない。5万ルピアで行きますぜ」



「ぬぁんだと! 5万ルピア! 

たったあっちの岸まで行くのにそんなにすんの」



「だんながそういうなら、行かなくたっていいですがね」



「ずぁっけんじゃねえ! 日本人だと思ってなめてんのかこの、

バカモノ!!」



漁師らしい3人を思いっきり、怒鳴りつけたセンセイ。

北海道の浜できたえたのどは、もちろんここでも通用した。

みんなびびって、どっかへ消えた。



「5万ルピアなわけあるか」



「まったくだ」



センセイとぼくはフンガイした。

5万ルピアといえば、食堂で2人分の料理が食べれる。

2リットルの水が3千ルピア。いかにぼってるかが、わかる。



ばかものどもをおいて、ほんの少し歩くと、渡し場が見つかった。

あっさりあった。



小さなボロボートを、少年二人が漕ぐ。

流れを横切っていくので、ちょっとスリルがある。



そこの渡し賃は、なんと5千ルピアだった。

さっきの5万は、10回のれるぞ。



そして、着きましたるは、旧日本軍の建てた砲台。

そこはシティ・ヌルバヤといって、なんと人の住み家になっている。

もっとずばりいうと、ひとつの集落か村になっていた。



のびのびボランティア紀行


そこで慰霊した。

向こう側に、砲台と、スラムが見える。ちょうど人目からかくれるので、住みやすいに違いない。



よーし次は、あのスラムに衣服もってくぞ、

と息まいたわたしたちだった。



(つづくのである)



のびのびボランティア紀行
(イスラム教徒コミュニティーの男の子たち。笑うかどには福来る)





インドネシアのスマトラ島、パダンを訪れている私たち。

大地震が多発する危険地帯で、その年(2009年)にも、マグニチュード7.6クラスの大地震があった。



そこへ支援にやってきたテラの会。

ゲストハウスから、二階建てのホテルへとうつった。

そしていよいよ、街中に点在する、貧しい人たちの住む区域へ。



日本から、寄付された衣服を、持てるだけ持ってきていた。

その衣服を持って、海ぞいのイスラム教のモスクを訪ねた。

モスクは、イスラム教徒のお祈りする教会のようなもので、だいたい、集会所と、イスラム学校を併設している。



日本ではあまりなじみの無い光景だけれど、インドネシアでは当たり前。



義務教育では教えない、イスラム教徒として身につけるべき事柄を、教えている。



また、貧しさから学校に通えない子どもたちに、基本的な読み書きや算数を教える場合もある。



イスラム教は、さいきんではアル・カーイダなどのテロリストばかりが目だっているむきもあるけれど、本来は、貧しい人々に優しい、内輪ではとても平穏な宗教なのだ。



それを知る私たちは、イスラム教徒のコミュニティーに衣服を持ち込むのに、それほど不安は無かった。



ただ誇り高い人たちなので、そのプライドを傷つけないか、ということは少し心配した。



それでも心配はいらなかった。

衣服を見せて、「これらを寄付したいのですが」と、モスクに来ていた男性に言うと、すぐに路地に案内された。



その路地は、外からは分かりづらく、奥へ行くにしたがって、広く深くなっていた。



かつてパダンが、高級ホテルの建ち並ぶ、モダンな都市だったころから、この路地の人たちは、ひっそりとここで暮らしていたのだろう。



そして、ホテルの掃除や洗濯の仕事などに、従事していたのだと思う。



大地震でホテルが倒壊した今、彼らのほとんどは職を失ってしまった。衣服を持っていく私たちを、興奮した声が包んだ。




のびのびボランティア紀行



みんなとても喜んでくれた。列ができて、みんな一枚ずつ、衣服を持っていった。



のびのびボランティア紀行



何をいっているかは、わからなかったけど、きっと、

「ありがとう」とか「そのシャツちょうだい」とか、言ってたんだと思う。

笑い声と、嬉しい叫び声があがる。




のびのびボランティア紀行


どんどん衣服を渡して奥へ進んだ。

いつの間にか、路地を抜けて、外へ出ていた。



バッグいっぱいの衣服は、ほとんど無くなっていた。

少年用のものが残っていたので、橋の近くで、全て渡した。



終わってしまえばあっという間。

何かを感じるひまも無かった。



さて次は、河口の川を渡って、「シティ・ヌルバヤ」と呼ばれる、岬へと向かった。



そこには、太平洋戦争のときに、日本軍がつくった隠し砦と、砲台があった。



(つづく)