モラハラ被害者が、加害者から逃れられない理由 | 私が不倫をした理由

私が不倫をした理由

ヒステリックなモラハラ妻との、まるで地獄のような20年間の結婚生活から離婚までの記録を綴っています。

[ご注意]

 これは、妻が書いたこの記事「一度モラハラを受け入れてしまったら」の文面をそのまま引用し、自分なりに文書を付け足した記事となっています。

 

 

 

 

 

 私には三年付き合った彼女がいました。

 怒ったり中傷する事も無く、ほんわかした優しい彼女でした。

 ある時、その彼女が、携帯の中に保存してあった前妻の写真を見てこう言いました。

 

「思ったより若くないね。ほうれい線も凄いし、これだったら私負けてないな」

 

 この彼女の言葉に、私はかなり苛ついたのを覚えています。

 必死になって前妻を庇いました。

 

「いや、これは単に写真移りが悪かっただけだよ。実物はもっと若いよ!」

 

 むきになって反論する私を見て、彼女は完全に引いていました。

 言った後に、不思議な気持ちになりました。

 何故私は、ここまで私を傷つける前妻を庇っているのだろう。

 どうして、私は前妻をけなされて苛ついたのだろう。

 

 

 

 そう言えば、前妻の愚痴は方々で言っていました。

 愚痴を聞いた友人は、前妻に非があるのでは無いか?と言います。

 しかしそれを聞いた、愚痴を吐いている当の本人が、

 

「いや、あいつだって頑張ってるんだよ」

 とか、

「いや、俺にも悪い所があるんだよ」

 と、前妻を庇う発言を繰り返しました。

 

 思えば本当におかしな言動です。

 愚痴を方々で言う程、耐えられないくらい出来損ないの妻なのです。

 そして当然の事ながら、それを聞いた人は出来損ないの評価を下すのです。

 しかし、出来損ないだと言い出した当の本人が、その出来損ないを庇うのです。

 当時、私はこの矛盾した自分の言動を理解する事が出来ませんでした。

 

 

 

 共依存に関して、以前考察記事で詳しく論じました。

 まだご覧になっていない方はこちらからどうぞ→共依存の恐怖

 

 前妻と私は、共依存によって別々の人間でありながら、一人の人間のようにぴったりと重なっていたのです。

 そう、まるで陰と陽のように。

 

 

 前妻と私は、一人の人間でした。

 ですから、けなされたら苛つきますし、出来損ないだと言われれば反論もしますし、庇ったりもするのです。

 

 だってそうでしょう?

 誰だって、自分自身をけなされたり、出来損ないだと言われたら、苛つきますし、反論もするでしょう。

 

 

 

共依存状態。

 これがモラハラ加害者と被害者の関係性であり、それ故被害者は加害者を庇う発言を繰り返してしまうのです。

 

 

 

 でも、少し客観的にご自分を見つめて下さい。

 本来は別々の人間なのです。

 それが一つの人間になっている事が、いかに異常で気味の悪い事かを。

 

 

 

 ロイコクロリディウム。

 

 

 これは、カタツムリ専門の寄生虫の名前です。

 

 カタツムリは、普段葉っぱの裏側などの陰にいますが、この寄生虫はカタツムリの脳を侵し、カタツムリを操ります。

 明るいところや目立つところの本来嫌いなカタツムリを、そうした場所に行かせます。

 

 鳥に捕食させるためです。

 そして今度は、鳥に寄生して成虫に育つという戦略を取ります。

 この寄生虫の宿主となったカタツムリは、普通のカタツムリの形状ではなくなるので、一目でわかります。

 

 

 動画はさらに気持ち悪いです。

 目を背けずにご覧になって下さい。

 

 

 

 

 

 自己愛性人格障害者に標的にされ、それを許した人間は、最終的にはこのカタツムリと同じになります。

 

 

 

 例えば、夫婦のどちらかが自己愛性人格障害者だとします。

 

 夫婦であれば、二人の人間が、二人の意志によって同じ道を歩むのが、本来のあるべき姿ですが、自己愛性人格障害者とそのターゲットの歩みは、ほぼ一人の意志によって決定しています。

 

 

 

 食事のメニュー、どこへ行くか、今日S●Xをするのか、そんな小さなことから、

 購入する家や車、親と同居する・しない、子どもを作るかどうかまで、

 

 あなたの望みはかないません。

 二人でいるにもかかわらず、常に望みがかなうのは、

 自己愛性人格障害者だけです。

 (強行にターゲットが意思表示すれば聞き分けられることはありますが、それは自己愛性人格障害者にさほど関心のない場合のみ、しかもかなりしつこく恩に着せられます)

 

 しかも、この状態が進行すると、それがさほどおかしいとは思わなくなるのです。

 (なのに苦しみだけは強くなるので、何が起こっているのかわからないまま苦しむ事になります)

 

 

 

 何故なのか?

 

 それは、あなたもその生き方を選んでいるからなのです。

 それを、共依存と呼びます。

 

 

 

 あなたは思っているはずです。

 

「この人は、私がいてあげないと、ダメになる」

 

 こんな風にも感じているはずです。

 

「俺は強くて力がある、コイツの人生を、俺が幸せにしてやる」

 

 それは、愛でも親切心でもありません。

 一種の傲慢です。

 

 あなたは、自分が相手より上だとして、相手を見下しているから、「対等な関係」よりも「保護者」になることを望んだのです。

 相手の言うことをすべて受け入れることを「愛」だとして、その愛を示せる「度量」を持っていると自己過信しているのです。

 

 

 

 また、あなたはこの点を認めることが、出来ないのです。

 

「同じ人間なのだから、この人だって心を持っているはずだ」

 

「私の気持ちが、いつか響くはずだ」

 

 こういう理由で、認められないのです。

 

「だって、そうならなきゃ、私の努力や頑張りや忍耐が虚しすぎる」

 

「こんなに時間をかけて、何度も何度も繰り返し言った、報われないなんておかしい」

 

 

 あきらめるべきです。

 執着するのはやめましょう。

 もう、分かっているはずです。

 

 自己愛性人格障害者は、同じ人間ではないのです。

 恩を仇で返すことが平気で出来る、人では無い何かなのです。

 あなたの心の痛みなど、彼らは知りません。知りたいとも思っていません。

 

 もう一度言います。

 彼らは外見は人間です。

 しかし中身は、人では無い何かなのです。

 昆虫が本能で動いている、それに彼らは近いのです。

 

 

 

 彼らは、あなたが示す「優しさ」を、「愛」だなんて評価していません。

 単に都合が良いので取り付き、ヒルのようにあなたの善意に吸血しているだけです。

 

 あなたは、考えなくてはいけません。

 

 あなただけが与え続けるのは、正しい事ですか?

 彼らだけが受け取り続けることに、なぜおかしいとは感じないのですか?

 

 

 

 あなたの意志で、あなたの人生を生きていないあなたは、

 寄生されたカタツムリと同じです。

 グロテスクな生き物です。

 すでに普通のカタツムリではありません。

 

 それでもカタツムリはまだましです。

 選んでそんな人生を送っていないからです。

 

 しかしあなたは選び取ってしまった。

 ですから、カタツムリ以下です。

 

 

 

 共依存をされた人は、自分と相手がほとんど同一の存在になりかけています。

 共依存が深ければ深いほど、別れの際には我が身を引きちぎるような激痛を感じると言います。

 

 しかし、その激痛を耐えてこそ、新しい人生が始まるのです。

 

 私にも出来ました。

 私に出来て、あなたに出来ないわけはありません。

 

 大切なのは、一歩を踏み出す勇気です。

 激痛は伴います。

 しかしその一歩は、未来への大いなる一歩なのです。

 

 

 

 

 

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