ライターじゃない、アイドルだ -19ページ目

2.上京パチンコ編(2)

悪夢のような職場の話はさておき、立川市でのパチンコ回想をしよう。

 

人気を博していたジャンルに一発台があった。

 

当たりの穴に玉が1発入れば玉が出続け、ほとんどの場合4000玉定量制だった。

 

交換率は2.5円が主流だったので、もっと簡単に説明すると当たれば1万円!なのだ。

 

上京前は敬遠していた高射幸性の台であるが、まぐれ当りをきっけにその刺激にハマっていった。

 

当時のマイホが高松町の立川競輪場からすぐの場所のホール。(なんとかラッキーかな、これも店名忘れてしまった)

 

店内ではスピーカーから「淋しい熱帯魚」が流れていた。

 

一発台の中で一番触ったのがアルファローズ(大同)

 

この台は中央役物に飛び込んだ玉が3つの穴の内、手前入れば大当り。

参考youtube

https://www.youtube.com/watch?v=WPG0flDPYGo

 

目の前で1万円がグルグルまわる興奮ったら、それはもうたまらないのである。

 

この辺の興奮は現在天下一閃、天龍などの登場で分かってもらえるのではないかと思う。

 

その他は、役物入賞後5分の1で当たるターゲットⅠ(三共)が好きだった。

参考youtube

https://www.youtube.com/watch?v=i1zqj-9vhAM

 

そして、まさに3分の1であるがゆえになかなか役物に玉が入らず忍耐力が必要なビックウエーブ(三共)

参考youtube

https://www.youtube.com/watch?v=uXNLQeTgqh8

 

ビックウエーブの役物入賞はまさに芸術的で、3本の釘を横一閃に玉が走って入賞することもあった。

 

この頃の新装開店は年に1、2度しかなく、それはまさにお祭りだった。

 

18時開店~閉店時間は未定で、入店したら全台に粗品として白い箱に入った灰皿がもらえたこともあった。

 

とにかく全ての台がお祭り状態で、一発台は最初の千円以内に玉がガンガン入賞して当たることが約束されたような台が多く

 

私にとって新装開店は手軽にお小遣いがもらえるラッキーな行事だった。

 

ボーダーラインなんて言葉はまだ知らなかった。

 

当時はまだ携帯電話はないし、もちろんインターネットも使っていなかった。

 

出会い系は固定電話を使った「伝言ダイヤル」だった。ダイヤルQ2ではない。

 

また攻略雑誌の創刊があった頃だが、雑誌があるなんてことも知らなかった。

 

ただただ夢中に、当るか外れるかの投機的なギャンブルに没頭しているだけだった。

2.上京パチンコ編(1)

この上京パチンコ編~この次の勝つ為のパチンコ編は長くなると思います。

 

私の18歳~23歳くらいの期間。最も楽しくパチンコが遊べた時代の話です。

 

記憶が曖昧で登場機種の時期に前後があったりすると思います。

 

また極力パチンコを軸に書きますが、いたずらの虫が騒いで脱線する事もあると思いますので御容赦下さい。

 

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平成元年 18歳で私は上京した。

 

故郷別府の流川通りのバス亭にあった、たった5ページ程の求人情報誌により社員寮付きの仕事があったのだ。

 

東京で最初に出会った職場を案内する担当男性はよくしゃべった。

 

「やっぱり寮は個室じゃないとプライバシーが守られないよねえ~」

 

「○○なんだよねえ~」

 

これはヤバイ、オカマだと思った。

 

実際は初めて標準語を直に聞いただけのことで、彼はオカマでも何でもなかったと私は数ヶ月後に気づくことになる。

 

そのオカマだと勘違いしてしまった男性に連れてこられた先が東京都立川市。

 

中央には立川競輪場、駅前にはJRA場外馬券場、パチンコホールは多く、足を延ばせば多摩川競艇場があり、

 

オートレース以外は揃っている、いわばギャンブルシティだった。

 

競輪場周辺の道端では昼間っから酒盛りがあらゆる場所で行われている。

 

とんでもない環境に来てしまったのだ。

 

腹ごしらえをするかと入ったラーメン屋で生まれて初めてしょうゆラーメンを食べた。

 

九州で育ったゆえに、とんこつラーメンしか食べたことはない。

 

しょうゆラーメンの味は薄っぺらく恐ろしくまずかった。

 

私はこの先こんなラーメンを食べて生きていかなければならいのかと思うと涙がにじんだ。

 

数年後には慣れ親しんだ味となり、しょうゆラーメンもおいしく食べられるようになる。

 

 

仕事の話に戻そう。その内容は新聞配達だ。

 

職場には個性豊かな面々がおり、元反社会勢力、元こじき、元詐欺師、私と同じく上京してきた者など様々だった。

 

朝刊の配達が終わり、専売所に戻ると先輩達がスポーツ新聞を広げて競馬予想をしている。

 

右も左も分からない新米の私は当然のごとく先輩に流されていくことになる。

 

新聞配達には集金業務もあり、各々の担当エリアによって金額は異なるが平均月額120万円程だった。

 

その金がギャンブルの資金だった。

 

皆から親分と呼ばれる先輩は集金を軍資金に一時期プラス160万までいった。

 

上機嫌で皆にステーキをごちそうしてくれた。

 

しかし最終的には140万程の集金を全て使い込んでしまい、立川からいなくなってしまった。

 

結局どこかギャンブルのない田舎へ売り飛ばされてしまったらしい。

 

また競走馬イダテンターボが大好きな四国出身の先輩がいた。

 

念仏のようにイダテンターボがイダテンターボがと繰り返し馬券を買っていたが、

 

イダテンターボで勝った時を見たことがなかった。

 

集金の金に手をつけイダテンターボにつぎ込んでいた。

 

イダテンターボの何がそんなに良かったのは分からずじまいだ。

 

そんな先輩の背中を見ていた私はというと、もちろん集金に手をつけてしまった。

 

そして最もマイナスした時に25万の使い込みをした。

 

集金額の締め日に専売所の所長に使い込みが発覚し、逆鱗に触れて机をドンと叩かれ「今すぐ借用書書け!」と怒鳴られた。

 

翌月の給与の額面はマイナスだった。

 

そんな最低でクズな生活だったが、パチンコホールには今まで見たことがない機種があふれており

 

いわゆる一発台にのめり込むことになる。

1.はじめてのパチンコ編(3)

覚えたてのパチンコが楽しくて仕方がなかった。

 

バイト勤務を終え、交代のパートのおばちゃんに「これから勝負してくるんや」と言い放ってパチンコホールに行くのが日課になった。

 

投機的なギャンブルに挑む俺って、ハッキリ言って滅茶苦茶格好良いなと思っていた。

 

勝ち負けは別として。

 

勝敗結果はよく覚えていない。が、大当り確率の存在さえ知らなかったのだから

 

勝ったり負けたり負けたり負けたりで、大ダメージを受けない程度に結局負けていたのだろう。

 

そんなある日、新台入替という行事に遭遇する。

 

友人と向かったホールは駅前から遠く離れた10号線沿いのホールだった。

 

新台は記憶が確かならばパールセブンのような見た目のセブン機。

 

友人と並んで打ち始め、図柄がテンパイした時にそれは聞こえた。

 

リーチ!

 

「おわ!!この台、リーチっちしゃべりよんぞ!!!」

 

衝撃だった。パチンコ台から女性の声が聞こえてきたのだ。

 

現代の方々にとっては意味が分からないかもしれないが、

 

それまでリーチすらなかったパチンコに音声まで搭載された事に初めて遭遇したら皆同じだと思う。

 

はじめての出来事にテンションが上がる。

 

が、所持金は下がって負けて帰った。たぶん。

 

 

はじめてパチンコを覚えた別府での記憶はこれくらしかない。

 

後は早朝開店前に駐車場で銀玉を拾ってまわるおばあちゃんらが現れ、

 

生きていくっていうのは大変なんやなと適当に感じたくらい。

 

それから私は上京することになる。

 

高校卒業して、進学するには金がなく、ひとまず住処を確保しつつ仕事をするには別府で仕事が探せなかったのだ。

 

友人に見送られ、別府駅を発った。

 

ありがとう。さようなら。

 

もう戻ることのない、思い出が詰まった幻の大地・・・