のびのびボランティア紀行
無料日本語学校で学んだ、日本語を話せるカンボジアのお坊さんと




ニコニコの家に出あったのは、ひょんなきっかけからでした。

センセイがホテルの周りを散策していると、

ワット・ウナロムというお寺が。



その中に入ると、日本語で、「こんにちはー」と

声をかけられたとか。



そこで、不思議に思って、声をかけてきた人に

話をきいたところ、そこが日本人のつくった慈善団体の

施設だとわかったのでした。



ワットウナロムの施設をつくった方は、日本人の

お坊さんみたいです。



ご本も出されている有名な方だそうで、ぜひとも

その本を読みたいのですが、なかなか本屋にも

売っていません。



それは置いといて。



ニコニコの家は、さまざまな社会福祉活動や、

国際交流活動を行っていて、そのひとつが

ここ。



ウナロム寺院の敷地のいっかくに、

子どもたちが集まる集会所がもうけられています。



集まるのは、周りに住むストリート・チルドレンや、

親がいなかったり、貧しかったりする子どもたち。



午前の部と、午後の部とに分かれていました。

そこの職員さんに、センセイが、

「日本から衣服や、文房具を持ってきたのですが、

お渡ししていいですか?」というようなことをきいた。



職員さんは、ぜひお願いします、ということで、

その日の午後1時にうかがうことが、とんとん拍子に

決まった。



そうしてセンセイとぼくの2人は、重いバッグを抱えて、

ニコニコの家にいったのでした。



重いのは重量だけではありません。

日本の支援者のみなさんの、「何かできることがあったら」

という思いも、ぱんぱんにつまって、重いのです。




ぼくたちを心よく受け入れてくれ、

たくさんの玩具や、文房具、衣服を渡すことが

できました。




のびのびボランティア紀行



本当は、子どもたちに直接渡したいという、気持ちは

ありましたが、その日は学校は休みだったようで、

子どもたちには会えませんでした。



次回は、子どもたちと会いたい、と職員の方がたに、

ふたたび来ることを、約束しました。



そうして、2回目に訪問したときには、子どもたちと

会うことができました。



さて物資を渡しおえると、とてもきれいな日本語で

話かけてくる、お坊さんがいます。



「わたしは、ここの日本語学校で、1年間勉強しました」



とても1年間の勉強とは思えないほど、見事な日本語です。

ましてや日本へ行ったこともないのに。



すごいなと思いました。



「どうか私の部屋に来て下さい。

すぐとなりですので・・・」



と言われて、それではと、失礼させていただくことに。

ニコニコの家のすぐ真向かいに、お坊さんたちの

宿舎がありました。



その3階へ登ります。



部屋は狭く、数人のお坊さんが共同で使っているので、

その方の個人用スペースは、カーテンで区切られた、

シングルサイズのベッドの広さのみ。



そこにお邪魔して、たくさん貴重なお話しを

うかがうことができました。



内容は次回に・・・



(つづく)


のびのびボランティア紀行
キリング・フィールドからの帰り道、交差点で信号待ち。となりのタクシーに乗っていたおばさんが、マスクをとって笑ってくれた





カンボジアのプノンペンで、活動したテラの会。

その毎日のことを、こうして思い出しつつ、しるしています。



キリング・フィールドでの慰霊と支援のあと、

帰り道。



交通渋滞で、交差点の車はしばらくとまったままでした。

すると、となりのおばさんが、こちらをしげしげ見つめています。



きっとぼくたちの着ていた、着物が珍しかったのでしょう。

センセイが手をふりました。



するとおばさんは、排気ガスよけのために着けていたマスクを、

(じっさいプノンペンは、旧式の車が多く、大気は最悪)

わざわざとって、ぼくらに笑いかけてくれました。



まるで、クメールの国、カンボジアへようこそ、

と言われているようでした。



さて疲れはてて、ホテルに帰ったテラの会一行。

しかし、ぼくはみょうに昼間の興奮が残っていて、

なかなか休めないのです。



センセイは、タオル一枚の姿で、ぐたーっと

寝ました。



ぼくはホテルから出て、同じ通りの、レストランに

入ってみることに。



カンボジア人の、若い女性が経営する、カフェと

レストランを一緒にしたような、店でした。



シェフが、メニューを持ってきてくれました。

彼とはなすと、なんとベトナム人です。



ベトナムから、出稼ぎに来ているとか。

カンボジア人の奥さんをもらい、プノンペンに

生活の基盤があるとのことです。



ベトナムとカンボジアは、ぴったり国境が

くっついているし、メコン川という同じ川を

共有もしているので、とても交流がさかん。



ウェイトレスに、クメール人の高校生がいました。

というより、高校に行っていたのだけど、

家族にお金がなくて、こうして働きに出たとのこと。



たまたま持っていた、スカーフをあげると、とても

喜んでいました。



その子に、カンボジア語を、教えてもらうことに。



「こんにちは、はなんていうんですか?」



「チュムリアプ・スォ」



この発音が、非常に複雑というか、タイ語をあるていど

やったぼくでも、わかりづらい。



ベトナム語、カンボジア語、タイ語と、いろんな言葉が

まぜこぜのマレー半島です。



タイ文字は、カンボジアの文字を借りて、つくられたとか。



ともかく、「お名前は?」も教えてもらいました。



ターウニエ・チュモア・アバイー。



チュモアアバイー、でも通じはするみたいです。

カンボジアの本当の現地人は、英語がほとんど話せません。

だから、カンボジア語を、少しでも覚えていないと、

まったくコミュニケできません。



そのクメール人の子に、「クメール、というのは英語の言い方で、

本当は、クマェっていいます」



と教えてもらった。クマェ、クメェと、何回もいってみたけど、

違うと言われどおし。



日本語にはない母音もあるし、とっても難しい。

でもなんとなく、ヨーロッパの言語よりも、やさしくて、

やわらかい。



カンボジアの人の、性格の温厚さ、そのままの言葉です。

クマエ語。



そのクマエ、の女の子は、日本語を話してみたい、

といいます。



元気ですか、と教えると、一生懸命練習します。

なんとか、ききとれるレベルになりました。

それで、きっとOKだよ、というと、



「イェーイ!」とものすごく喜びます。

日本語をひとこと覚えたのが、本当に嬉しかったのでしょう。

そんなふうに、カンボジアでは、日本語を学びたい

若者がたくさんいます。



そのための無料の日本語学校もあります。

ぐうぜん、それが、次のテラの会の活動場所になりました。



次回は、そのワット・ウナロム寺院の、「ニコニコの家」

での活動を紹介します。



(つづく)





のびのびボランティア紀行
(キリング・フィールド近く。はだしの足に、日本のサンダルが!)




子ども服支援の、つづきです。

写真を見てもらうと、わかると思うけど、

子どもたちは、裸足の子も多い。



というのは、カンボジアもベビー・ブームで、

子どもはたくさん生まれる。

だけど、育てるお金がない。



政府の公務員などに、何とかなれた人は、うるおう。

その他の人たちは、ほんとうに職がないのです。



だから子どもを物乞いに出すのも、何の恥でもない。

お金は、ぜったいに必要で、観光客は、お金の余裕が

あるから、キリング・フィールドに来る。



余裕のある人から、お金を分けてもらうのは、

むしろ大切な子どもの仕事。



そんなことをさせる親を、責める権利は、

少なくともぼくたちには、ないです。



子ども服をどんどん渡す。




のびのびボランティア紀行



子どもたちは、わぁ! とか、きゃっきゃっと声をあげて、

とても喜ぶのです。



写真でも分かるけど、田んぼや畑は、日照りのせいで、

そんなに収穫はない。



いちど、つくったとうもろこしを食べさせてもらったけど、

もちきびといって、甘さはなくて、栄養もそんなに無い。



日本でいえば、終戦直後より、少しよくなったころの

時代にあたるんじゃないかな。



これが、カンボジアの内陸に入れば、入るほど、

どんどん貧しくなる。



ぼくたちが目にしたのは、ほんとうにそのほんの、一部。



でも、クサいと分かりつつ言わせてもらうと、

そんな貧しさ、暗さ、闇また闇のなかで、

クメール人たち(カンボジア人)の笑顔は、

ほんとうに、美しかった!



アンコールワットなどの、遺跡にも、そんな笑顔が

彫刻されてある。



何と言うかなあ・・・



木とか、花とか、あるいは川なんかが、

もし笑うとしたら、こういう笑顔なんじゃないかな。



さて、子ども服を渡しおえて、

帰ろうとしたら、いばらのやぶの向こうから、

男の子の声がした。



「お金ちょうだい!」

と観光客に、鉄条網から手を伸ばして、

声をかけていた子だ。



ぼくは、その子のことが、やたらと気になった。



だから、やぶの中に、「ハロー、ボーイ!」と

声をかけて、呼んだ。



やぶの中から、男の子が出てきた。



そして、ぼくの手から、ジャージや、Tシャツなどを

受け取った。



そして何だか、意味ありげなポーズをとった。




のびのびボランティア紀行



どういう意味かは、分からない。

とっさに、カメラに向かって、ポーズしただけかもしれない。



でも何となくぼくには、

今はこうして物乞いなんか、してるけど、

いつかは、立派な大人になって、

あなたたちを見返してやるよ、



というような、はねっかえりの強い

元気のよさに感じた。



そういう子たちが、できれば、いい方向に

エネルギーを使って、新しいカンボジアをつくって

くれたらいいな、と

願わずにはいられなかったです。



(つづけましょう)



のびのびボランティア紀行
(キリング・フィールド近くの農村の人たち。子ども服を手渡している様子)




ことばにできないほど、哀しい記憶をもった、キリング・フィールド。

その存在のやりきれなさに、心底めいっていたぼくを助けてくれたのは、

やっぱりカンボジアの人たちの笑顔だった。



キリング・フィールドは、田んぼや畑の中にぽつんと、ある。

その外に出ると、カンボジアの、ごくありふれた農村だ。



観光客は、ときどきお金をくれたりするらしく、物乞いをしに来る

子どもたちもいた。



ぼくたちは、衣服を持ってきていた。

物資を手渡すというのは、かなり気をつかう。

あまり目立つとよくないし、何より、相手のプライドを傷つけないか、

細心の注意がいる。



こんなときは、やっぱりカンボジアの言葉をはなせる人に、

ぼくたちのやりたいことを、

みんなに説明してもらうのがベスト。



そのときは、三輪タクシーの運転手さんに頼んだ。



すぐ近くの農家から、男の子が出てきた。

ズボンが欲しいという。



選び出して、あげると、それからはスムーズに、

つぎからつぎと、子どもたちに渡すことができた。




のびのびボランティア紀行



渡しはじめると、だんだんと笑顔が広がる。

言えばいうほど、クサく感じるけれど、

ほんとに、それがぼくにとっても救いなのです。



パッと花がさくように、衣服を手にした男の子、

女の子が、笑顔を浮かべる。




のびのびボランティア紀行



それまで裸足だった子の足に、サンダルがはかされる。

嬉しさに、ぴょんぴょん、はねまわる子どもたち。



理くつも何もなく、それを見るのが、本当に楽しい。



もっと人材教育が大切だ、という意見もあるでしょう。

そういう意見、みんな正しい。

正しいし、またぼくたちのやることも、正しい。



どちらも正しくて、矛盾しない。

片方が片方を、攻撃しようとか、けなそうとか、

そういう意図がない限り。




のびのびボランティア紀行



センセイは、「この活動は、自己満足」という。

もちろんそうだし、ぼくも、そんな活動に力をそえることが

できて、自己大満足です。



これが、ただキリング・フィールドを見に来て、

それで気分が沈み、そのまま帰るとするなら、

どうだろう。



ちょっとたまらないと思う。



現地の人の、飾らないかおを見るのは、

普通の観光よりも、とっても有意義だし、

思い出にもなる。



もしもあなたに、東南アジアなどへ出かける

機会があったなら、ぜひ、何かしら現地の人を

喜ばせる工夫をかんがえるといい。



べつに物をあげなくたっていい。

折り紙を教えるとか、子どもと遊んであげる、

それだけでいい。



まわりのあなたを見る目が、きっと変わってくるから。



カメラのファインダーから、のぞいて写真ばかり

とるのもいいけど、一歩、近づいてみよう。



きっと新しい世界はひらく。



(つづく)



のびのびボランティア紀行
(プノンペンの川沿い。イスラム教徒がけっこういた)




プノンペンのことを、思い出そうとするのだけど、

なかなか出て来ない。



というのは、ああ楽しかったという体験では、

なかったのは確かだから。



でもルンルン。今日は晴れている。



なんとか記憶をたぐり寄せると、

プノンペンに着いた翌日、キリング・フィールドに

行ったのだとおもう。



キリング・フィールドは、今は観光の目玉スポットに

なっている。



プノンペン市内から車で1時間半ほど。



ひたすらつづく田舎の風景に、あきてきたころに着く。

私たちは、三輪タクシーで行った。



この三輪タクシー。

ものすごく原始的なつくりで、バイクで大八車を

ひっぱるような感じになっている。



つまり、後ろの車輪は、サスペンションもなんもない。

だからクッションが無く、でこぼこの道をゆくと、

猛烈にがたがたゆれる。



がたがたでは済まない、がったんがったん、だ。



ときどき穴ぼこの上を通ると、バウンドする。

そのとき、うかうかしてると、屋根で頭を打ったりする。

だから、じーっと前の道路を見ていて、

穴があったら、

(来るぞ)

と心がまえをしないといけない。



そうしてないと、ケガしそうだった。



そんな悪路を乗りこえて、ついたところが

キリング・フィールド。



ポルポトの時代に、市内の強制収容所などから、

ひとびとが運ばれてきて、ころされたところだ。



日本の感覚からすると信じられないことに、

記念塔の中に白骨が並べられてある。



はっきり言って、さらしものだ。



そのどぎつさからなのか、欧米人のツーリストが

集まって来ていた。



みんな、どこまでがポルポト時代の犠牲者をいたむ

気持ちで来ているかは、分からない。



ほとんど、プノンペンに来て、暇だから来てみた、

くらいな気持ちかもしれない。



暇つぶしに来るような、場所ではないけれど・・・



そのキリング・フィールドで、慰霊を行った。




のびのびボランティア紀行



お骨の入った記念塔の写真もあるけど、

ここではアップしません。



あんまり見ていて気持ちのいいものじゃ、ないから。



キリング・フィールドの後ろは、遺体が掘り起こされた、

そのままになっていた。



昔むかし、そういう厳しい時代がありました、

と振り返るものじゃない、というのは。



周りは田んぼや畑になっていて、

その時代とあんまり変わらないような、

ものすごく厳しい貧乏暮らしをする人たちが、

目に入るからだ。



そしてボロをまとった子どもが、鉄の柵の向こうから、

手を伸ばしてお金をもらう。



きびしい。

キリング・フィールドはきびしい。



目にするものも、だんじゃなくシビアです。



それでも、衣服を持ってきていたぼくたちは、

そんな場所でも、人々の笑顔を見ることが、

できたのでした。



(つづきます)


のびのびボランティア紀行
(弟がタクシー運転手、兄が公務員の一大家族。兄は幼児教育が専門で日本語も話せた)




どんよりと曇った外の天気。

あ、これは現在の話ね。



そんな中、プノンペンのことを話すと、さらに気分がズシーンとしずみそう。

こらえろ、こらえるんだ、スイカでも食べて。



何とかるんるんな気分を、演出していきますので、

よろしく♪



プノンペンに着いたぼくたちが泊まったのは、

王宮近く、ワット・ウナロム寺院のある通りの、ホテルだった。

ホテルとは名ばかりの、そこかしこにくもの巣の

はったようなところで。



それでも日本の有名ガイドブックにものっていて、

わりとポピュラーな宿みたい。



とりあえず、窓のない部屋で一息。

それからごはんを食べに出た。



ずっと中央市場まで下る。

センセイもいっしょだ。



ぼくの見るかぎり、センセイは食に関しては、保守派なのに、

とつぜんタイ東北料理のきのこ汁を、好きになったりする。



カンボジア料理は、ぼくたちの舌に合うだろうか。

ちょっと心配ではあった。



中央市場のまわりは雑然としていて、道路には紙ふぶき。

というか未舗装で、泥だらけな上に、紙くずでいっぱいだ。

衛生観念は、あんまり上等じゃないらしい。



夕暮れどきだった。



屋台のテーブルに座り、麺類を注文した。

ちょうど夕飯の時間帯だったので、若い女の子グループ、

そして落ち着いた女の人と、相席になった。



運ばれてきた麺類を、どうやって食べたらいいか、わからない。

すると、目の前の女の子が、親切に、唐辛子とコチュジャンを

まぜたような調味料を、どさっと入れてくれた。



少し味見してみると、辛い。辛い中に、複雑な味噌の味がする。

これはいける。



親切な女の子たちに、英語で話しかけてみた。

ぽかんとあっけにとられる、女の子たち。

どうやら英語は通じない。



するととなりの女性が、

「この子たち、ベトナム人ですよ」

と教えてくれた。



へぇー、とぼくは、一年間勉強したけど、ざせつした

ベトナム語で、話かけてみた。



ほんの少し通じた。



「エム バォニェウ トゥオイ(君、いくつ)?」



「23」と笑顔がやさしい。

となりに座る彼氏に抱きつきながら、麺類を食べている。



センセイが、何語で話したか忘れたけれど、



「仕事は何ですか?」ときいた。

女の子たちは、なんとなく質問の意味が分かったらしい。



口ごもって、お互いに目と目を見合わせる。

たぶん、あんまり言いたくない仕事なんだろう。



となりにいた落ち着いた女性が、



「カンボジアは、外国人が国籍を取るのが、たやすいのです」

という。



だからプノンペンにはベトナム人が、いっぱいいます、と。



今思うと、少しまえの、猫ひろしさんがカンボジア国籍で

オリンピックに出ようとした話がわかる気がする。



どういうわけか、カンボジアの国籍は、わりと取れるらしい。

といっても、よほどの理由がない限り、日本国籍という、

世界有数の「優良カード」をみすみす捨ててまで、

カンボジア国籍のパスポートをとろうとは、思わないけれど。



プラスよりマイナスの面の方が大きすぎる。

日本は国籍離脱は憲法が保障している。

そのかわり、去るもの追わず、だが入るのはむずかしい。



猫さん、どうするのだろうか。



まあいい。



ベトナム人の親切な女の子たちに、礼をいい、

麺類の代金をはらって、テーブルを去った。



プノンペンは暗くなりかけていた。

見知らぬ街を、夜歩くのは危ない。

とくに中央市場あたりは、細くて暗い道が多い。



ぼくたちは、早々にホテルに帰った。



(つづく)


のびのびボランティア紀行
カンボジアの神話に出てくる「髪をしぼる少女」タイではブッダをまもる川の女神




テラの会の活動のため、ぼくらはプノンペンに来た。

飛行機が着陸するしゅんかん、ぼくは胸の奥が、じんじんと痛むような経験をした。



昔から、虫の知らせなど、第6感みたいなものが、動くことを、さまざまに呼んできた。



まさにそんな感覚だった。



ちなみに東南アジアのようなところに来ると、日本にいるときより、第6感が鋭くなる。いわゆるシックス・センス。”霊感”という人もいる。



ぼくは”霊感”なんていうと、なんだか怖いので、もっと普通に”ものの気配”とか”何となく感じる”、などとよんでいる。



どうして東南アジアへ来ると、そういう感覚が強くなるのかは、町を少し歩けば分かると思う。



バンコクのような大都会でも、大きな木があると、そこには線香や、赤い色付きの水、ピーのほこらなどが、まつってある。



もちろん、誰が強制しているわけじゃない。地元のひとびとが、そうしなくては落ち着かなくて、やっているようだ。



じつは、プノンペンに行く2年ほど前、タイに語学留学していたころ、夢をみた。

真っ青な空の、カンボジアのどこか。

建物の形など、かなりはっきり覚えている。



それが、こんかいプノンペンへ来て、はじめに泊まるホテルまでタクシーで行くとちゅう、夢に出たのと全く同じ建物にであったのだ。



それはプノンペン中央市場だった。ローマのコロセアムみたいな、とくちょうのある建物なので、ひとめで分かった。



それを見ながら、ぼくは一人、

「やばいなあ」

と思っていた。



どちらかというと、やれやれ、という感じだ。



こういった話は、ある種の人たちには、ぜったいに受け入れなれないので、あまり話さないことにしている。



とはいえプノンペンのことを話すなら、どうしても、さけられないのだ。



プノンペンは、1976年ごろ、いきなり人がみんないなくなった。

というのは、ポルポト派が攻め入って来て、3日間のあいだに、首都に住んでいた人びとを、みんな追い出してしまったからだ。



本当に無理矢理な話だと思う。



その3日間以来、二度と肉親と会えなかった人もいる。

それが、わずか40年程前の話なのだ。



だから今のプノンペンは、昔からつづくプノンペン、ではなく、いちど完全に破壊された後のプノンペンだ。



ポルポト派は、さいきんまで、まだ勢力を持っていた。そのころのプノンペンは犯罪多発地帯で、ボランティアの青年が何人も、強盗にあって亡くなっている。



麻薬、少女売春、そういったものの巣くつだった。



本当にきいていると、ヘドが出るような話だが、昔、貧乏旅行者の日本人の間で、こんな話をきいたことがある。



日本で工場で働いてお金をつくり、そのお金を使って、東南アジアの安宿に泊まり、麻薬にひたって、少女売春にふけっている男の話。



そいつは、悪いことをしている自覚は全くなく、むしろ自慢げに話すという。

プノンペンがそういうことをするのに、もっともいいとか。



少女売春の店を見つけると、そこにいる女の子たちを、背の大きい方から、順番に並ばせる。そしていちばん右の方から、買う。



次の日は、となりの子、その次の日は、またとなりの子、というふうに。

そいつは、そのやり方を得意げに「絨毯爆撃方式」と呼んでいた。



そんな日本人がいたのは事実。

考えたくないけれど・・・



そういう話も、昔のプノンペンでは、当たり前だった。

危険な薬物も、簡単に手に入った。

廃人の行くところ、と不名誉ないわれ方をした時期もあった。



そんなプノンペン。

ぼくたちが見たのは、2010年の、変わりゆくプノンペンの姿だった。



(つづく)





のびのびボランティア紀行
キリング・フィールドで慰霊をしているところ




プノンペンはカンボジアの首都。


東南アジアで、いちばん近代化が遅れており、

70年代のポルポト派の、大虐殺などをへて、

国が立ち直るまで、どれくらいかかるか、

わからない。


だから何を話すにしても、あまり楽しい話にはならない。



だから、楽しいことが話せないなら、今までは禁じてきた、

スピリチュアルな体験をもとに、話していこうかと思う。



スピリチュアルな体験は、自分にしかわからないものなので、

科学絶対主義の人たちから、非科学的だといわれる。



それに対する私の反論は、ではあなたたちは、脳みそを半分に切ってみたことがあるか、ということだ。



いわゆる科学的な思考ができるのは、大脳辺縁系の新皮質、いまにもはがれそうなうすい皮一枚だけ。



脳は大きいので、新皮質のなかに旧皮質

がつつまれてあり、その奥には、大脳中枢部の、

視床下部など、ホルモン分泌などに作用する

ところまである。



科学が対象としているのは、

せいぜい脳みその薄皮一枚で考えられること。

人間はそんなにうすっぺらじゃない。

大脳旧皮質や、その奥のことは、まだまだわかっていない。



スピリチュアルなことがらは、

きっと脳の奥の部分と関係する。

だから脳の外側のぺらぺらし他部分でしか、

ものを見ない人には理解できないのだ。



さて、バンコクからプノンペンに飛行機で来た私たち。

着陸寸前になって、外を見ると、水、水、水だった。

その水と共生するカンボジアの人たち。



着陸する寸前に、なぜか、胸のおくの方で、

深い淋しさみたいな感情が

こみあげてきた。



私の経験上、胸に感じる感情は、

その地で亡くなった方の思い

であることが多い。



何ともいえない、何かいいたくても

口がひらかない、しずかな感じの思いだった。

まるで水みたいに、沈黙した、苦しさ・・・



飛行機は無事着陸した。

胸の感情はなくなった。

これは、たいへんなところに来てしまったな、

と入国手続きをしながら、思った。



(つづく)




のびのびボランティア紀行
ミクロネシア・チューク島の大家族。この人の娘があの人でその孫がこの子で…





プノンペンのことをお話しする前に、ぐいっと寄り道いたします。



ことし3月ごろから、諸般の事情のため、アジアへ活動に

行けていないテラの会です。



そうすると、やっぱりいちばん気になるのは、アジアや

太平洋で仲良くなったみんなが、どうしてるかってこと。



とてもよくしてもらったので、忘れられません。



どうしてるかな、あの人、この人。

とくにタイには、何度も出かけているので、懐かしい思い出が

たくさんあります。



そんな面々に会いにいけないのが、もっともつらいことなのです。



渡り鳥のように、雲にでものって、会いにいけたらどれほど

いいことか・・・



しかし、テラの会の行くところは、かなりの地方というか、

カントリーサイド。



飛行機も地味な国内線を、乗りつがないと、いけない。

日本から直行便はないのです。



次にあの人に会えるのは、いつになるやら・・・

どうかその日まで、元気でいてほしいです。



(つづきは、しないだろう)



のびのびボランティア紀行
(プノンペンの路上生活者。道ばたで子育ても珍しくない)




朝通勤途中の、満員電車で、ぜつみょうに癒される車内アナウンス。

そんな感じで。



ぇ、次はァ、プノンペン、プノンペン。

プノンペンで、ございます。



お降りのお客様は、どうぞブザーにてお知らせ下さい。

(それは市バスだー)



プノンペン、メコン川にてベトナムのサイゴンまで、下るお客様は、ここでお降り下さい。



見どころといたしましては、ツールスレン刑務所、がございます。

(このあたりから、バスガイドに切りかえ)



1976年ごろ、カンボジアを武力で制圧しました、かの悪名高き、ポルポト派の、強制収容所で、ございます。



ツールスレン刑務所に送られました、人々は、スパイ容疑その他、あるいは全く理由がない場合ですら、各地の処刑場に送られ、二度とはもどってきませんでした。



そんなツールスレンが、町の真ん中に、けっこうな敷地をもって、建っています。



もともとは高校だったと、うかがっております。

いえ病院だったでしょうか。うろ覚えで申し訳ございません。



そして、世界各地から物見高い方がたが集まるのが、キリング・フィールドで、ございます。



子どもから大人まで、そうとうな数が、そこでお亡くなりになりました。

もっと分かりやすくいいますと、虐殺されました。



朝っぱからから、こんなこと、考えたくありません。



人間って、何でこういうこと、するでしょうか。



そういった矛盾に満ち満ちた、ホラーな首都、プノンペンなので、ございます。

テラの会では、バンコクからエアアジア機の格安キャンペーン・チケットで、現地入りいたしました。



さあ、エンターテイメント性が、全くないといってもいい、プノンペン。

何をお話ししたら、みなさんに喜んでもらえるのか、皆目けんとうがつきません。



こういう場合、わたくしのとれる方法としましては、るんるん気分でプノンペンを、どれだけ描けるかに、挑戦することだけです。



どっかで心が折れるかも、だけど、どうかはじめてお葬式で読経することになった、若いお坊さんの背中を、親戚一同であたたかく見守るような、そんな感じで応援してください。



(つづけるしか、ない)