NHK杯争奪将棋トーナメントに羽生善治名人が登場した。対戦相手は、山崎九段。
羽生善治名人が名人位を奪取した模様がまとめられたNHKのドキュメントが放映された時、勝ちを読みきった時の羽生名人の手が、ガタガタと震えるシーンがありましたが、本日の戦いは、圧倒的な勝利でもあったためか、実に静かに勝ちきりました。
どんな戦いでも、同じような現象が起きるのかと楽しみにしていましたが、今日は、残念ながら名人の震える指先はなかったのでした。
将棋の戦いが、全脳の戦いであるのは誰でも分かることですね。しかし、脳が震える時、それは思考の限界を超えた時、人間の体は異常な現象に包み込まれるのかもしれない。それは、人間の意識が身体の機能を上回ってしまう瞬間のようにも思えるのですね。
私も将棋好きの一人として、いくつかの小さなトーナメントに出場した経験があり、なぜか一度だけ優勝してしまったことがありますが、その勝負の最後の数手を読みきった時に、体中に走った電撃を抑えようがなかったのをしっかりと記憶しています。この手順で本当にいいのか‥相手が投了するその瞬間まで、自分の意識がどこかにいってしまったような記憶とでもいえばいいのでしょうか‥。
そして、今日の羽生名人にはそれがなかった。
もしかすると、また、次の段階に入った強い羽生さんの登場を表しているのかもしれませんね。
TBS系列、日曜日の朝7時30分から放映されている「がっちりマンデー」(進行 加藤浩次、遠藤晶子)に日清食品の安藤社長が登場していた。
チキンラーメンの開発で日本の庶民の食べ物に革命を起した同社の、新しい「ピンそば」(縮れ麺ではなくストレートなピンとした麺)の紹介など、ユニークな開発の現場を紹介してくれた。いつもながら、この開発努力には驚かされる。
そして、中でも驚いたのが、この開発で成功、失敗した結果を、金額にした個々の社員が責任を負っていくというシステムだった。新商品で失敗すると3000万円の負債を背負う。勿論、現金で負債を支払うわけではなく、現実のビジネスでの実感を持ってもらおうという発想だ。次の開発で、この負債をどう挽回するかが、開発者の意欲を駆り立てる。
責任の所在が曖昧な日本の組織。
一つの失敗が誰の責任か、大企業になればなるほど分かりにくくなる。同様に、成功する場合でも、誰が役に立ったのかは不明だ。
かつて、SONYに勤めている私の友人が、ウォークマンの開発に成功した時、この成功の立役者は誰ですか?と質問したら約300人が手を上げたということがありましたが、たった一つの商品の開発には、それだけの開発担当者がいるということでもあり、笑い話にはならなかった記憶がありますね。
新しいビジネスに挑戦する場合、誰にもいえない「覚悟」が必要ですが、その覚悟とは、まさに責任の取り方に表現されるのかもしれませんね。
チキンラーメンの開発で日本の庶民の食べ物に革命を起した同社の、新しい「ピンそば」(縮れ麺ではなくストレートなピンとした麺)の紹介など、ユニークな開発の現場を紹介してくれた。いつもながら、この開発努力には驚かされる。
そして、中でも驚いたのが、この開発で成功、失敗した結果を、金額にした個々の社員が責任を負っていくというシステムだった。新商品で失敗すると3000万円の負債を背負う。勿論、現金で負債を支払うわけではなく、現実のビジネスでの実感を持ってもらおうという発想だ。次の開発で、この負債をどう挽回するかが、開発者の意欲を駆り立てる。
責任の所在が曖昧な日本の組織。
一つの失敗が誰の責任か、大企業になればなるほど分かりにくくなる。同様に、成功する場合でも、誰が役に立ったのかは不明だ。
かつて、SONYに勤めている私の友人が、ウォークマンの開発に成功した時、この成功の立役者は誰ですか?と質問したら約300人が手を上げたということがありましたが、たった一つの商品の開発には、それだけの開発担当者がいるということでもあり、笑い話にはならなかった記憶がありますね。
新しいビジネスに挑戦する場合、誰にもいえない「覚悟」が必要ですが、その覚悟とは、まさに責任の取り方に表現されるのかもしれませんね。
斉藤孝先生の「コメント力」という出版物が発刊された時、
コメントするにも「力量」が必要なんだと思いました。
質問力、段取り力と、何でも「力」をつけることが好きな先生だな‥
と思いましたが、コメントするには、確かに力量が必要なんだと、
最近つくづく思います。
コメントするのに必要な能力とは何か‥考えてみました。
1 コメント対象となる事象に関する知識がなければ話が始まらない
2 知識があっても、その事象に対する評価ができなければコメントできない
3 評価をするためには、評価軸をもっていなければならない
(単なる思い付きになってしまいますからね)
4 評価軸とは、自分の立ち位置を自認し、
その視点から対象を見たときの良し悪しを判断する座標軸なので、
まずは自分の立ち位置を明確にしておかなければならない。
5 故に、自分が発するコメントに力があるかどうかは、
自分がどの立場で発信しているか自認する能力に依存する。
6 結論。コメントする能力とは、自分のことをどれだけ知っているか、
という能力のことである。
日常、私達はどんな人との対話の中でも、何気なくコメントを求められることが多いのに気づきます。
‥‥どこか美味しい店を知らない?
ときかれた時でも、それは立派なコメント力を発揮する場面にいるということですね。
その場合、普通は、
‥‥有楽町のガード下に、ハムフライのめちゃ美味しい店があるってさ!
と応えるのもコメント力だし、
‥‥六本木のミッドタウンにあるリッツカールトンの47階にいけば、
最高の雰囲気でオリジナルティとスイーツが楽しめるよ!
と応えるのもコメント力ですね。
でも、この二つの言葉のどちらが、お訊ねしてきた相手に納得がいくものかは、応えている私次第というものなのですね。
コメント力の「らしさ」は、自分で作っていくイメージにフィットしたものでなければいけないわけですし‥。ちなみに、このお問合せに有楽町のガード下の情報を提供した時の相手の顔には、とても不思議な違和感、というか泣き笑いのような表情になったのを私は見逃しませんでした。私のイメージには、きっと合わなかったのでしょう‥。
この文章のコメントを、あなたならどう書きますか?
コメントするにも「力量」が必要なんだと思いました。
質問力、段取り力と、何でも「力」をつけることが好きな先生だな‥
と思いましたが、コメントするには、確かに力量が必要なんだと、
最近つくづく思います。
コメントするのに必要な能力とは何か‥考えてみました。
1 コメント対象となる事象に関する知識がなければ話が始まらない
2 知識があっても、その事象に対する評価ができなければコメントできない
3 評価をするためには、評価軸をもっていなければならない
(単なる思い付きになってしまいますからね)
4 評価軸とは、自分の立ち位置を自認し、
その視点から対象を見たときの良し悪しを判断する座標軸なので、
まずは自分の立ち位置を明確にしておかなければならない。
5 故に、自分が発するコメントに力があるかどうかは、
自分がどの立場で発信しているか自認する能力に依存する。
6 結論。コメントする能力とは、自分のことをどれだけ知っているか、
という能力のことである。
日常、私達はどんな人との対話の中でも、何気なくコメントを求められることが多いのに気づきます。
‥‥どこか美味しい店を知らない?
ときかれた時でも、それは立派なコメント力を発揮する場面にいるということですね。
その場合、普通は、
‥‥有楽町のガード下に、ハムフライのめちゃ美味しい店があるってさ!
と応えるのもコメント力だし、
‥‥六本木のミッドタウンにあるリッツカールトンの47階にいけば、
最高の雰囲気でオリジナルティとスイーツが楽しめるよ!
と応えるのもコメント力ですね。
でも、この二つの言葉のどちらが、お訊ねしてきた相手に納得がいくものかは、応えている私次第というものなのですね。
コメント力の「らしさ」は、自分で作っていくイメージにフィットしたものでなければいけないわけですし‥。ちなみに、このお問合せに有楽町のガード下の情報を提供した時の相手の顔には、とても不思議な違和感、というか泣き笑いのような表情になったのを私は見逃しませんでした。私のイメージには、きっと合わなかったのでしょう‥。
この文章のコメントを、あなたならどう書きますか?
依然視聴率好調のNHK大河ドラマ「篤姫」は、不思議なドラマだ。
幕末の物語は、当然様々な戦闘シーン、暗い暗殺シーンなどで埋め尽くされているのが普通だが、篤姫には、凄惨なシーンが殆ど登場しない。
唯一、幕末の井伊直弼大老の桜田門外での暗殺シーンも、奇麗過ぎて淡い夢のような描き方でしたね。司馬遼太郎さんの「幕末」という暗殺をテーマにした小説の最初には、この井伊直弼暗殺がテーマになっている物語が登場しますが、暗殺者・薩摩の有村冶左衛門がどのようなプロセスで水戸藩と交流し、桜田門外の事変に参画したかが描かれています。
そして何よりもその筆致は、暗殺の「その時」の凄惨さのリアリティに溢れ、真剣で果たし合うことが決して無傷ではいられないという現実を感じさせてくれます。現実には、一人のヒーローがバッタバッタと悪人を切り倒すなどということはなく、真剣での戦いは、どちらも必ず手傷を負い、それは次第に致命傷になっていくというシーンは、凄まじいばかりです。
そうした現実的な生々しさを一切排除し、ドラマ篤姫は展開されていく。
主演の宮崎あおいさんは、様々な幕末の出来事を、大奥という隔離された座敷の中で体験していく。それは確かに、現実のリアリティはないのかもしれない。歴史が外側で流れていく。
その視点が、現実の出来事と自分との遠い距離を作っているのでしょうが、もしかすると、現代の私達もまた、様々な出来事を、自分とは遠いところで起こっているドラマのように感じている‥‥という、淡いニヒリズムの現代を表現しているのかもしれませんね。
一国の首相が、あれよあれよという間に、政争に敗れるでもなく辞任し、オイルはひたすら上昇し、年金問題はまだ先のことだと思い、五輪の夜空に夥しく打ち上げられた花火は飽くまでも幻想的映像の中の世界であり‥‥。
一体、私という実感はどこにあるのか?
その距離感に共鳴する篤姫のドラマの作り方に、そしてその視聴率の高さに、少し、寒い想いがしているのです。
幕末の物語は、当然様々な戦闘シーン、暗い暗殺シーンなどで埋め尽くされているのが普通だが、篤姫には、凄惨なシーンが殆ど登場しない。
唯一、幕末の井伊直弼大老の桜田門外での暗殺シーンも、奇麗過ぎて淡い夢のような描き方でしたね。司馬遼太郎さんの「幕末」という暗殺をテーマにした小説の最初には、この井伊直弼暗殺がテーマになっている物語が登場しますが、暗殺者・薩摩の有村冶左衛門がどのようなプロセスで水戸藩と交流し、桜田門外の事変に参画したかが描かれています。
そして何よりもその筆致は、暗殺の「その時」の凄惨さのリアリティに溢れ、真剣で果たし合うことが決して無傷ではいられないという現実を感じさせてくれます。現実には、一人のヒーローがバッタバッタと悪人を切り倒すなどということはなく、真剣での戦いは、どちらも必ず手傷を負い、それは次第に致命傷になっていくというシーンは、凄まじいばかりです。
そうした現実的な生々しさを一切排除し、ドラマ篤姫は展開されていく。
主演の宮崎あおいさんは、様々な幕末の出来事を、大奥という隔離された座敷の中で体験していく。それは確かに、現実のリアリティはないのかもしれない。歴史が外側で流れていく。
その視点が、現実の出来事と自分との遠い距離を作っているのでしょうが、もしかすると、現代の私達もまた、様々な出来事を、自分とは遠いところで起こっているドラマのように感じている‥‥という、淡いニヒリズムの現代を表現しているのかもしれませんね。
一国の首相が、あれよあれよという間に、政争に敗れるでもなく辞任し、オイルはひたすら上昇し、年金問題はまだ先のことだと思い、五輪の夜空に夥しく打ち上げられた花火は飽くまでも幻想的映像の中の世界であり‥‥。
一体、私という実感はどこにあるのか?
その距離感に共鳴する篤姫のドラマの作り方に、そしてその視聴率の高さに、少し、寒い想いがしているのです。
戦争を終結させる。
その決断と責任のあり方は難しい。
1945年8月15日の玉音放送によって日本はポツダム宣言を受け入れ、事実上の第二次世界大戦は終結した。
NHK「その時歴史が動いた」シリーズ日本降伏前編では、8月15日の玉音放送までの、つまりは「降伏決定」までの日本の指導者達の喧々諤々を描いた番組だった。
決断までのプロセスで焦点になったのは、時の東郷外務大臣と阿南陸軍大臣の対立。
その主張の差異は、「国体」の概念の違いだったと解説していた。
敗戦を受け入れるにしても、日本という国を消滅させるわけにはいかない。この考え方は共通していたが、その負け方によって国そのものを消滅させるわけにはいかない。「正しい負け方」があってしかるべきだ。
最終的に決断を委ねられた天皇は、「日本国民が決めるというなら大多数が天皇制を選ぶことは間違いないのですから、国体は少しも心配ありません」という東郷の説得に同意することで成立します。
降伏の文章作成の過程で、最終的には、陸軍大臣の阿南が主張します。戦局は日に非に‥つまり局地戦において敗戦が続く今‥‥降伏やむなし‥という表現ではなく、「戦局イマダ好転セズ」とすべきだという主張でした。そうした中でも本土から特攻隊が次々飛び立っていたその日、全面降伏の事実のみを伝えたのでは兵士を説得できないと考えた阿南陸軍大臣の主張でした。この一文が受け入れられて‥‥。
そして、玉音放送は流れ、日本は降伏した。
この番組で私が感じたのは、指導者の責任の取り方ということでしょうか?
戦後の戦争責任論の論議は、最近ではどこかに消えてしまったかのようですが、敗戦の責任を引き受け、
生きて再生していくという考え方と、
自ら死を持って責任を果たす
という二つの方法が描かれていたように思いました。
そして、本当はいけないのでしょうが‥‥割腹自殺をもって責任をまっとうした阿南陸軍大臣の潔さに、何故か強い衝撃を受けたのも事実でした。
その決断と責任のあり方は難しい。
1945年8月15日の玉音放送によって日本はポツダム宣言を受け入れ、事実上の第二次世界大戦は終結した。
NHK「その時歴史が動いた」シリーズ日本降伏前編では、8月15日の玉音放送までの、つまりは「降伏決定」までの日本の指導者達の喧々諤々を描いた番組だった。
決断までのプロセスで焦点になったのは、時の東郷外務大臣と阿南陸軍大臣の対立。
その主張の差異は、「国体」の概念の違いだったと解説していた。
敗戦を受け入れるにしても、日本という国を消滅させるわけにはいかない。この考え方は共通していたが、その負け方によって国そのものを消滅させるわけにはいかない。「正しい負け方」があってしかるべきだ。
最終的に決断を委ねられた天皇は、「日本国民が決めるというなら大多数が天皇制を選ぶことは間違いないのですから、国体は少しも心配ありません」という東郷の説得に同意することで成立します。
降伏の文章作成の過程で、最終的には、陸軍大臣の阿南が主張します。戦局は日に非に‥つまり局地戦において敗戦が続く今‥‥降伏やむなし‥という表現ではなく、「戦局イマダ好転セズ」とすべきだという主張でした。そうした中でも本土から特攻隊が次々飛び立っていたその日、全面降伏の事実のみを伝えたのでは兵士を説得できないと考えた阿南陸軍大臣の主張でした。この一文が受け入れられて‥‥。
そして、玉音放送は流れ、日本は降伏した。
この番組で私が感じたのは、指導者の責任の取り方ということでしょうか?
戦後の戦争責任論の論議は、最近ではどこかに消えてしまったかのようですが、敗戦の責任を引き受け、
生きて再生していくという考え方と、
自ら死を持って責任を果たす
という二つの方法が描かれていたように思いました。
そして、本当はいけないのでしょうが‥‥割腹自殺をもって責任をまっとうした阿南陸軍大臣の潔さに、何故か強い衝撃を受けたのも事実でした。