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前稿「親父その4」からの続きです。
父親が死んだ翌日。
2020年2月18日(火)
この日は早朝5時に目が覚めました。
前日に日本酒を飲み過ぎたせいか、少し頭がぼうーっとしていましたが、2時間が経過した7時頃には意識がはっきりしてきました。
私はまず、車のガソリンを入れに行きました。
近くのスタンドでガソリンを入れ、その後洗車機で車を洗い、空気圧をチェックしてから自宅に戻りました。
妻の「猫」は、洗濯を干している最中でした。
「お帰り、ごくろう様」
と妻は私に声を掛けてくれました。
「それ終わったら出掛けるからね」
と私が言うと、妻は分かったと言いました。
その後、実家に向かう為に、私達は車に乗り込み出発しました。
葬儀社との打ち合わせの時間は、17時半だったので、それまでに出来る事はやってしまおうと私は思っていました。
年金が目減りする為、ライフラインの支払いも難しくなる事が予測されましたから、実家の電気、ガス、水道の名義を、父から私に変更する事にしました。
父名義の土地の遺産相続に関しての相談や、父の銀行口座の解約、入院費の支払いなど、とにかくやる事が山積みでした。
私はそれら一つ一つをリストアップし、上から順にこなして行きました。
時間はあっと言う間に過ぎ去り、葬儀社と打ち合わせをする時間が近づいたので、私達三人は実家を後にしました。
両親は墓を持たないと言う決定をしたようです。
「散骨しようか?」
と私は何度か言いましたが、
「良いよ。良いよ。ゴミで捨てちゃって」
と母は、その都度同じ返答をしました。
骨をゴミで捨てるって……。とは思いましたが、父も別にそれで良い様子でしたので、今回骨も火葬場で処分して貰う、「全処分」を選択しました。
父は無宗教の人でしたから、通夜も告別式も葬式も行わず、ただ火葬だけして貰うシンプルなコースを選択しました。
火葬場に支払う金が4600円、葬儀社に支払う金が10万でしたから、かなり安く済ませられたと思います。
父の遺体を火葬する日は、令和2年の2月22日に決定しました。
2222。
これも又前稿で言及した、刻印(エンジェルナンバー)の類のような気がしてなりません。
葬儀社を去る前に、私達は父親に対面する事にしました。
父は、装飾が施された綺麗な布団に仰向けに寝かされていました。病室で見た時と同じ、穏やかな顔でした。
「あんた、良い所で寝てるね」
と言いながら、母は父に近づきました。
「お父さん冷たいね」
と母は父の顔を触りながらそう言いました。
私は不謹慎かと思いましたが、父の穏やかな顔を記録として残しておきたくて、何枚か写真を撮りました。
これまでの人生で、何人かのデスマスクを見て来ましたが、その中で一番と言って良い程、柔和な表情を浮かべていました。
先にも述べましたが、父は手術が不可能なぐらいの末期の肺ガンでした。レントゲンで見ると肺の片方はまっ白だったそうです。それでも痛みや苦しみは全く感じませんでした。
担当医の見立てでは、余命は半年から一年と言われました。
恐らく父は、ガンの痛みや苦しさを味わう前に、この世での生を終えたのだと思います。父の穏やかな顔を見ていると、早すぎた最後も又これで良かったのだと心から思いました。
さて、忙しく動き回った、2月18日もこれで終了しました。
自宅に帰宅する際、睡魔と戦いながらの運転でした。
帰宅後、色々と力が抜けたのだと思います。
日本酒を飲みながら、私は父の事を考えました。
私が子供の頃の父。
私が学生の頃の父。
私が社会人の頃の父。
私が前妻と結婚していた頃の父。
私が今の妻と再婚した頃の父。
もう実家に行っても、施設に行っても、病院に行っても、どこに行っても親父に会えないんだなと思ったら、涙が後から後からあふれ出して来ました。
酒を胃に流し込めば流し込む程、自分の殻に閉じこもって行くのを感じました。
私はこの晩、死んだ父の事を想いながら酒を飲み続けました。
※同じような批判コメントを付ける方が多いので、それに答えた各記事があります。
批判をする前に、まずそちらに目を通して下さい。→ 中傷、反論する者に答える。