戦闘シーンのない幕末の物語「篤姫」 宮崎あおいさんが見つめる遠い場所とは? | 考える道具を考える

考える道具を考える

The instrument which I think

依然視聴率好調のNHK大河ドラマ「篤姫」は、不思議なドラマだ。

幕末の物語は、当然様々な戦闘シーン、暗い暗殺シーンなどで埋め尽くされているのが普通だが、篤姫には、凄惨なシーンが殆ど登場しない。

唯一、幕末の井伊直弼大老の桜田門外での暗殺シーンも、奇麗過ぎて淡い夢のような描き方でしたね。司馬遼太郎さんの「幕末」という暗殺をテーマにした小説の最初には、この井伊直弼暗殺がテーマになっている物語が登場しますが、暗殺者・薩摩の有村冶左衛門がどのようなプロセスで水戸藩と交流し、桜田門外の事変に参画したかが描かれています。

そして何よりもその筆致は、暗殺の「その時」の凄惨さのリアリティに溢れ、真剣で果たし合うことが決して無傷ではいられないという現実を感じさせてくれます。現実には、一人のヒーローがバッタバッタと悪人を切り倒すなどということはなく、真剣での戦いは、どちらも必ず手傷を負い、それは次第に致命傷になっていくというシーンは、凄まじいばかりです。

そうした現実的な生々しさを一切排除し、ドラマ篤姫は展開されていく。
主演の宮崎あおいさんは、様々な幕末の出来事を、大奥という隔離された座敷の中で体験していく。それは確かに、現実のリアリティはないのかもしれない。歴史が外側で流れていく。

その視点が、現実の出来事と自分との遠い距離を作っているのでしょうが、もしかすると、現代の私達もまた、様々な出来事を、自分とは遠いところで起こっているドラマのように感じている‥‥という、淡いニヒリズムの現代を表現しているのかもしれませんね。

一国の首相が、あれよあれよという間に、政争に敗れるでもなく辞任し、オイルはひたすら上昇し、年金問題はまだ先のことだと思い、五輪の夜空に夥しく打ち上げられた花火は飽くまでも幻想的映像の中の世界であり‥‥。

一体、私という実感はどこにあるのか?
その距離感に共鳴する篤姫のドラマの作り方に、そしてその視聴率の高さに、少し、寒い想いがしているのです。