#13 隠居失格 ~ 本当に「年寄り」なんてものがいると思うか? | 吉岡 暁 WEBエッセイ ③ ラストダンス

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WEBエッセイ、第3回

 

         

 

  時折、自問することがある。

  (俺はどうも、人並みに、上手に年をとれてないのではないか?)

  例えば、古希を過ぎてもまだ完全には仕事を辞めていない。実社会との断絶が怖いからだろう、と思う。

  ゲートボールも、老人会も、ガーデニングも、カラオケも、シニア英会話も、地域貢献ボランティア活動とやらも何一つ関心が湧かない。徹頭徹尾、無趣味だ。

 

  口を開けば常に自分語りを始める隠居達には、敬して遠ざかっている。以前にも何度か同様のことを書いたが、黙って聞いていると本当に自分の一代記を語り出す人がいる。

  (あんたなあ・・・)と、内心溜息が出る。現役時代は、そんなみっともない真似は絶対しなかっただろうに、今のその無様なタガの緩み具合は何としたことだ。 そんな風に思ってしまう。従って、高齢者と話すときは、少なくともこちらにも問いかけて来る好奇心を余した人を選ぶ。まだ会話のピンポンが成立する人、という意味だ。

 

  とは言うものの、こういうスタンスはしばしば誤解を招く。

  格好つけて言えば「狷介固陋」、平たく言えば「気難し屋の頑固爺」と思われる。どう見ても、平穏な老後を送れる可能性は低い。

  現に、娘からもその種の批判を受けたことがある --- そういう、人間嫌いの唯我独尊的態度を続けていると、寂しい老後になるよ。

 「何を生意気な。ション便臭い小娘が!」と、その時私は悪態をついたが、内心(それはまあ、そうだろう)とも思った。

 

  この時の娘とのエピソードには後日談があって、ある時、娘が将来の結婚について、「結婚式とか、相手の実家とのお付き合いとか、孫ができたとか」世間では諸々の事があるようなので、まだまだお世話になります、みたいな軽口をたたいた。

 「知らんよ、んなもん」と、私は即答したことを覚えている。娘は、「え~~~!」というような抗議の声を上げたが、半ば冗談と思っているようだった。

  無論、私は本気で言った。

  正直、育てやすいというような子ではなかったので、一時は(これは格闘技か?)と思うほど手を焼いたし、社会人として巣立つまで、我ながら共依存を懸念するほど時間も費やした。故に、「結婚式」だの、「相手の実家とのお付き合い」だの、「孫」だのという付随タスクはもう御免被りたいというのが偽らざる本音だ。

  日本の家制度に基づく慣習からは逸脱するものの、私が逸脱しているのは何もその手の慣習だけに限ったことではないので、別段気にもならない。おそらくサポートは今後もするだろうけれど、その対象はあくまで娘個人であって、それ以外の要素には(孫も含めて)関心が湧かない。(器が狭いと言われれば、確かにその自覚はある。) 「そんなことを言っても、孫の顔を見たら」云々という冷やかしも受けたことがあるが、それは人それぞれ、家族それぞれとしか言いようがない。

  そういう意味でも、やっぱり隠居失格かな、とは思う。

 

 

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  さて、本論。

  本当に「年寄り」なんてものがいると思うかい?

  六十、七十、八十と年輪を重ね、その度に心が成熟し、達観し、枯れ、揺らぎない慈愛に満ちていく ---- なんてことが本当にあると思うかい?

   君が誰かの孫であって、「うちのジージやバーバはそうだ!」と信じているのなら、これまた以前に書いたように若者への脅し ~ 老体に閉じ込められた未熟なままの心相当想像力が不足している。

   「おじいちゃん」、「おばあちゃん」などというものは存在しない。経年劣化した肉体に閉じ込められ、様々な不安を抱えつつも、瘦せ我慢をして生きている「ヒト」がいるだけだ。

  私は、孫ができたら可愛がるか?

  可愛がるだろう。

  但しそれは、これまでに蓄積された我が子への思いの単なる照り返しに過ぎない ---- そういうものだ、と私は思う。

 

  

   どうであれ、以上の本論も、崩壊家庭、機能不全家庭には当てはまらない事は言うまでもない。

  

 

  

                             (2022年6月7日)

 

 

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