日常の生活は流れていく。
詩人清岡卓行さんの詩集「日常」には、
日々の人間の営みの繰り返しの中にある、
ふとした「発見」の喜びが描かれている。
日常とは時間が静かに流れていくその人固有の空間感覚なのだと、私は頷いた記憶がある。
その日常は、流れ行くままに、意図的に放擲しておけば、
それは、どんな残像もない、移ろいの中に消えていく。
しかし、人は「物語」という手法を獲得してしまった。
そこには、日常の中に静かに落としこんでしまえば見えない「何か」を、
くっきりと記憶の断片に置き換えようとする意図が見え隠れする。
そうか、人は、生きた証として、「物語」を欲する生き物なんだな‥。
‥朝起きて、私は一杯の水を飲む‥
ここに、物語は発生しない。
毎日の日常の繰り返しが、ただ、在るだけである。
しかし、
‥朝起きて、私は苦い思いで一杯の水を飲む‥
と書いた瞬間から、「物語」は始まる。
何故、この人が飲む水は苦いのか?
その背景には、何があるのか?
この「何故」から「物語」は始まるように思う。
そして、「日常」には、「何故」が多すぎる。
だから、「物語」はどこにでもあり、そしてどこにもない。
‥「何故なら」答えはどこにもないからだ!
私達は、「物語」の罠に、酔っているのかもしれない。