最近、私の檀家さん達と話題になるのが『家族葬』という名が悪いという話
何故悪いって、これ家族って書くことで、家族だけしか呼べないって勘違いしている人がいることです。
元々は家族というより親族だったのを親族葬と言えばよかったのを家族葬なんてネーミングにしたせいで私たち僧侶も迷惑しています。
核家族化が進んだせいっていう人もいるでしょうが、私たちは常に現場を見ているので思いますが、家族葬が増えた理由は高齢化だと思います。
つまり核家族化はあまり理由になっていないのです。
何故なら誰かが亡くなったのなら当然亡くなられた方のご兄弟には最低限報告しますよね?
ましてや親が亡くなったのに、子全てに報告するのは極自然だと思います。
子が親の葬儀に出ないということ自体が大変珍しいです。
親が亡くなっているのに仕事を休ませてもらえないなんて聞いたこともありません。
仕事を含め色々な理由にするのは間違っています。
ですから核家族化は全く理由になっておりません。
私の中の結論は、高齢化により亡くなられた方が家を離れ、施設で暮らす時間が伸びすぎた結果、本来の家の近所の方々と疎遠になり呼びにくくなった
更に、高齢化は当然ご兄弟にも同様に年をとるため、お互いに行き来することが出来なくなったりするケースが増え、結果的に兄弟の葬儀なのに自分でそこに行けない、足がない、痴呆でそれすら認識、理解できない、ということが起きています。
この結果、ご高齢の方のために集まれるのが息子さんなどの血族だけになりがちになりました。
これはまさに親族であり、7~20人くらいになる理由だと思います。
ちなみに、家族葬っていうと前にこんなことを言った人がいましたよ。
『家族葬だから3人くらいしか葬儀に参列してはいけないのでしょうか?』と。
そんなことあるわけがないです。
まして家族葬だからと苗字が違ったら参列してはいけないという発想は何処から来たのか、色々な事を多々言われてきました
私がまず言いたいのは、
ネットや新聞の記事を何でも鵜呑みにしないこと
です
何故こういう書き方をするかと言いますと、新聞もネットの記事も記事は、珍しい事をクローズアップして記事としています。
ですから珍しい=少ない です。
少ないことを日常にしてほしくないのです。
それより最後のお別れを適切な方々に提供してください。
特にご兄弟
親戚の方々の最後のお別れというチャンスを面倒などという罰当たりな理由で呼ばない、遠慮してもらう、なんて、誰が喜ぶのでしょう。
最後のお顔を見たい方もみえます。
過去何度もそういう話を聞いてきました
生前に大変お世話になったのに、亡くなって1か月もしてから報告があった
残念だ、と。
そういう話は僧侶の私たちは頻繁に耳にしますが、私たちにはどうしようもないことです。
是非、今一度、葬儀の在り方を考えてください
誰のために葬儀ってしているのですか?
生きている人の為ですか?
亡くなった人のためですか?
私は告別式という位なので、別れを告げるのですから、生きている人のためにあるべき儀式だと思います。
しつこいですが、今一度書きますが、もう一度、皆さんにとって亡くなられた方は誰にも送られたくないと言っていますか?
お手数をおかけする、手をわずらわせるのが申し訳ないから、と言ってこじんまりとした葬儀を望んでいるような事をおっしゃっていませんか?
こういうあまりに他人行儀な思いやりが今の日本の葬儀の現実ではありませんか?
私たち僧侶からすると、家族葬だろうが、普通の葬儀だろうが、全く同じ儀式でして、全く同じ儀式を執行します。
ですから多くの方がいらっしゃろうが、いなかろうが、全く同じことをさせてもらっています。
1人でもご縁のある方が参列された方が亡くなられた方も残された我々も最後のお別れが出来てよろしいのではないでしょうか?
私は少なくともそう思っています。
異論がある方はご縁がない方でしょうから、ご意見は不要ですので、コメントなされませんように。
私は常々、葬儀の在り方に疑問を感じていますのでここに記載しておきます。
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