パワハラ伯父の家に住み込みでお世話になった時の話 | 私が不倫をした理由

私が不倫をした理由

ヒステリックなモラハラ妻との、まるで地獄のような20年間の結婚生活から離婚までの記録を綴っています。

 これは私が24歳の頃の話です。

 前妻と結婚して、ちょうど一年が経過した頃です。

 

 その日は休日で、街を歩いていた時の事です。

 突然なんの前触れも無く吐き気がしました。眩暈がして息を吸うのも苦痛になりました。

 しかししばらくするとその症状は治まり、あれはなんだったのだろうと思いましたが、その日は理由も分からずそのまま流してしまいました。

 

 別の日、この日は朝の通勤電車に乗っていた時だったと思いますが、私は吊革につかまり、前の椅子には人が大勢座っていました。

 電車が揺れたのでしょう。私は後ろの人に押されて、前の椅子に座っている人の頭に私の顔が急接近した時の事です。

 またあの時の謎の吐き気がしました。そしてその時私は思い出しました。前の椅子に座っていた人が使用しているシャンプーが、以前私が愛用していたシャンプーだったのです。

 つまりそのシャンプーの匂いを嗅いだ時に、その当時のトラウマが蘇って来たので吐き気がしたのです。

 

 

 

 話はその時から何年か前に遡ります。

 

 同じ歳の従妹が、交通事故を起こし緊急搬送されました。

 搬送された時から意識が無く、もう後は死を待つのみという状況でした。

 

 まだ若い息子が、後は死を待つのみという絶望的な状況に立たされた、悲しみに暮れている伯父と叔母を見ていると、何か私にも出来る事は無いのか?と言う気持ちになりました。

 

 伯父は、小さいながらも会社の社長をしていました。

 病院のベンチで伯父は私にこんな事を言い出しました。

 

「息子はもう助からないと思う。エル君もしよかったら、うちの会社を継いではくれないだろうか?」

 

 私は、私心無く、この悲しみに暮れている伯父と叔母の助けになりたいと思い、当時働いていた職場を辞め、伯父の会社に勤める事にしました。

 従妹は搬送されてから数週間後に、意識が戻らないまま亡くなりました。

 

 

 

 当時私は実家に住んでおり、新しい職場は実家からは電車で数時間の場所にあった為、私は住み込みで働く事になりました。(伯父宅は空き部屋が多かったので、社員の寮も兼ねていました)

 当時、私の他に数人の社員が住み込んでいました。

 

 しかしここでの生活は、まさに地獄そのものでした。

 外で会っている時は、物静かでダンディな伯父が、まるでジキル博士とハイド氏のような二重人格であった事を、私は最初に思い知らされました。

 日常的に激怒する。そして小言が細かい上に長い、そして通常では怒らないポイントで怒るという扱いに大変困る方でした。幾つかあげておきます。

 

 

・叔父は常にタバコをくわえているのだが、その吸っているタバコの灰を、床にトンと捨てる。それを社員が瞬時に掃除する。

・洗面台の鏡に、一粒でも歯磨きの時にはねた後があったら、仕事の手が空いた時に呼び出されて一時間の説教。

・朝、窓を開けていない事で激怒その後説教された。しかし実はその前日に、寒いから窓をこれからは開けなくて良いよと、叔母に言われたので開けなかった。しかし伯父の性格を熟知している叔母は、横にいてもそれを黙っていた。

・盗聴器が食堂に仕掛けられていて、社員同士の話しを聞いている(これは、社員同士でした話しを何故か伯父が知っていて、それをネタに説教された事があって、社員同士で打ち合わせて、伯父を褒めるような話しをした事があったのだが、次の日満面の笑みで機嫌が良かったので、判明した)

・伯父が自虐的な冗談を言って、しかも自分で爆笑していたので、周囲で聴いていた社員も合わせて笑ったら、その事で激怒「お前らは俺の事を馬鹿にしているのか!?」と説教。

 

 

 

 あとこれは私ではない社員の話なのですが、伯父の頭のおかしさが良く分かる話なので二点ほど上げておきます。

 

 まず一つ目。

 伯父のパワハラのおかげで、すっかり胃を壊した社員がいました。彼は「胃が痛い」が口癖でした。

 ある日それを聞いた伯父が言いました。

「会社の花壇にアロエが生えているから、それを食え。アロエは胃に良いんだぞ」。

 でもそのアロエは、食用ではなく観賞用でした。

 その社員は悩みました。

 食べないとまたキレられる。無理して観賞用のアロエを食べようか、どうしようか……。

 彼が迷っていると、伯父が

「アロエ食えって言ってんだろ!」

 と激怒しました。

 

 二つ目。

 会社では3時にお茶の時間があって、叔母が購入した特売の安物のプリンとかコーヒーゼリーが出されます。この時にお茶も出してくれるのですが、夏は麦茶、冬は日本茶でした。

 とある若い社員が、

「お茶なんて飲みたくない」

 と、会社の外の自動販売機にジュースを買いに行きました。

 それを見ていた伯父が激怒しました。その場にいた全員が意味も分からず固唾を飲んで見守っている中、伯父が言った一言がこれです。

「お前が外にジュースを買いに行ったら、俺が社員にお茶を出してねえと思われるだろうが!」

 ……誰もそんな事思いません。社員一同開いた口がふさがりませんでした。

 

 蛇足ですが、30歳を過ぎるまでコーヒーゼリーが食べられなかったのを今思い出しました。

 あの時に食べ飽きたからだと思っていましたが、無意識のうちに避けていたのかも知れません。

 

 伯父夫婦には、当時25歳の娘がいたのですが、回覧板さえまともに隣にまわせないほどのお嬢様でした。

 社員には厳しいくせに、子供には激甘な所も私は納得いきませんでした。この馬鹿娘にも散々モラハラをされましたが、長くなるので割愛します。

 

 

 

 私が住み込んで1年ほどしてから、当時一緒に住んでいた社員は全て辞め、私1人だけが住み込んでいました。

 さて、ここからが本当の地獄でした。

 

 ある時インフルエンザにかかり、40度以上の熱があり、トイレに立つのも寒気がして行けないぐらい衰弱していた時、伯父は私にこう言いました。

「会社に行くぞ」

 私は耳を疑いました。

 私は言いました。

「いや、熱が40度以上あって、トイレも行けないぐらいなのに、今日ぐらい仕事を休ませてください」

 しかし伯父は言いました。

「そんな時だから、お前が頑張って出社すれば、社員全員の励みになるだろ!ほら早く支度しろ!」

 私は高熱のまま職場に行きました。

 その日は全く仕事になりませんでしたが、それでもその姿を見せる事が大切なのだと伯父は高笑いしていました。

 

 

 

 普段の食事は、叔母が主に作ってくれました。

 この叔母が、料理が苦手でこれまでも適当な食事しか提供されていなかったのですが、住み込み社員が私1人だけになった時に加速度的に適当になりました。

 ご飯を毎日炊くのが面倒くさいので二日分炊くのが彼女の癖でした。

 それを冷凍してレンジでチンして食べるのかと思いましたか?

 ラップに包んで冷凍なんて面倒くさい真似を勿論叔母がするわけがありません。

 二日分炊いて、そのまま保温です。つまり炊いた初日は美味しく食べられますが、次の日やそれ以降は、お米が乾燥してしまい、かちかちになってとても食べられたものではありません。

 

 それで私は文句を言いました。

「保温だとカチカチになって次の日食べられません」

 叔母は、

「分かった」

 と言ってくれたので、毎日1合ずつ炊いてくれると期待していましたが、叔母はそうはしませんでした。

 

 初日は普通に2合炊きます。

 当然1合ほど余るのですが、これは保温だとカチカチになるので、どうするのかと思っていたら、線をコンセントから抜きました。

 つまり蓋をしめたまま冷蔵庫にも入れずに放置です。

 当然炊飯窯の中でお米は臭くなります。酷い時は腐ります。

 あきれ果てた私は、もう言っても無駄なので、二日目はご飯を食べませんでした。

 

 ただこの頃、新築した豪邸に伯父一家は引っ越してくれたので、臭くなったご飯を無理やり食べさせられると言う事は無かったのだけは、唯一の救いでした。

 腕組みした伯父に見られながら臭くなった(腐った)ご飯を無理やり食べさせられていたのならば、私は一生お米を食べられなくなっていたかも知れません。

 あの伯父ならば、

「捨てるなんて勿体ない!俺が子供の頃は戦時中で云々……」

 と説教しながら、無理やり食べさせる事もしたかも知れませんからね。

 

 しかしゴミ箱に米が捨ててあったのならば、翌日それを発見した伯父に説教されるのは目に見えていたので、私は流せるものは、全てトイレに流しました。

 米のような大量のゴミは仕方が無いので、近くのコンビニのゴミ箱まで捨てに行っていました。

 

 ちなみに、食事は焼いた魚とみそ汁とご飯とかそんな質素な食事しか与えられませんでしたし、1日置きにお米は食べられないので、私は栄養失調でどんどん痩せていきました。

 伯父によるパワハラの影響も当然あったのだと思います。

 

 当時60キロあった体重は、1年経過した時には、50キロまで落ちてしまいました。

 ガリガリに痩せてあばら骨は浮いていました。このままでは死ぬかも知れないと焦った私は、ポカリスエットとまがりセンベイを大量に買い込み、それで何とか命を繋いでいました。

 勿論お菓子も見つかれば怒られますから、見つからない所に隠しました。

 

 どうして辞めなかったのですか?とあなたはお聞きになると思います。

 実は入社して3ヶ月くらいで限界を迎え、退社したいと言ったのですが、同じ仕事が出来る者が入って来るまで辞めさせないと退社拒否されたのです。

 伯父と甥っ子という立場上、母と伯父叔母との関係なども考慮した結果、無理やり辞めるという選択が取れなかったのです。

 

 私はそれから1年と2ヶ月してから、やっと同程度の仕事が出来る者が入社し、辞められたのです。

 辞める時も凄くゴタゴタして、私は悔し過ぎて男泣きしてしまったのですが、この時の事は思い出したくも無いので書きません。

 

 さて、私が若い頃に経験したこの地獄のような住み込み経験は、私の心に少なからず心的外傷の爪痕を残しました。

 退社して数か月してから、私は街で何度か吐きそうになる経験をしました。それは住み込み当時私が愛用していたシャンプーと同じ匂いを嗅いだ時に、フラッシュバックしたからだと思います。

 

 

 

 

 

 早い物で、この時から20年以上が経過し、恨みや怒りの気持ちは収まり、この時にお世話になった社長ご夫婦は今頃どうしているのだろうと、懐かしく考えるようになりました。

 

 これまでずっと会う事を拒絶して来ましたし、私が起業した事すら伯父叔母に伝えていませんでしたが、先日久しぶりに、母から番号を聞いて、伯父の携帯に電話をかけてみました。

 

 伯父はガンに侵されていました。

 伯父と叔母は、私から久しぶりに電話があった事を非常に喜んでくれて、涙まで流してくれました。

 

 明日、その伯父と叔母に会いに行く事にしました。

 

 実に22年ぶりです。

 

 母から聞きましたが、伯父はガンになってからとても周囲の人達に優しく接するようになったそうです。

 確かに電話の向こうの伯父は、とても優しい声で語り掛けてくれました。

 

 明日がとても楽しみです。

 水曜日に結果を報告しますね。