吉岡 暁 WEBエッセイ ③ ラストダンス

吉岡 暁 WEBエッセイ ③ ラストダンス

吉岡暁 WEBエッセイ  ラストダンス
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WEBエッセイ、第3回

     

 

 

私は時折、夜にドライブする。

別に車が好きなわけではない。若い頃から車などに何の関心もなく、屋根が付いてて車輪が4つあれば十分じゃないか、くらいにしか思っていなかった。

それがいつの頃からか、夜のドライブをするようになった。

地方都市のアドバンテージというか、夜も10時を過ぎると路上に歩行者も車も姿を消す。

桜はとうに終わり、六月に入ると道路左右の田畑からカエルの声が聞こえてくるようになる。

住宅建築が制限されているので、夜空が広い。そこに、朧月がぽっかり浮かぶ。

こういう時、以前にも書いたように、必ず一種のサンチマンが胸を過る。

ああ、俺はこんなところで何をしているのだ?

そう思う。

これまでやってきたこと、終に果たせなかったこと、出会った人々、過ぎ去った人々。

夜に車を走らせていると、今日まで生きてきた思い出が次々にヘッドライトに浮かんでは、後方に消え去っていく。

稀に、何とはなく人の声が聞きたくなるような時、行きつけのコメダ珈琲に立ち寄る。さして飲みたくもないコーヒーを啜りながら、多分私はそこで少し現実感を取り戻す。

帰路、ウィンドウを半開にして走る。流れ込む夜気は、まだ僅かに初春の涼しさを残している。

人気の消えた暗い路上を、街灯の白色光が照らし出している。

そこで、また思う。ああ、俺はこんなところで何をしているのだ?

 

いつまでたっても、心が穏やかに老いてくれないようだ。

 

                                                                           (2024.10.26)

 

 

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現役ヘルパーが描く認知症患者の生活~ (バンブーコミックス エッセイセレクション) Kindle版 吉田美紀子 (著)  形式: Kindle版
 
 
 
上記2冊のコミックをキンドル版で読んだ。
正直、感服した。
『現役ヘルパーが描く介護現場の真実』などという安っぽいサブタイトルに目を瞑れば、これは傑作だと思う。
もちろん、私自身がこの作品に登場する様々な認知症患者達の年齢に到達して、他人事とは思えないセンシティビティが湧くという背景はあるにせよ、決してそれだけではない。(それだけなら、面倒でわざわざこんな書評を起こす気にはなれない)
各エピソードの人間観察に歯ごたえがあって、読み甲斐がある。
もっと言えば、それぞれのエピソードのラストシーンで、人間存在を見事に視覚化している。
個人的な嗜好を言えば、葬儀屋の施す死化粧のように綺麗過ぎるリリシズムが所々に感じられるものの、例えそうであってもこれは優れた作品に違いない。
作者はもともと漫画家で、かつ現役の介護ヘルパーと著者紹介欄にあるが、少なくともこの作品は、よく見る献身的な介護士の現場エピソードという性質のものではないだろう。間違いなく一人の作家が、透徹した視線で人間を観察・解剖し、最後に小奇麗に死化粧を施したコミックエッセイとでも言えば良いか。
繰り返すが、これは傑作だと思う。
 
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前述の通り、そろそろ認知症の心配が頭を過る年齢の一読者としては、この作品の底流にある介護士達のプロフェッショナリズムには、正直「恐怖」を覚える。
例えば、この作品で私は「摘便」という介護用語を知った。排泄能力が低下した認知症患者の肛門に指を挿入して便を掻き出すことだ。不謹慎に響くのを百も承知で言うなら「なぜそうまでして生かしておこうとするのか?」と私は心底訝しむ。
それもヒポクラテスの誓いと言うのなら、「病者の利益」の解釈が間違っている。人間存在とは、単なる心肺機能の持続だけではない筈だ。
また医療は、アイデンティティの崩壊や自我の融解、それに伴う苛烈な不安への対処にも向けられるべきであって、死そのものは決して悪ではない。
末期的な見当識障害を抱え、記憶は断続的な細切れモザイクと化し、友人知人は言うに及ばず家族も忘れ果て、今がいつで、どこにいるのかも知らず、終には自分が誰なのかも分からず、まるでカフカの悪夢のような世界にあって、毎日動物的な生存不安に幼児のように怯え続ける ---- 拷問ではないか?
のような老人達にとって、死は救済でなくて何か。
 
もし認知症が発症したら、私ならどうするか?
日本では、自分が自分でいられる間に自分の始末をつけるには、アーネスト・ヘミングウェイのようにショットガンで自分の頭を吹っ飛ばす簡便さが得られない。しかし100万円弱の支出で、オランダ、ベルギー、ルクセンブルク、カナダ、スペイン、イタリア等の尊厳死を認める国へ片道旅行ができる。私なら、私が私でいられるうちに、間違いなく片道旅行のエアチケットを買うだろう。ショットガンと比べて明らかに手間はかかるが、他にこれという選択肢はない。
 
                                                                              (2024.05.06)
 
 
 

 

 

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先日の金曜、所用で隣町のY市にある取引銀行の支店に行った。

ある変更手続きをするだけの事なのに、例によって署名捺印が必要だった。

(いつまでこんな面倒なことを・・・)と私は不満だったものの、時は四月半ば、そこかしこに桜が咲き乱れ、春爛漫の薫風が心地良かった。

その日、駐車場のある駅前のバスターミナルから銀行に向かう途中、私は一人の「歌手」と遭遇した。

最初は、どこかのカラオケ店から歌声が漏れているのかと思った。

しかし、改めて辺りを見渡してもカラオケ店らしきものはない。

ん?と訝しがっている内に、その「歌手」が前からやって来た。

腰が直角に曲がり、強張ったような両腕をピンと伸ばして歩行器を押す老人が、歩きながら歌っている。

「♪ 泣~くな妹よ、妹~よ泣くな~」

何と言えば良いだろう、年配のカラオケ客特有の自己陶酔というか、長年に亘って歌い込んできたと思われるド演歌というか、とにかくそういう歌い方だった。決して音痴ではない。

とにかく、私達は真正面からすれ違った。

私は咄嗟にホームレスかと思い、(おっとっと)という感じで脇に退いた。それほど衣服がヨレヨレでみすぼらしく、正体不明の分厚い布を歩行器のバスケットに掛けている。ただ理由は書けないが、その歩行器のネームプレートにより、ホームレスでないことは分かった。

すれ違いざま、目が合った。

何らかのトラブルを予感して、私は内心緊張した。

だが、歌手の目を見て私はすぐ悟った。

きっと、険しく敵意に満ちた視線を飛ばしていたのは私の方であって、相手は私のことなど只の障害物としか見ていなかったに違いない。それほどにその目は虚ろで、遠慮のない感想を言うなら、(半分はもう極楽浄土に行ってるな)と思った。

 

 

 

銀行では、今後金利が上がるのでまた預金も御願いしますと言われ、旧友Aの決め台詞を借りて「余分な資金なんか一銭もないですよ」と応じた。「晴れの日に傘売りつけんな」とはさすがに言わなかった。

駅前のバスターミナルに戻ると、あの歌手がリサイタルをやっていた。

眩い陽光が溢れるバスのロータリーのベンチにどっかと座り、歩道の真ん中に歩行器を不法駐車し、缶ビールだか缶チューハイを片手に、高らかなテノールで歌っている。

「♪ 泣~くな妹よ、妹~よ泣くな~」

不運にもその場に居合わせたらしい5~6人の女性のバス待ち客は、ベンチ二つ分距離をとり、あらぬ方向を眺めながら視線を合わすまいとしている。

歌手は御丁寧に口伴奏の前奏から始めるのだが、酔いのためか記憶障害でもあるのか、壊れたレコードのように「泣~くな妹よ、妹~よ泣くな~」を繰り返す。

遅まきながら、私はその時理解した。

これは、この老人の花見なのだ。

ロータリーの周りには桜の木など一本もなかったが、老人は楽しく酔い、楽しく放歌高吟し、到底幸せとは見えない現在の境遇と調和を図っている。

バッド・タイミングとは言え、聞いてくれる不運な観客までいる。

ある意味、一種の人生の達人ではないか。

そう思った。

 

 

帰宅後、あの壊れたレコードの続きが気になったので、検索してみた。「人生の並木道」という歌だった。しかしさすがに一回り以上世代が違うので、佐藤惣之助という作詞家もディック・ミネという歌手もよく知らない。壊れたレコードの全体の歌詞はこうなっている。

 

 

  泣くな妹よ 妹よ泣くな
  泣けば幼い ふたりして
  故郷を捨てた 甲斐がない


  遠いさびしい 日暮の路で
  泣いて叱った 兄さんの
  涙の声を 忘れたか


  生きて行こうよ 希望に燃えて
  愛の口笛 高らかに
  この人生の 並木路

             

            (昭和12年(1937年)。作詞:佐藤惣之助  作曲:古賀政男)        

                                                     

 

 

                         (2024.04.13)

 

 

 

 

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この辺りでも、桜が咲き出した。

だからって私は別に嬉しくとも何ともないが、ともかく春が来た。

暖かくなる。エアコンもストーブも要らない。持病の寒暖アレルギーから

解放される。それがありがたい。

 

もろともに あはれと思へ 山桜 

花よりほかに 知る人もなし(百人一首66番)

 

 

 

 

 

のろい客。

やっとこさ客先から指示が来た。

これで今の仕事が終了できる。

(いくら客だからって、一週間も待たすなよな)

 

 

 

株トレード。

ちっとも儲からないのはどういうわけだ?

 

 

 

 

娘。

ちっとも帰って来ないのはどういうわけだ?

 

 

 

 

                                (2024.04.02)

 

    

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何という事もない話。

もうかなり前、夜の10時過ぎに最寄り駅まで娘を迎えに行ったことがある。

時間が時間だけに、地方都市の駅のロータリーは殆ど人影がない。

娘を見つけて車を止めると、彼女は誰かと熱心に立ち話をしていて、なかなか車に入ってこない。

(誰だ??)訝しく思ったものの、その夜ちょっと疲れ気味だった私は(早くしろよ)と多少苛立った。

やがて娘は車に乗り込んで来ると、不意に「父さん、ちょっと通訳して」と言った。

(??)多分、その時私は間違いなく嫌そうな顔をしたと思うが、取り合えず車から降りた。そこに、バックパッカー風の小柄な西洋人の娘が立っていた。

 

話を要約すれば、娘は駅のロータリーでこの外国人旅行者に呼び止められた。新宿行の夜行バスの乗り場はどこか聞いているらしく、自分なりに教えたが英語に自信がない。だから自分が言ったことを相手がちゃんと理解したか確認してくれ、というようなことだった。別に通訳の必要はなく、イタリア娘はちゃんと分かっていた。

ついでに、娘と同年輩のそのバックパッカーがイタリア人であること、今から夜行バスに乗って東京へ帰る予定、云々という話を改めて娘に伝えた。娘は満足そうにうんうんと頷いた。それから、100メートルほど離れた夜行バスの乗り場まで案内すると言った。(親切というか世話焼きというか・・・)正直私はうんざりしたが仕方ない、乗りかかった船だ。

ひとつ気になったのは、バスの出発時間までまだ2時間以上あることで、それまでこの人気のないロータリーで若い女が一人でいるというのもどうかと思った。そのように言うと、イタリア娘はまだ営業中の明るい駅ビルの中で待つ、と応えた。また、自分は旅行者ではなく、留学生として東京に住んでいる(日本に慣れている)ので御心配には及ばない、と言う意味の返事をした。英語はあまり上手くなかったが、しっかりした子だと思った。

バス乗り場まで同行し、そこで別れた。

 

それだけの話だ。

帰路、車内で娘がポツリと呟いた。「ああ、良かった・・・」

(変わっている)と、私は思った。もし声をかけられたのが私なら、十中八九「It's over there」と指差しだけで済ませただろう。私は決して不親切な人間ではないが、「ああ、良かった・・・」と呟くような純朴な親切心あるいは感情移入のメンタリティは持ち合わせていない。

しかし私も、その時からこの種の親切心や世話焼きについて、考えが多少変わった。

娘のこういう世話焼き癖も、ひょっとして「余計なお世話」というだけでなく、案外社会においてなにがしかのポジティブな役割を果たしているのかも知れないと思った。人間関係における純朴な好意の効果とでもいうか。

尤も、どんな効果を発揮したかは、あのイタリア娘に聞いてみないと分からないが。

 

 

                                                                             (2024.03.29)

 

 

    

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貴きもの

 

娘よ。

私の娘よ。

人は傷つく。

途方もなく傷つく。

ときに、心の器の数倍もの血を流す。

心根が細やかであればあるほど、

傷はいっそう痛みを増す。

 

娘よ。

私の娘よ。

傷ついた人は、憎む。

途方もなく憎む。

ときに、痛みの数倍もの憎しみを心に宿す。

心根が細やかであればあるほど、

憎しみはいっそう激しく燃え上がる。

 

昔、昔、大昔。

月下の嶮路で、旅の僧侶と飢えた老虎が鉢合わせした。

虎はこの遭遇を歓び、これより汝を食らわんと告げた。

僧もこの遭遇を歓び、これぞ天与の邂逅也と応じた。

虎が訝しみ仔細を尋ねると、僧は答えた。

豈に嬉しからざる哉、

不徳不毛の生涯で、捨身飼虎を施す天恵を授かりしは。

 

娘よ。

私の娘よ。

ありとあらゆる人の振る舞いの中で、

貴きものはこれだけだ。

ありとあらゆる人の魂の中で、

貴きものはこれだけだ。

あとはただ、限りある命の生き物が、

命の限り繰り返す、

天の定めた余興に過ぎない。

 

 

 

泣くな、

泣かすな。

人を許せ、

己を愛おしめ。

          

            (2023.12.21)

 

 

 

 

 

 

思い余って眠れぬ夜は

 

思い余って 眠れぬ夜は、

遠き日の 幼き姿、

あの目 あの声 あの言葉、

掻き寄せ描き寄せ 懐かしむ。

 

思い余って 眠れぬ夜は、

窓辺にて くわえ煙草で、

戯れに 両掌を合わせ、

幸あれかしと 祈るらむ。

 

思い余って 眠れぬ夜は、

指を噛み 四肢すくませて、

過ぎし日の 良きおもひでを、

掻き寄せ描き寄せ 愛ほしむ。

 

                      (2024/01/02)