
この年明け、私は数十年来定期的に通っている大学病院に赴いた。
どこもかしこも白々としたマンモス病院は、もう診療時間が過ぎていると言うのに、まだ数百人ばかりの患者が広いロビーを埋めていた。多くが支払手続きの順番待ちの人達で、また容易に想像がつくだろうが過半が高齢者だった。
その人混みの中、一人の痩せた老人が人目を引いた。恐らくパーキンソン病と思われる極端なヨチヨチ歩きの歩行で、前屈みのつっかかるような勢いで前進する。

周囲が危険を察知して避けているのでまだ大事には至ってないものの、何だか今にも派手にフロアにすっ転んでしまいそうで、見ている方がハラハラする。
また老人は、右手で青いプラスチック札を高く掲げ、しきりに大声でこんなことを言っている。
「青の8番はこっちやて!こっちの方が早い!」
誰に言ってるんだ?と思ったら、私からそう遠くない席から、とんでもない音量の傍若無人な返事が返って来た。
「違うがな、そっちはお薬の列や!」
思わず声の主を目で追うと、下のイメージ写真のような、車椅子に乗った不機嫌な顔付の婆さんが不機嫌な声で叫んでいる。
「違うて!先に精算機の列の方やて!」
苛立たし気に叫びながらも、目は心配そうに爺さんの方を追いかけている。

私は反射的に、(婆サン、アンタの方が元気そうだから代わりに行ってやれよ)と車椅子ユーザーに対して不謹慎なことを思ったが、その間も夫婦と思われる二人の交信は広いホールに響き渡った。
その内、少し事情が推測できるようになった。
夫の方に難聴なり認知症なりの障害があるのか、返答が返答になっていない。パニクっているような強張った表情のまま「青の8番はこっちやて!」を何度も繰り返している。
(ああ・・・)と、その場に居合わせた多くの人が納得したに違いない。
どういう事情かは知らないが、パーキンソン病と難聴なり認知症を抱えた老夫が、まだ頭はシャキッとしているものの歩行困難な老妻に付き添って来院して来た、という図なのだろう。
老々介護を通り越して、病病介護とでもいうべきか。それでも、昨今はこんな状態も別に珍しいことではなくなったと聞く。
*
その日、この老夫婦には色々な物思いをさせられた。
白状すると、私の当初の反応は(えーい、うるさいわ!)というものだ。もっと白状すると、(おめーらには恥ってものがないのか!)という腹立ちと蔑視だった。
今は違う。
あの老夫婦は、「青の8番はこっちやて!」、「違うがな、そっちはお薬の列や!」と声をかけ合って、ここまでの長い人生を渡って来たのだと思う。今も互いにパーキンソン病と車椅子の身でありながら、人目などお構いなしで(あるいはそんな余裕もなく)、あのように必死に支え合って生きているのだと思う。
とすれば、彼らは紛れもないオシドリ夫婦であり、あの場で恥知らずだったのは、ひそかに罵詈雑言を浴びせた私の方だったに違いない。
(2025.01.18)
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