「毎日、毎日、辛くて堪らない。苦しくてならない」
「何のために生きているのか分からない」
「誰も自分のことを理解してくれない。寂しい」
「将来どうなるのか、不安で胸が押し潰されそうだ」
この手の面倒くさい相談を持ちかけてくるのは、専ら思春期の子供だけと思ったら大間違いで、実は九十過ぎた老翁老婆でも大して中身は変わりない。
当たり前だ、所詮ヒトだもの。
しかし、そんな状態になってしまっても、心療内科でリフレックスやレメロンを処方される前に取るべき対処は幾つかある筈だ。
「ニーチェでも読めよ」と私なら言う。(自分が言われる側に回ったら激怒するだろうが)。
<人間は、地球の皮膚に湧いた疥癬菌である>という意味の箴言をニーチェは残した。
些か偽悪趣味が覗いていても、<人間は考える葦である>などという小ぎれいな比喩より遥かに的確ではないか。
何のために生きているのか分からない?疥癬菌ごときがしゃらくさい。
君も私も水虫みたいなものなので、ただ湧いて出て、這いずり回って栄養摂取し、やがて消滅するだけの一生だ。だから、分不相応な悩みを悩まず、日々楽しいことを探して、一生懸命這い回れ。疥癬菌の何が悪い、と居直れ! ----- 鬱病患者がこんな事を言われたら一層病状が悪化するかも知れないが、それでも、鬱病の大先輩であり、人生の半ば以上を長々と抑鬱を引きずって生きてきた私としては、本心からそう忠告する。
もう少し見栄えの良い心構えもある。
たまにはどこか田舎へ行って、満天の星空を一晩眺めることだ。
想え ----- この大地は、文明と言う名の、うじゃうじゃと蠢く疥癬菌のクラスターをへばり付かせたまま、時速1,500kmで自転し、時速110,000kmで太陽の周りをグルグル回り、なおかつ時速216万kmで、まるまる銀河系ごと、膨張宇宙に波乗りして、暗黒の中を、どこか知らない時空間まですっ飛んでいる最中なのだ。
何という壮大さ、何という巨大な虚無、マクロとミクロの圧倒的な距離。少しだけでもそういう想念に浸るだけで、少なくとも<将来どうなるのか、不安で胸が押し潰されそうだ>などという卑小極まりない戯言も口にしなくなるだろう。
思ってもみるが良い。母なる地球自身が将来どうなるのか分かっていないのだ。
地球:(足の水虫をボリボリ搔きながら)ねえ、パパ。私達、どこに向かって飛んでるの?
太陽:知らねえよ、そんなこと。家主の銀河に聞け。
銀河:そんなこと言われてもねえ。私はただ、他の銀河さん達に付いて来ただけだし。
他の銀河:どっかのバカが風船破裂させたばかりに、俺達ゃみんな行先知れずの鉄砲玉よ。
どっかのバカ: ・・・・・
因みに、もし神などというものが実在するのなら、私には聞きたいことが一つある。
知性と想像力、深い喜怒哀楽の感情を、選りにもよって疥癬菌に植え付けるとは、一体どんな悪魔的加虐趣味なのか?と。
どうであれ、知性と想像力を植え付けられたバクテリアである我々は、怖れ、震え、怒り、憎み、妬む。
致し方ない。どこかの阿呆がそんな風に設計した。
そのような感情の嵐に吹き晒された夜には、ゲームなどに逃避せず、静かな音楽を聴きながら詩でも読むことだ。
私には、若い頃からお守りのように心の底に携えてきた三好達治の詩句が一つある。
静かな眼、平和な心、その外に何の宝が世にあろう
(2022年6月3日)