吉岡 暁 WEBエッセイ ③ ラストダンス

吉岡 暁 WEBエッセイ ③ ラストダンス

吉岡暁 WEBエッセイ  ラストダンス
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WEBエッセイ、第3回

  

 

この夏の始め、我が家のカーポートの屋根に足長バチが巣を作った。

こんなことはこれまでなかった。

車に乗り込もうとするたび、いつも数匹の蜂が威嚇的に飛び回る。困った私は、ネットで駆除業者を検索してみた。料金は金額的には大したことはなかったものの、電話連絡や打ち合わせや支払処理がひどく億劫に感じられた。

(たかがハチの巣じゃないか)

私は足長バチとの戦闘を決意した。

 

まずあり合わせの武器を準備した。シロアリ用スプレイ、モップの柄、盾代わりのバケツの蓋。

シロアリ用スプレイは何の効果もなかった。十数匹の蜂がブワッと舞い上がり、私は慌てて玄関先まで逃げ込んだ。

(なかなか手ごわい・・・)

蜂が巣に戻るのを待って、私は右手(めて)にモップの柄を、左手(ゆんで)にバケツの蓋を持ち、ハチの巣に向かって正面攻撃をかけた。予想ではモップの柄の一突きで巣は簡単に落ちる筈だったが、落ちなかった。ハニカム構造の巣はフワフワな感触ながら、カーポートの屋根にぺったりくっついて離れない。再び蜂の群れが舞い上がり、私はバケツの蓋もモップの柄も放り出して、再び玄関先まで遁走した。

この頃になると、私は多少気がかりになった。

(う~む、いつまでもこんなことを繰り返していると、近所の目が・・・)

そこで最後の武器として長めのプラスチックポールを用い、距離をとって思い切り巣を突いた。これが功を奏して、巣はコンクリートの床に落ちた。もちろん蜂は飛び回り、私が飛んで逃げたのはこれまでと同様だが、とにかくハチの巣の除去には成功した。時間をおいて検分に行くと、壊された巣の周りにもうハチの姿はなく、私はいっそガッツポーズでもしてやろうかと思ったくらい気分が高揚したが、やはり近所の目があるのでやめておいた。

 

     *

 

こんな蜂との闘争を長々と記したのは、笑い話を提供するためではない。

人間にとって自然とは何か、を語りたかったからだ。

関連するエピソードとして、私はこれまでに次のような記事を書いている

  #8 熊とパン泥棒  

他にも、近所に出没するイタチや、田舎の空き家に棲みついた狸やアライグマの話も書いた気がする。

 

 

 

 

改めてまとめれば、熊は決してプーさんではなく、飢えればヒトを捕食する。アライグマは決してラスカルではなく、鋭利な爪はヒトの皮膚など紙のように切り裂く。つぶらな瞳のイタチは鋭い牙を持ち、指など簡単に食いちぎる。足長バチに刺されると大抵病院に行けば済むが、スズメ蜂はヒトを殺す。

こういう生き物が、自然の中でヒトと棲息スペースを競い合って生きている。麗しの大自然などという概念は、絵画的幻想あるいは大都市ボケに過ぎない。

ヒトは、群れ単位でしかまともに存続できない。

従って、群れの頭数が減少すると、当然その生活スペースも減少する。減少した分を、上記の野生動物や昆虫や強靭な植生が侵食してくる。

全国850万軒の空き家も、どんどん増える熊被害も、能登地震の復興が遅々として進まないことも、結局根っこは単純にひとつだけ。

この国のヒトという種族の頭数がどんどん減っているからだ。そして、その間隙を、熊、イタチ、アライグマ、蜂、シダ、蔦、雑草、雑木が埋めていく。

 

 

地方の過疎化、老齢化に対して行政が喧伝するコンパクトシティなどという絵空事を、私は信じていない。糖尿病を悪化させると四肢の末端から腐っていくように、この国の健康状態も(ハチの巣のような、限られた大都市中心部を除き)、全国の市町村で迅速に機能不全という腐敗が進行している。七十半ばの私が、モップの柄とバケツの蓋を手に、息を切らして足長バチと格闘する図も、おそらくはこの機能不全の前兆ではないかと思われる。

 

                                                                           (2024.07.22)

 

 

 

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ネット社会になって数十年、そこから発生した行為の中にエゴサーチというのがある。

定義は次のようなことだ。

 

   エゴサーチとは、検索エンジンなどを使って自分の本名やハンドルネーム、運営しているサイト名やブログ名

   を検索し、インターネット上における自分自身の評価を確認する行為のことである。(Wikipedia)

 

 

 

 

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このブログを始めた頃、私はこんな記事を書いてスマホを罵倒した。
 
 
あれからもう2年半が経っている。
なら、スマホも相当使いこなせるようになったか?
年寄の老化を舐めちゃいけない。
視力が衰えて、文字の細かさや画面の小ささがますます腹立たしい。PCと違い、使い勝手がいつまでたっても把握できず、勘が働かない。ユーザー・インターフェイスの説明が大雑把過ぎてむかつく。
 
先日も、車検の車を受け取りにガソリン・スタンドへ徒歩で向かう途中、仕事がらみの電話が入った。相手は、某客先の携帯番号を告げ、早急に電話を入れてくださいと言った。
どうすんだ?紙も筆記具もない。暗記しろってか?できるか、んなもん!
スマホの「メモ」にでも入力?
そもそも、相手と会話しながらメモに入力するには、どこをどう操作すれば良いんだ?
私は路上で大いに慌て、慌てながらさすがにバカバカしくなってきた。
こんなことなら、昭和式に胸ポケットにボールペン一本と小さな手帳1つ入れておけば、その方がずっと簡便迅速ではないか。
以後、私は移動中には決してスマホのコールを受けないことにした。
 
 
一言で言えば、いつまで経ってもこの電子カマボコ板の使い勝手が身に付かないということだろう。と言うか、実生活で使うのは、LINEと連絡先のショート・メッセージ機能がほぼ90%を占め、その他のアプリなど殆ど使う機会がない。仕事に必要なコンテンツを読むには、カマボコ板は小さ過ぎる
 
という訳で、私とスマホの関係はいよいよ疎遠となっている。
誰だ、こんなもん、流行らせた奴は!
 
                                                                    (2024.07.18)
 
 

 

 

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Broken Water Pipe: Over 3,683 Royalty-Free Licensable Stock Illustrations &  Drawings | Shutterstock

 

 

とことん私事ながら。

 

今朝起きたら、我が家の水道の元栓から凄まじい勢いで泥水が噴き出していた。

水圧に手こずりながら必死に固いバルブを閉め、水道局に電話した。

30分くらい経って、水道局の係員がやって来た。

泥だらけの元栓の箱を10秒ばかりチェックし、「宅内です」と4文字言い残して、そのまま帰って行った。私はカチンと来たが、健気(けなげ)にも「そんなに喋るのが面倒なのか、お前?」という悪態をぐっと喉元に押し込んだ。

因みに、「宅内」というのは「自宅敷地内」の略語であり、要するに(自前で修理しろ。水道局の知ったことではない)という意味である。

私は慌てて、次々と修理業者に電話した。「次々」というのは、まだ8時前だったのでどこも応対していなかったからだ。

幸い、5番目の業者が応対してくれた。隣町の設備業者だった。

結論から言えば、これが大当たりだった。

その日の内に来てくれて、酷暑の中、汗だくになって1メートル近い深い穴を手作業で掘り、破裂した水道管を取り換えてくれた。最初の状況では、ブロック塀や石垣を重機で取り壊さねばならない可能性もあり、そうなると百万近く吹っ飛ぶこともあり得た。この職人さんの専門的な判断のおかげでそんな手痛い出費から免れ、当然ながら私は心から感謝した。

 

    *

 

職人仕事という言葉がある。

大抵、良い意味で使う。「お役所仕事」の対義語だ。

今回の出来事ほどこの事実を証明するものはない、と実感した次第。

何であれ、一戸建て家屋などというものは、年を経るとあちこち傷んで持て余すことが多くなるのは、人間と同じ。

良き職人さんにめぐり合うことは、想像以上に大事なことだ。

 

                                                                                    

                                                                                         (2024.07.10)

 

 

 

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私は時折、夜にドライブする。

別に車が好きなわけではない。若い頃から車などに何の関心もなく、屋根が付いてて車輪が4つあれば十分じゃないか、くらいにしか思っていなかった。

それがいつの頃からか、夜のドライブをするようになった。

地方都市のアドバンテージというか、夜も10時を過ぎると路上に歩行者も車も姿を消す。

桜はとうに終わり、六月に入ると道路左右の田畑からカエルの声が聞こえてくるようになる。

住宅建築が制限されているので、夜空が広い。そこに、朧月がぽっかり浮かぶ。

こういう時、以前にも書いたように、必ず一種のサンチマンが胸を過る。

ああ、俺はこんなところで何をしているのだ?

そう思う。

これまでやってきたこと、終に果たせなかったこと、出会った人々、過ぎ去った人々。

夜に車を走らせていると、今日まで生きてきた思い出が次々にヘッドライトに浮かんでは、後方に消え去っていく。

稀に、何とはなく人の声が聞きたくなるような時、行きつけのコメダ珈琲に立ち寄る。さして飲みたくもないコーヒーを啜りながら、多分私はそこで少し現実感を取り戻す。

帰路、ウィンドウを半開にして走る。流れ込む夜気は、まだ僅かに初春の涼しさを残している。

人気の消えた暗い路上を、街灯の白色光が照らし出している。

そこで、また思う。ああ、俺はこんなところで何をしているのだ?

 

いつまでたっても、心が穏やかに老いてくれないようだ。

 

                                                                           (2024.5.26)

 

 

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現役ヘルパーが描く認知症患者の生活~ (バンブーコミックス エッセイセレクション) Kindle版 吉田美紀子 (著)  形式: Kindle版
 
 
 
上記2冊のコミックをキンドル版で読んだ。
正直、感服した。
『現役ヘルパーが描く介護現場の真実』などという安っぽいサブタイトルに目を瞑れば、これは傑作だと思う。
もちろん、私自身がこの作品に登場する様々な認知症患者達の年齢に到達して、他人事とは思えないセンシティビティが湧くという背景はあるにせよ、決してそれだけではない。(それだけなら、面倒でわざわざこんな書評を起こす気にはなれない)
各エピソードの人間観察に歯ごたえがあって、読み甲斐がある。
もっと言えば、それぞれのエピソードのラストシーンで、人間存在を見事に視覚化している。
個人的な嗜好を言えば、葬儀屋の施す死化粧のように綺麗過ぎるリリシズムが所々に感じられるものの、例えそうであってもこれは優れた作品に違いない。
作者はもともと漫画家で、かつ現役の介護ヘルパーと著者紹介欄にあるが、少なくともこの作品は、よく見る献身的な介護士の現場エピソードという性質のものではないだろう。間違いなく一人の作家が、透徹した視線で人間を観察・解剖し、最後に小奇麗に死化粧を施したコミックエッセイとでも言えば良いか。
繰り返すが、これは傑作だと思う。
 
     *
 
前述の通り、そろそろ認知症の心配が頭を過る年齢の一読者としては、この作品の底流にある介護士達のプロフェッショナリズムには、正直「恐怖」を覚える。
例えば、この作品で私は「摘便」という介護用語を知った。排泄能力が低下した認知症患者の肛門に指を挿入して便を掻き出すことだ。不謹慎に響くのを百も承知で言うなら「なぜそうまでして生かしておこうとするのか?」と私は心底訝しむ。
それもヒポクラテスの誓いと言うのなら、「病者の利益」の解釈が間違っている。人間存在とは、単なる心肺機能の持続だけではない筈だ。
また医療は、アイデンティティの崩壊や自我の融解、それに伴う苛烈な不安への対処にも向けられるべきであって、死そのものは決して悪ではない。
末期的な見当識障害を抱え、記憶は断続的な細切れモザイクと化し、友人知人は言うに及ばず家族も忘れ果て、今がいつで、どこにいるのかも知らず、終には自分が誰なのかも分からず、まるでカフカの悪夢のような世界にあって、毎日動物的な生存不安に幼児のように怯え続ける ---- 拷問ではないか?
のような老人達にとって、死は救済でなくて何か。
 
もし認知症が発症したら、私ならどうするか?
日本では、自分が自分でいられる間に自分の始末をつけるには、アーネスト・ヘミングウェイのようにショットガンで自分の頭を吹っ飛ばす簡便さが得られない。しかし100万円弱の支出で、オランダ、ベルギー、ルクセンブルク、カナダ、スペイン、イタリア等の尊厳死を認める国へ片道旅行ができる。私なら、私が私でいられるうちに、間違いなく片道旅行のエアチケットを買うだろう。ショットガンと比べて明らかに手間はかかるが、他にこれという選択肢はない。
 
                                                                              (2024.05.06)
 
 
 

 

 

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先日の金曜、所用で隣町のY市にある取引銀行の支店に行った。

ある変更手続きをするだけの事なのに、例によって署名捺印が必要だった。

(いつまでこんな面倒なことを・・・)と私は不満だったものの、時は四月半ば、そこかしこに桜が咲き乱れ、春爛漫の薫風が心地良かった。

その日、駐車場のある駅前のバスターミナルから銀行に向かう途中、私は一人の「歌手」と遭遇した。

最初は、どこかのカラオケ店から歌声が漏れているのかと思った。

しかし、改めて辺りを見渡してもカラオケ店らしきものはない。

ん?と訝しがっている内に、その「歌手」が前からやって来た。

腰が直角に曲がり、強張ったような両腕をピンと伸ばして歩行器を押す老人が、歩きながら歌っている。

「♪ 泣~くな妹よ、妹~よ泣くな~」

何と言えば良いだろう、年配のカラオケ客特有の自己陶酔というか、長年に亘って歌い込んできたと思われるド演歌というか、とにかくそういう歌い方だった。決して音痴ではない。

とにかく、私達は真正面からすれ違った。

私は咄嗟にホームレスかと思い、(おっとっと)という感じで脇に退いた。それほど衣服がヨレヨレでみすぼらしく、正体不明の分厚い布を歩行器のバスケットに掛けている。ただ理由は書けないが、その歩行器のネームプレートにより、ホームレスでないことは分かった。

すれ違いざま、目が合った。

何らかのトラブルを予感して、私は内心緊張した。

だが、歌手の目を見て私はすぐ悟った。

きっと、険しく敵意に満ちた視線を飛ばしていたのは私の方であって、相手は私のことなど只の障害物としか見ていなかったに違いない。それほどにその目は虚ろで、遠慮のない感想を言うなら、(半分はもう極楽浄土に行ってるな)と思った。

 

 

 

銀行では、今後金利が上がるのでまた預金も御願いしますと言われ、旧友Aの決め台詞を借りて「余分な資金なんか一銭もないですよ」と応じた。「晴れの日に傘売りつけんな」とはさすがに言わなかった。

駅前のバスターミナルに戻ると、あの歌手がリサイタルをやっていた。

眩い陽光が溢れるバスのロータリーのベンチにどっかと座り、歩道の真ん中に歩行器を不法駐車し、缶ビールだか缶チューハイを片手に、高らかなテノールで歌っている。

「♪ 泣~くな妹よ、妹~よ泣くな~」

不運にもその場に居合わせたらしい5~6人の女性のバス待ち客は、ベンチ二つ分距離をとり、あらぬ方向を眺めながら視線を合わすまいとしている。

歌手は御丁寧に口伴奏の前奏から始めるのだが、酔いのためか記憶障害でもあるのか、壊れたレコードのように「泣~くな妹よ、妹~よ泣くな~」を繰り返す。

遅まきながら、私はその時理解した。

これは、この老人の花見なのだ。

ロータリーの周りには桜の木など一本もなかったが、老人は楽しく酔い、楽しく放歌高吟し、到底幸せとは見えない現在の境遇と調和を図っている。

バッド・タイミングとは言え、聞いてくれる不運な観客までいる。

ある意味、一種の人生の達人ではないか。

そう思った。

 

 

帰宅後、あの壊れたレコードの続きが気になったので、検索してみた。「人生の並木道」という歌だった。しかしさすがに一回り以上世代が違うので、佐藤惣之助という作詞家もディック・ミネという歌手もよく知らない。壊れたレコードの全体の歌詞はこうなっている。

 

 

  泣くな妹よ 妹よ泣くな
  泣けば幼い ふたりして
  故郷を捨てた 甲斐がない


  遠いさびしい 日暮の路で
  泣いて叱った 兄さんの
  涙の声を 忘れたか


  生きて行こうよ 希望に燃えて
  愛の口笛 高らかに
  この人生の 並木路

             

            (昭和12年(1937年)。作詞:佐藤惣之助  作曲:古賀政男)        

                                                     

 

 

                         (2024.04.13)

 

 

 

 

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この辺りでも、桜が咲き出した。

だからって私は別に嬉しくとも何ともないが、ともかく春が来た。

暖かくなる。エアコンもストーブも要らない。持病の寒暖アレルギーから

解放される。それがありがたい。

 

もろともに あはれと思へ 山桜 

花よりほかに 知る人もなし(百人一首66番)

 

 

 

 

 

のろい客。

やっとこさ客先から指示が来た。

これで今の仕事が終了できる。

(いくら客だからって、一週間も待たすなよな)

 

 

 

株トレード。

ちっとも儲からないのはどういうわけだ?

 

 

 

 

娘。

ちっとも帰って来ないのはどういうわけだ?

 

 

 

 

                                (2024.04.02)

 

    

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