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考える道具を考える

The instrument which I think

考える道具を考える-レミゼ2009
壮大な群集劇。
ミュージカル レ・ミゼラブルが今年も順調に公演を続けている。

1987年から毎年続いて、今年で22年目となりますか?
(但し、今年は何か空席が目立つように感じられますが‥)

内容はご存知の方も多いのでここでは触れませんが、ミュージカルという形式が持つ、芝居と音楽と歌の共鳴はいつもながら観客を魅了しますね。同時に、観客の拍手との共鳴という視点でも、一つの芝居の総合性が成立するものと思います。

観る側のレベル。
どのシーンで、どのタイミングで拍手を入れるか‥。
順番に訪れるキャストのソロの後には、当然拍手が鳴り響くのですが、ストーリィを理解していないと、さらにシーンの合間での拍手の入れ方にも差異が出てきてしまうことがあります。

今年のレミゼで感じるのは、
このミュージカルはかなり繰り返し観に来るマニヤックな人々に支えられてきたように思いますが、そうした観客の入れ替わり‥というか、今年は、観客の新人さんたちが多いように感じます。拍手の入れ方にぎこちなさが感じられるからです。(不況が要因しているのかも‥)


ロンドンでこの芝居を見た友人は、そのとき、隣で見ていた初老の男性が、最初から最後まで演奏される楽曲の全てを口ずさんでいたと話してくれました。いわば一体となっているのでしょうね。

その意味では、日本の歌舞伎などの合の手と同じように、芝居が、演じるものと観るものの共同によって完成されていくものだとつくづく思います。だから、板の上の芝居は、一回は一回なのでしょう。


とはいえ、観るものとしてのプロ意識を持ってミュージカルを楽しむのもいいものであります‥。

いかがでしょう?


考える道具を考える-ベルギー幻想美術館
2009年9月3日から10月25日まで、東京渋谷のBunkamuraザ・ミュージアムで開催されていた「ベルギー幻想美術館展」を観た。展示終了の前日でした。

日本の姫路市立美術館に所蔵されているべギー美術の宝庫。デルヴォー、マグリッドなど世界に誇るベルギー幻想絵画やエッチングの作品が150点展示されていた。

写真は入場券に配置されたフェルナン・クノッツフの「ヴェネツイアの思い出」という1900年頃の作品。この時分に何故ベルギー美術が隆盛を極めたのか? 日本人にはあまり馴染みはないのですが、1900年頃のベルギーは世界に進出し植民地を形成。経済的な反映を遂げた時代なのでしたね。

そして急速に発展する近代社会の中で、人々の心は逆に「疎外」を感じ、不安や空虚な感覚が社会の中に渦巻いていく。その心理を映し出していったのが、ベルギーの「幻想絵画」だったわけです。

昼とも夜とも分らない幻想都市に裸婦が様々な姿で描かれるデルヴォーの絵画。マグリッドの昼と夜、海と空の混合という対立的な空間の時間的結合。そんな不思議な絵が、一つの時代を見せてくれていたように思えます。

‥‥

それにしても展示の中心であったエッチングの作品の数々に驚かされましたね。特にマグリッドの版画作品は、油絵で描かれる彼独特の世界とはまた異なった作品でした。彼の版画で表現された作品に出逢ったのは初めてでしたが、繊細な線画の奥に、深い迷路が隠されているようで‥新しい驚きでした。

経済的繁栄の後に訪れる人間心理の空虚感。
現代日本の社会にも、実は同じような空気が流れているように感じられたのは、私だけではないでしょう。

ありがとうございました。


日常の生活は流れていく。

詩人清岡卓行さんの詩集「日常」には、
日々の人間の営みの繰り返しの中にある、
ふとした「発見」の喜びが描かれている。

日常とは時間が静かに流れていくその人固有の空間感覚なのだと、私は頷いた記憶がある。

その日常は、流れ行くままに、意図的に放擲しておけば、
それは、どんな残像もない、移ろいの中に消えていく。

しかし、人は「物語」という手法を獲得してしまった。
そこには、日常の中に静かに落としこんでしまえば見えない「何か」を、
くっきりと記憶の断片に置き換えようとする意図が見え隠れする。

そうか、人は、生きた証として、「物語」を欲する生き物なんだな‥。

 ‥朝起きて、私は一杯の水を飲む‥

ここに、物語は発生しない。
毎日の日常の繰り返しが、ただ、在るだけである。
しかし、

 ‥朝起きて、私は苦い思いで一杯の水を飲む‥

と書いた瞬間から、「物語」は始まる。

何故、この人が飲む水は苦いのか?
その背景には、何があるのか?

この「何故」から「物語」は始まるように思う。

そして、「日常」には、「何故」が多すぎる。
だから、「物語」はどこにでもあり、そしてどこにもない。

 ‥「何故なら」答えはどこにもないからだ!

私達は、「物語」の罠に、酔っているのかもしれない。


何だか、忙しそうだね!
最近、そう言われることが多くなった。

自分では、そうは思わないけれど、
どうも、そう見えるらしい。

その根拠の一つに「ブログの更新が少なくなった」ことを指摘する友人がいた。

 私 「そんなに私のブログを熱心に読んでいてくれたの?」
 友人「熱心ではないけど、更新されると生きているなって思えるんだ!」
 私 「それは電気ポットがオンされることで安否確認ができる仕組みと一緒?」
 友人「まぁ、そんなもんかな?
    ライバルの存在が、俺には必要なんだ!
    ライバルが頑張っていないと、俺も頑張れないのさ!」

ははぁ。
でも、私がライバル?
ブログの更新が安否確認ね‥はは。

言葉による存在の主張。
私は、ここで生きているよ! っていう叫び。
誰が読んでいるかも分らない、
会ったこともない人との、暗黙の交信‥「更新」という文字は、「交信」という意味だったのかな?

でも、ブログを義務的に書こうとするのには限界がある。
3年書いてきて、義務ではなく、「タメ」を作って対応したい。
ブログを書かない日があっても、
私は、遠くの空で、密かに「タメ」ていると思ってください。

友よ! まだ、私は生きているよ! 

時々、アウトプットしますから‥‥。

考える道具を考える-笑う脳
多筆といえばいいのだろうか?
講演を打てば超満員。テレビ、雑誌と様々なメディアに登場し、その上、これだけの著作を書き続けている脳科学者 茂木健一郎先生。

「笑う脳」(アスキー新書 2009年8月10日刊)もまた、最新の茂木先生の著作だ。

‥‥

笑いの研究は、比較的古くからある。
人間の笑いとは何か? 地球上の生物の中で、僅かに確認される「笑い」という行為。特に人間のコミュニケーションになくてはならない「笑い」とは何か?

本著は、こんな本質的な課題に踏み込んで、脳の機能との関連性で書き込まれている。多筆だからといって、どの著作も真剣勝負をしているところが茂木先生の凄いところなのですね。

最近の茂木先生の文体は、箴言に満ちている。
短い言葉の中に、本質を衝く言葉‥箴言。私はこういう文体が大好きなのです。

例えば‥

  仲間たちの緊張と不安を和らげてあげるためのサイン、
  それが「笑い」の起源なのだ。

  笑いにはメタ認知と社会的知性が欠かせない。

  実際は僕達自身の日常に、「笑いの基礎体力」を育む土壌が
  急速に失われているように思えてならない。

  笑いは、生きる覚悟でもある。

これだけ抜書きしても、何だか分りにくいのですが、箴言的文体の奥に、脳科学と人間の心の問題を解きほぐしていこうとする挑戦が感じられて楽しいのですね。

悲劇を喜劇に転換させて、人々に憩いと安心と活力を創造させる機能‥これは、落語を評価した言葉ですが、現代のお笑いブームと呼ばれている社会的状況の中で、実は、本質的には人々は笑いを求めているに過ぎず、本当に笑っている人が少ないと見たほうがいいのかな‥とも思います。

腹を抱えて笑う時代なのではなく、
照れ笑いの多い時代なのかもしれませんね。

  まぁ、何でもいいから、取り敢えず笑っちゃいましょう!