のびのびボランティア紀行
プノンペン中央市場周辺で物乞いしていた、片足のない人。食料を支援した。地雷のせいだろうか?




プノンペンから無事タイへもどったテラの会。

それから帰国まで、2-3日過ごした。



だいたいテラの会がバンコクに泊まるときは、

顔なじみの2つの宿の、どちらかにする。



どちらとも、宿泊費はとても安い。

スタッフとも仲良くて、いろんなわがままをきいてもらう。

椅子を、もう1脚かして、とか灰皿かしてとか。



今回は、そんななじみの宿をもう一つ増やそうと、

マレーシアホテルというところに、泊まってみた。



マレーシアホテルは、老舗ホテル。

ランドマークになっていながら、宿泊代690バーツ(2100円くらい)と

お手ごろ。



さらには、日本人街のタニヤに近いので、

日本食などを、気軽に楽しめる。



そんなくらいの気持ちで、泊まったのだけど。



泊まってわかったのは、そのホテル、さすが

老舗。いろいろと、何と言うか、ミステリーな部分が

あることを知りました。



それを全てここでは話せません。

18禁になってしまいますので。

さらには会員制にも、なってしまいそうだし。



たったひとつ、目にしたものを、いうとしたら。

どう見ても、15歳から17歳くらいにしか見えない、

タイ人らしい男の子たちが、バスタオル一枚で、

ホテルのプールで泳いでいた。



彼らが遊びでこんなホテルに、泊まるとは

決して思えませんけど。



そのあたりは、とりあえず、銀河の彼方に

おいときましょ。



マレーシアホテルは、値段も手ごろで、

そんなに気をつかうこともないけれど、

サービスは行き届いているという、いいホテルだった。



そのホテルの周りにある、ちょっと暗めの

空気感さえ、おいとけばね・・・



そんな具合で尻切れトンボで、

このプノンペン編も、幕切れでございます。



チャチャチャン(拍子木をたたく感じで。マラカスじゃなくて)



(つづく)




のびのびボランティア紀行
タイ・バンコクのクロントゥーイスラムにて。まだ手前の方なのでみな豊か。奥の方はもっと貧しい




さてカンボジアのナイトライフを、ちょっぴり

リポートさせてください!



もちろんぼくは活動で行ってるので、夜な夜な

遊び歩くわけにはいきません。



なにせ危険なプノンペンの夜。



ひとりで暗がりを歩いていたら、いきなり拳銃を

つきつけられて、有り金みんな持ってかれた、

という話しも珍しくありません。



それでも、夜になると、昼と違ったプノンペンが

見れるのです。



涼しくなって、若者たちは恋のチャンス。

そういうのを是非ぼくとしては、勉強させてもらいたかった。

お酒もそんなに飲めないぼくは、おっかなびっくり、

ホテルの近くのディスコに行きました。



そこは”CAFE DISCO”という、よく分からない

ネーミングの店でした。



中に入ろうとすると、軍服姿のセキュリティーが、

かばんやカメラを、財布のほか、みんな取り上げてしまいました。

それは、プノンペンには麻薬の類いや、銃器がそこら中に

あるので、それを店内に持ち込むのは、

他の客の迷惑になるからでしょう。



純粋に踊って楽しみなさい、ということ。



そして中に入ると、真っ暗。

カンボジアのヒット曲を流すDJ。

来ている客は、10代そこそこの、ヤングメンズ。

服装も、バンコクなどと違って、やっぱり

少しもっさりしてるというか。



サンダルの若者もいます。



店員の女の子たちが、気軽に話しかけてくれました。

わからないカンボジア語を、一生懸命きいて、

なんとかコミュニケーションしました。



スレイさん、という明るい女性スタッフが印象的でした。



「無表情なのはかわいくないでしょ。

私なら、いつでも笑ってるよ!」



とにっこにこ。日本の若者とあんまり変わりません。

流行に敏感で、新しいものが好き。



しばらくテーブルでぼーっとしていると。

ダンスフロアはあるのですが、みんな恥ずかしがって

なかなか踊りません。



今日の盛り上がりはこんなものかな、そろそろ

帰ろうか・・・ 

と思ったそのとき。



いきなり化粧もファッションもばしっと決めた

ギャル軍団みたいなのがあらわれたのです!



そして客をあおるあおる。

いちど火が着いたら、とことん盛り上がる。

DJものりのよい曲をがんがん、つないで、

お客さんみんなが踊りだした。



何がおきたのやら・・・とひとり、取り残されていると、

スタッフの女の子に肩をたたかれました。



「ほら! カトゥーイだよ!」



・・・ん?

暗くてよく見えなかったけど、ギャル軍団の様子が

ちょっと普通じゃない。



踊りはハンパなく上手で、男どもをどんどん

つかまえては、楽しげに腰をふっとりますが。



よーく見ると、カトゥーイだった!

カトゥーイというのは、もともと男の子だった女の子。

まあニューハーフみたいなもの。



その子らが、男を興奮させることといったら、

ため息の出るようなお手並みで。



男の子たちも、本物の女の子には、シャイで

近づけないのですが、カトゥーイには安心して

近づいて、一緒にセックスィーなダンスを踊るんです。



カンボジアでは、カトゥーイは、流行の先端を行く存在、

そしてまさしく夜のクイーンでした!



日本もタイも、同じだけどさ。

ゲイやレディボーイ、いわゆるニューハーフが、

どんどん新しい文化をつくってるのは、

みんな知ってるようで知らない事実で。



そのカトゥーイ軍団は、一通り踊ったあと、

ひとしきりビールを飲んで、キャーキャーと

楽しげに次の店に遊びに行きましたとさ。



そういう存在を見るのも、ナイトライフならではの

楽しみです。昼間は多分、日光に負けて溶けてるでしょう。



そんなたった一夜だけの、プノンペンの夜でしたが、

とても勉強になりました。



プノンペンにも、しっかりゲイやレディボーイがいることが

わかりました。



当たり前か。



暗くならないうちに、スレイさんたちに別れをつげ、

ホテルへ帰っていい夢を見ましたです。



(つづく)






のびのびボランティア紀行
中央市場で物乞いをしていた兄弟に、服を渡した。弟は重度の障害児だ。福祉がないから物乞いするしかない




カンボジアの旅について、お話することも、

残り少なくなってまいりました。



センセイの旅日記を見ると、どうやら早めに

格安航空でタイにもどっている。



というのは、某格安航空(エアアジア)

では、何回か痛い目にあっているからだ。



一回目は、コンサートに訪れたチェンマイ。

現地情報にくわしいKさんが、かるく、



「電話で発着情報を、調べておいた方が、いいと思いますよ」



と教えてくれた。

まだ日本の飛行機にのる感覚でいた私たちは、

たぶん、大丈夫だろう、くらいに思っていた。

だ~がしかし!



甘かった。

いきなり私たちの乗る便が欠航した。

しかも超てきとうな対応。



「たぶん、一つ前の便で、お席を用意

できるかなぁと思います(ラブ)」



みたいな感じだった。

調べてみたら満席じゃないか!



あんときはあせった、あんときの猪木。

何しろ、飛行機がバンコクについた

その数時間後、日本へ帰る便がとぶ予定だったから。



これでは乗り遅れる、日本に帰られない!



すったもんだのあげく、まずは一人分の

空席ができ、センセイだけでも、と乗せた。

それから待つ時間の、なんと長く感じられたことか。



「あら、あなたベリーラッキーね。

いまちょうど、一席あきましたわ」



とニコニコ、言われて、猛然とダッシュ。

本当に、飛行機のハッチの閉まる寸前に、

滑りこみで、一席だけ空いていたところに

乗った。



乗ったとたんに、ゴーゴー、エンジンうなって、

すぐビューン。



気がつくとバンコクだった。



あのときの、心臓が二個くらい余計に

欲しかった体験があるから、早めに

バンコクにもどったんだ。



そして、ただ安いという理由で泊まった、

マレーシアホテル。


ここがまた、いわくつきのホテルで・・・

幽霊とかじゃないから、安心してください。



カンボジアの若者の話しをするはずが、

ぶっとんでしまいました。



(つづくから、期待してね)









のびのびボランティア紀行
プノンペンの路上生活者家族と。残りの衣服を渡した



暑かったり冷え込んだり、今年の夏はいろんな意味で

厳しいです。



事務局の私など、口で熱を測ると、37度くらいあるのに、

わきで測ると、36度くらいしかなかったりします。



ちぐはぐだ、熱の分布が。



それはいいとしてプノンペンのお話です。



私たちは、キリングフィ-ルドでの慰霊をかわきりに、

ストリート・チルドレンの施設「ニコニコの家」、

孤児院の「ライトハウス」などをまわり、

支援してきました。



そうしてほとんど衣服も尽き、

あとは2日ほど休むことに。



日本とは、暑さと寒さが正反対の、カンボジア。

そのころは日本は極寒でしたが、カンボジアは、

かわいた暑さ。



そういうふうに、暑い国と寒い日本を

行き来すると、かなり体力を使います。



身体が暑さになれてきたかな、と思ったころに

帰国ですから。



それで、ホテルを王宮の近くから、市内の中心部に

うつったのです。



グリーンハウスというゲストハウスで、一泊たぶん、

17ドルくらいだったと記憶しています。



当時の通貨レートで、だいたい1500円くらい。



日本の感覚からすると、かなりの安宿ですが、

それでもエアコンもちゃんと着いていて、清潔でした。



とにかく暑かった。そればかり覚えています。

その休みのあいだ、私は何をしていたでしょうか。

ほとんど薄れた記憶をさぐると、ツールスレン刑務所へ

行った覚えがあります。



ツールスレン刑務所は、ポルポト時代に、医師や、先生や、

薬剤師など、知識階層と見られた人たちが、ほとんど

何の理由もなく、身柄を拘束されて集められたところ。



ほとんど10人中9人は、そこから帰れず、

キリング・フィールドのようなところへ送られ、

亡くなっています。



そこはいまや、観光名所。

観光バスが何台も乗りつけて、なかを見学します。



私も、ちらりと見てこようか、と思い、ふらりと

出かけました。



グリーンハウスと同じならびにあったからです。



しかし、着いたときには、入る気はナエナエになっていました。

というのは、観光バスがたくさんとまっていたり、

カンボジアの修学旅行生みたいな子たちもいたりで、

大にぎわいだったから。



そんな雰囲気の中で、ああいうあまり楽しくない施設を

見る気にはなれません。



周りをぐるっとまわって、眺めるだけにしときました。



外見は、日本でいうと、公立高校の校舎みたいな感じ。

でもどことなく暗い、じめっとした感じで、やはり強制収容所

だったんだ、という空気はありました。



そのすぐとなりの、商店みたいなところで、

座ってコーラを飲みました。



男の子たちが、昼間からビールを飲んでいました。

店には、ほとんど商品が無く、何を売ってるのやら

わかりません。



ただ、その店の前の、プラスチックの椅子に腰掛け、

女の子がもってきた、冷えたコーラを飲みながら、

強制収容所を眺めました。



あの時代も、こうして、日常の中に狂気があったのでしょうか。

強制収容所で、日夜、怖ろしいことが行われていたのに、

こうして市民は、ふつうに暮らしていたのかな。



などと、ふつふつと考えました。



日常に存在する狂気・・・



それこそポルポト時代の恐ろしさの、本質なんじゃないかな、

なんて、しかめっつらで考えてみたり。



店には、明るいカンボジアのクメール・ポップスが

大音量で流れています。



目の前には、強制収容所の壁。

ひび割れています。



それを見ているだけで、もうおなかいっぱいというか、

胸いっぱいになりました。



もう、みんな忘れたいのだろうな・・・。

若い世代には、あの時代を知らない人も出てきているし。



外国人の私には、カンボジアの人々の胸の中は、

想像するだけがせきの山です。



もう帰ろ、と思ってコーラ代を払いました。

私の表情がふくざつだったからか、お金を受け取る

女の子も、どことなくふくざつな笑顔で、

カンボジア語で「ありがとう」と力なくいいました。



何となく、もう何もきかないで下さい、

もう何も考えたくないのです、といわれているような

気がしました。



そうです、暗い話しばっかりじゃないのです。

プノンペンは、新しい時代に向かって

走っているのですから。



次回は、そんな明るいプノンペンを、少し

お話ししようかな。



(つづけさせて、下さいまし)






のびのびボランティア紀行
学業に成功し、公務員になった長男をたより、田舎から次男家族も越してきた。みんなで一枚。




カンボジアの成功者といえば、まず政府関係者。

つまり公務員でしょう。



ひとりが政府筋の仕事につけば、親戚一同がうるおう、

といっても過言ではありません。



私たちをガイドしてくれた方は、お兄さんが、幼児教育関連の

エキスパート。



カンボジアの幼稚園に関する、公務につかれていました。



日本語の教育も専門だそうで、私たちとは、日本語で

話されました。



そのお兄さんの家の両隣が、次男、またいとこだったかな、

親戚のおうちです。



とはいっても、次男のガイドの方は、公務につけたわけでは

ないので、プノンペン市内で、運転手をして、日銭をかせいで

います。



それでも、こうして住むところが安定しているだけでも、

とてもいい方なのです。



またプノンペンという、何かと現金収入の道のある、都会に

近く暮らせているということ。



私たちは、プノンペンと、シエムリアップ以外、カンボジア国内は

行ったことがありません。



地方に行けば行くほど、生活は厳しいでしょう。



なぜならプノンペンでも、経済的にうるおっている地域は

ほんの少し、その他は、どうしてもまだまだ発展

できてなかったですから。



こうして、ガイドさんが家を見せてくれたのも、

何かしら、私たちを信用してくれた部分があったのでしょう。



また、「私たちの国の、恵まれない人々を思ってくれて、

ありがとうございます」、としきりに言っていました。



こういったお礼は、東南アジアで活動したさい、

いろんなところで、言われました。



お礼をいってくれる人は、自分たちの国の状況を、

真剣によくしようと思っているような人でした。



また国、とまで大きく考えないとしても、地域という意味で、

私たちの行ったことに、感謝を示してくれた人もいました。



「シンク・グローバリー、アクト・ローカリー」

とはしきりに言われます。



グローバルに物を見て、考え、身の周りで行動しよう、

という意味かもしれません。



まずは自分の身のまわりから・・・



私たちの国、日本は、67年前の戦後からすれば、

どれほどよくなったか、わかりません。



もちろん、いじめや、その他、マイナスの面も大きく

とりざたされてはいますが。



とはいっても私の個人的な見方からすれば、

日本はとてもいい国だと思います。



そして、その良さが、少しずつ周りの国ぐにに

広がっていけばいい、と思うのは、

自然なことではないでしょうか。



カンボジアにも、日本のいいところを、取り入れようと

真剣に考える人がいます。



ビジネスにしても、客にニセモノをつかませて、

できるだけお金をしぼりとったものが勝ち、

という経営理念ではなく、



お客様が第一で、信用を得ることが大事、という

日本型の経営の方が、確実に東南アジアを

幸福にみちびくでしょう。



暑くて限界です。

ここまでで・・・



(つづく)












のびのびボランティア紀行
プノンペンの孤児院、ライトハウス。お昼ごはん風景です! みんな元気に勉強したからおなかペコペコだ




そこがどんな施設か、だいたい子どもたちの顔を見れば

わかる。



いききと輝いているようなところは、

運営もしっかりしているし、

不正などもやってないことが多い。



たとえば子どもたちが、なんだか元気がなかったり、

ふてくされたような顔をしていたりすれば、

その施設は何らか、問題を抱えている。



ひどい場合は、子どもたちをエサにして、

外国人からの寄付金を募り、そっくり

運営者がふところに、入れている、

なんてこともある。



発展途上国では、じっさいそういう施設が

あとを断たない。



完全に詐欺であり、犯罪なのだが、国内では

捜査が及ばないのだ。



もっとひどい場合は、施設の職員が、

子どもに性的虐待を与えているケース。



これも、発展途上国だと、さまざまな問題が

絡んで、表ざたにならないことが多い。



もともと弱い立場の、孤児たちを、

さらに痛めつけるようなことは、

本当に止めて欲しいと思う。



さて、このライトハウスは、そんな様子は

全くなかった。



子どもたちは、とても元気に笑顔で

過ごしていた。



職員の方にきくと、お寺や道ばたにいた

孤児の、ストリート・チルドレンたちを、

保護して食事を与えているうちに、

少しずつ人間らしさをとりもどすのだという。



やっぱり栄養のある食事が第一なのだ。



とはいっても、プノンペンに限らず

カンボジアは、施設や職員の数が、

圧倒的に足りない。



ストリート・チルドレンは、そこかしこにいて、

皮膚病をわずらっていたり、目の病気を

わずらっていたりと、目も当てられない状態だ。



ライトハウスの職員の方に、施設内を

案内していただいた。




のびのびボランティア紀行



ここが教室。

机や椅子が、古くなっていて、今にも壊れそうだという。

お金の余裕があれば、買い換えたいとのことだ。




のびのびボランティア紀行


これは日本人の提案でつくられた、浄水施設。

カンボジアの川の水は汚染されていて、ふつうにくみ上げては、

使えない。さまざまな感染症の危険に、

子どもたちをさらすことになる。



そこで日本人が思いついたのが、この浄水装置。

川の水をひっぱってきて、この装置をとおし、

汚水をろ過することで、洗顔や、身体を洗うのに、

使えるようになった。



「素晴らしいアイデアだ。日本人はすごい」



と職員の方も、とても感銘を受けていた。

日本の、どなたかは存じないが、そんな

こころざしの高い人もいるのだ。



施設をぐるりと見学させてもらったあと、

テラの会は、ころあいを見計らって、

帰らせてもらうことにした。



子どもたちが、みんなで手をふって見送って

くれた。



またひたすらスラム街の道をとおって、

プノンペン市内のホテルへと向かう、

われわれであった。



だがそこで運転手の男性が、ぜひ

自分の家族を紹介したい、という。

どうしても、と頼まれたので、それではと、

お邪魔することにした。



(つづく)



のびのびボランティア紀行

カンボジア孤児院の女の子。勉強ができそうなタイプかなー




ボブ・ディランの「雨の日の女 #12&35」っていう、

意味のわからんタイトルの歌があるんです。



その歌詞が、いまの私、あるいはテラの会の状況を

歌っているような・・・



  アンタが何とか良くなろうすると、

  石がとんでくる

  アンタがみんなの言ったとおりにやろうとすると

  石がとんでくる

  アンタが家に帰ろうとしたって、

  石がとんでくる

  まあだからって、孤独になりゃしない

  誰にだって石はとんでくるもんだ!



なんか自虐的だけど、しっくりくるな~。

今朝も支援者の方からお電話ありました。



「3月に電話して、6月ごろには、物資の置き場所が

できるので、7月に電話してくれといわれたんですが・・・」



ほんとうに申し訳ありません。

物資の保管場所は、もう150パーセント越えているんです。

だから、いまの状況を何とかお伝えしました。



「6月に支援活動にいくと、おうかがいしたのですが」



と言われます。そう、3月の時点では、6月も行く予定だった。

それでも、事情が変わり、6月にフィリピンに行くはずだったけど、

行けなくなったのです。



そんななか、今年の1月くらいに、いまの7月くらいの修羅場を

想像していた私は、時間をかけて、物資の処分を行っていました。



べつに先見の明があったわけではなく、今ある物資の量と、

(とうじ、レンタル倉庫2つ分、そして6畳一間の天井スレスレまで

あった)

こんご行くであろう活動で、どのくらい物資を渡せるかを、まともな

判断力でおしはかってみたところ、ぜったいに物資が過剰になって、

身動きとれないのは、誰でもわかったことでしょう。



そうして処分に処分を重ね、これだけは必要だと思うものを、

残す作業をつづけて、半年になりました。



だから、今朝のお電話いただいた方にも、もうこれ以上は

受付られません、こちらに送っていただいても、処分するしか

ないですので、郵送料の分だけそちらに負担をかけてしまうのが、

ほんとうに申し訳ないです、と伝えました。



「じゃあもう少し待ってみますね」といっていただきました。



苦しいのは、テラの会事務所だけではなく、支援者の方も、

いろんな人から集めたぶん、むげに処分もできず、扱いに

困っていらっしゃるのが、分かりました。



ほんと、一進一退ならない、どうしようもない状態です。



これが、7月現在のテラの会の状況です。



アジアのほんとうに衣服も文房具もない、子どもたちや、

大人の方たちのことを思うと、何とかもっていってあげたい、

と思う気持ちは、もうそれはそれは強いです。



だからこそ、生活環境を日々あっぱくしている支援物資の

山にも耐えられるのです。



それでも、活動には、哀しいかな、お金がたくさんいるのです。

その寄付金を各方面にお願いしているのですが、なかなか、

集まらないのです。



さらには、どこかの宗教などから、生活費の支給を受けて

いるわけでもないので、自分の生活は、自分でお金をつくって、

やっていかなくてはなりません。



進退極まれり、とはこのことだと思います。



支援者の方には、ほんとうに申し訳ない気持ちで

いっぱいですが、せっかく集めた衣服なら、どこか、

もっと気持ちよく受け取ってくれる団体さんに、

寄付されるなど、して下さい。



こういう場合、もっともいけないのは、あいまいに

語尾をぼかして、○月ごろなら、たぶん大丈夫ですので、

といった対応をつづけることです。



今朝のお電話でもありましたが、


「3月に電話したときも、物資の置き場がないと言われました、

それでも6月に活動にいくので、7月にもう一度お電話を、と

いわれたのですが・・・」と。



このように、期待をもたせて、裏切るようなことは、

なるべく避けるべきです。



何回も電話して、家の中の部屋をひとつ、物資のために

つぶして、支援者の方は待っておられるのです。



この状況を思うに、私は、まさしく断腸の思いです。



支援者の方にも生活があり、私たちにも生活がある、

その上で、できることがあったら、とやってきた活動です。



それでも、そのように、生活をあっぱくし、ストレスに

なりながらまで、やるべき活動なのか、もう一度よく

考えてみる必要があると思います。



楽しくできなければ、慈善活動も、ただのエゴのかたまりに

なりかねません。



そんなこんな、7月の、ロダンの「悩める人」みたいな、

事務局長のつぶやきでした。



(つづかないので、ご安心ん下さい)











 




のびのびボランティア紀行
孤児院の子たち。カバンいっぱいの衣服を手渡した




猛暑到来で、アタマ沸騰中。

事務局です。



プノンペンで、孤児院を訪れました。

そういうと、とってもさらっとしてる。



しかしその孤児院に行き着くまでが、

そうとう長い道のりだったのだ。



川沿いに、えんえんとつづくスラム。

その舗装されてない道を、ずーーーっと奥へ。

けっこうどきどきなのだ。



なぜなら、三輪タクシー運転手を、ある程度は

信じているとはいえ、まったくの外国、しかも他人だ。



だから、やっぱりどこかで緊張もする。



ちゃんと孤児院についたときは、

ほっとした。



でも気は抜いてられない。



ここから怒とうの衣服支援なのだ!



子どもたちが、大波小波で寄せてくる。

それに、次から次と服を渡す。




のびのびボランティア紀行



汗だらだら。

そんなことも気がつく間もなし。



子どもは93人くらいいたっけなあ。



全寮制の、寄宿舎もついた孤児院だった。

週末には、ビジターのために、子どもたちの

カンボジア舞踊ショーもやるという。



ぜひ見たかったけど、さすがにスラムの中を

1時間半くらいかけて、通うわけにもいけなかった。



だから今回は、衣服支援だけ。



ようやく服も渡し終えて、

代表の男性に、施設を案内してもらった。



そこに、日本人が技術協力しているのを、知るのであった。



(つづくつづく)







のびのびボランティア紀行
川向こうの、孤児院で支援。



お話しが前後しますけど、にこにこに家に行く前に、

テラの会は”Light House” という施設に行ったのでした。



三輪タクシーのおじさんが、自分の知ってる孤児院に

連れていってくれる、というので、向かった。



大きな橋を渡る。川沿いには、今にも倒れそうな

家がのきをつらねている。



橋の向こうは、貧民居住区だった。

どこまでも、どこまでスラムがつづく。

ときどき、スカーフを巻いたイスラム女性がいる。



そうか、カンボジアもイスラム教徒がいるのだ。

プノンペン近くには、モスク(イスラム教の礼拝所)もある。

ポルポrト時代は迫害された。



そんなスラムを、ずんどこ、どんどこいったら。

本当に施設なんてあるのか?

運転手が、われわれを騙そうとしているのか?



とやおら疑心暗鬼になりかけたところで、到着。

けっこう大きな施設で、運動場では、フランス人青年が、

バレーをして、子どもたちと、たわむれていた。



テコンドー道場があり、「ヨッ」とか「ハッ」とかきこえる。

世界中から、ボランティアが集まっているのだ。



そこに私たちの来意を伝えると、すぐに職員の方が

みんなを呼んだ。



「日本からの衣服だぞー」



わいわい、きゃいきゃい、子どもが集まる。



のびのびボランティア紀行



人ごみに囲まれる。いつものパターン。

楽しいんだけどさ、熱気がすごくて。

こっちはへとへと。




のびのびボランティア紀行


ちょーだーい、ちょーだーい。

自己主張激しい子どもたち。

そうだ、ここでは、もらったもん勝ちだ。



のびのびボランティア紀行
さっとピンク色の服をとって、うさぎのように逃げた男の子。服装の趣味からして、あなたって子は、もしかて・・・



ライトハウスでの支援は、まだまだつづきますぜぃ。



(つづけー たとえ熱中症で体温37度でもー)



のびのびボランティア紀行




プノンペンの王宮近くに、ワット・ウナロム寺院はある。

カンボジアの上座部仏教の寺で、街の一角にある。



その敷地内には、ニコニコの家という慈善施設もある。

無料で日本語も教えている。

そこで学んだお坊さんから、日本語で話しがきけた。



ふーっ、説明ってたいへんだ。

これだけの説明で、テラの会の2010年の、1月の状況が、

少しは伝わるだろうか?



今から2年前の冬。

ずーっと昔のことのような気もする。

なぜかって、その間に、本当にいろんな状況が

かわったから。



とくに東日本の大震災の後から、何もかも変わって

きた気がする。



また最近、とくにミャンマーの信じられない変化も、

伝わってきます。



私たちもミャンマーや、ミャンマーのすぐ近くで、

何回も活動しましたので、

いまの状況は、ほんとうに信じれない気分。



あのアウンサン・スーチーさんが、私たちも活動した、

タイ国境のメーソートの医療施設に出向いたなど、

ちょっと前は、まったく想像できなかった。



うーん、未だに信じられない・・・



そんなこんなで、カンボジアのプノンペンも、

2年まえとは、まったく変わってしまってると、思う。



とくにかわったのは、プノンペンにあった湖が、

全部埋め立てられたということ。



すさまじき。全部、中国の資本が買い上げて、

何かしらの建物をつくるという、お話しですが・・・。



ウナロム寺院の話だった。

そのお坊さんは、大の親日家だった。

プノンペンに訪ねてきた日本人を、

自分のいなかに連れていったり、したという。



いつか、日本の方をカンボジアの名所に案内する、

ツアーガイドのようなことを、やりたいとか。



そんな、いろいろな夢を、根気よく、私たちに

語ってくれた。



とはいえ、お坊さんの、いまのところの個人スペースは、

小さなシングルベットの広さだけ。



その端に、センセイと、ぼくが座って、話をきいて

いるのだ。



語れば語るほど、熱くなるお坊さん。

部屋もめっちゃくちゃ暑い。

暑苦しいなんてもんじゃない。



エアコンなんてもちろんないし、

扇風機もなかったんでないかな。



2012年の7月の今日も、

めったくそに暑い!



これを比べるに、たぶん、日本の都会の

方があついし、辛いと思う。



このことは、あんまり日本人じたい、気がついてないよね。

東京をはじめ、日本の都市部は、

アジアの中でも、とくべつ、暑いですから。



あー話がとぶとぶ。



プノンペンの話をしたいのにー。

ともかく日本語の話を数十分きいてるうちに、

限界が来た。



「では、われわれは、このへんで」

とセンセイが切り上げた。



もっともっと話したそうな、お坊さん。



でもそれ以上はムリ。

あのとききいた夢、多分、あのお坊さんの

熱心さからして、実現するだろう。



上の写真のような、お坊さんの僧衣を脱ぎ、

ちゃきっとスーツに着替えて、きっと、

あのお坊さんは、すんばらしいビジネスマンに、

なると思う。



あの熱い口調で、ビジネストークを展開すれば、

おちない客はいないと思うよ。



がんばれ、カンボジアのみんな!

そして、いつの日か、私たちのことを思い出し、

もし日本がそのころ、みじめに落ちぶれていたとしても、

見捨てないで、食料くらい、送って下さい。



冗談ではないです、日本だって、

今後はわかりませんぞエ。



(つづけーーー!)

(プノンペンのお寺でお坊さんの話をきく。シングルベッドの広さだけが、個人用スペースだ)