考える道具を考える -105ページ目

考える道具を考える

The instrument which I think

日本がもし、今日のような猛暑が一年間続く気候に包まれている国であるとしたら、日本人は世界のどの民族よりも勤勉だといわれていたかどうか疑わしい?

まずは、労働意欲は著しく削がれる。
人間関係のコミュニケーションに気を配る体力的余裕を持てない。
外でのスポーツや移動は、相当控えることになるでしょう。

太陽が目に入っただけで、
アルベール・カミュのような不条理な殺人を起こしてしまうかもしれない。
いつも苛立っているのは確かだろう。町のあちらこちらでイザコザが起きる。
それが通り越すと、ひたすら怠惰になりそうだ。

あるいは、もしかしたら、完全に夜行性になり、昼間はお眠り、夜活動するというライフスタイルが当たり前になるかもしれない。

それにしても、この猛暑が一年続くということは、
ずっと暑いということで、これはもう覚悟を決めるか、別の国に移動するのが正解となるかもしれない。

つくづく、四季折々の季節を体験できるこの小さな島国に感謝したい。


それにしても暑いですね。
皆様ご自愛ください。


知の編集術松岡正剛さんの「知の編集術」(講談社現代新書)は、2000年に初版が刊行された。
この名著は、2000年という新しい世紀を目前にしたその時に出版されたこと、それ自体が重要なのだと、今になってつくづく思う。「知」の変化によって時代の転換を解釈しようとする意欲的な作品。つまり「主題の時代」から「方法の時代」へ‥であったわけですね。

   「主題」‥すなわち問題が何かは、既に顕在化している。
        経済、安全、平和、教育‥等の様々な問題。

   「方法」‥主題の問題解決のための方法。関係づけ。


松岡さんは、この方法について、

    ‥‥問題解決の糸口は、
      いくつもの主題を結びつけるその「あいだ」にあって、
      その「あいだ」を見出す「方法」こそが大事

と看破している。その最大の方法論が知の編集術なのでしょう。
そのために提示された編集技法は、実に64に類型化され、
その意味の多様性は、ほとんど目も眩むような思いです。
(全ての方法を体得するには膨大な時間が必要でもあります‥)

‥‥

例えば、一つの情報がある。
それが報道されたものでも、本から得たものでも、友人との対話の中で感受したものでもいい。その情報は、自分にとって最初は「データ」である。そして自分の中で「解釈」をすることによって、はじめて「情報」として位置づけられる。

しかし、その「情報」は、他の「情報」と関係付けて考察することによって、初めて「あいだ」が表出する。この「あいだ」をどのように見出すかが、方法の問題なのだということですね。

編集する技術を適用しながら、その「あいだ」を繋いでいく行為を創造行為といっていいかもしれない。

こんなことを考えながら、
自分の身近な日常生活を記述してみる。その記述は、自分の意識の再編集と言えるのかもしれない。再編集する行為が、新しい何かを生み、そして自分の問題を解決する糸口を発見する思考の働きを促進するのだと思う。

    ‥日常を記述すること‥それが思考の全ての出発点だ!

そして、問題解決のための思考の道具に眼を向けることが、実は問題解決の最も優れた方法であるということに私は気がつきはじめているのです。


私が敬愛する玄侑宗久禅師は言う。

自分の中には、膨大な数の抽斗(ひきだし)がある。
それが自分の可能性なのである。

しかし、現実に暮らすには抽斗をいくつかあければ足りる。
だから、チャレンジ精神をもって遠くの抽斗もたまにはあけてみる。
それが修行としての日常である‥‥と。そして、


   ‥‥だから神と悪魔を合わせたような、
     宇宙的なほどに無限な可能性をもった我々ではあるが、
     実際に現れる自己は理性でも感情でもなく、
     習慣によって動くのだし、思考も習慣どおりしている。
     禅はそう考えるのである。

     ‥禅はあくまでも生活から離れないのだ。

自分の中の可能性とは、いったいどこにあるのか?
今の自分ではない、理想の自分。しかし現実には、そのイメージとはかけ離れた自分の姿が見える。私には、無限の可能性があるはずなのに、それに手が届かない。私は無力だ。

しかし、その可能性というのは、一体、どこにあるのか?
その答えが、玄侑禅師のいう「日常の習慣」の中にあるのだということ。
日常をしっかりと生きてこそ、新しい抽斗を開ける勇気が出てくるのだろう。

自分の身のまわりを、整理整頓し、清潔にし、ただひたすら清掃する。
埃ひとつない清新な空気の中で、じっと静かに、無心に坐る。

    ‥‥と思うのだが、それにしても、私の書斎空間は、雑然としすぎている。
      まずは、掃除しなけりゃ!

      幾つになっても、人間にとって可能性とは甘味な幻想だな!

今日も、元気で!

村上龍さんと小池和子さんがキャスターをつとめるテレビ東京の「カンブリア宮殿」で、社会起業家の特集があった。

フェアトレードという考え方。
サフィア社長は、途上国の貧困を救済するために、
編み物、織物などの後進国独自の文化に根ざした製品を生産し、
日本の消費者に売る。正しく売れたものは、正しく生産者に換金され、
途上国の庶民の労働を確保する。それがフェアの意味だ。


学生時代にカンボジアを体験した女性起業家は、
日本国内でNPO法人を設立して、貧困救済のために会員制度をひき、
カンパに近い資金を集めてカンボジアに投資する。
そこで小さな工場を作り、地元の女性を集めて編んだ手提げを生産する。
この事業投資の評価基準は、利益より社会貢献の満足度だ。


問題は、高い品質を求める日本の国民に、
その製品が受け入れられるかどうか。
製品の良し悪しと同時に、グローバルな救済への人間の心情に訴求する社会起業家のビジネスが、どのような方向に向かっていくのか‥とても気になる特集でした。



地球規模の経済が浸透している。
オイルが需要と供給のバランスに関係なく高騰し、
先進国の経済を脅かす。

環境問題は既に地球規模で深刻だが、
経済原則を重視する一部の先進国は、地球の問題より企業利益を優先する。
日本もまた、呼びかけの大きさに比べて、Co2が減少しているわけではない。

貧困と豊かさ‥‥人間として生きること‥
この奇跡的な豊かさを享受する日本という国にあって、
社会起業家という仕事が、経済的に成功するモデルとなるのを期待したい。
企業の利益は、社会への還元によって保証されるようなビジネスモデルが成立することを、
強く求めていきたいですね‥。


十牛図第一図日本の唯識論の第一人者 仏教学者 横山紘一さんの「十牛図入門」(幻冬社新書 2008年3月初版刊)を熟読している。

十牛図とは、‥‥逃げ出した牛を求める牧人が、「牛」すなわち「真の自己」を究明する禅の修業によって高まり行く心境を比喩的に十段階で示したもの‥‥という。

その第一図が写真の絵。「尋牛」(じんぎゅう)の図。


自分探しの時代。私もまた、わき目も振らず生きてきた世代の中で、ふと足を止めて「自分」を考える時間がもてるようになってから、改めて「自分探し」に出かけようとして手に取ったのがこの十牛図だったのだが‥‥。

「尋牛」(じんぎゅう)と題された第一図は、飼っていた牛が小屋から逃げ出したことに気がついた牧人が、野山を超え、川を渡り「逃げた牛」を捜し求める‥ただ一人で‥という図ですね。

横山先生は問います。「牛が逃げているとはどういうことか?」「なぜ牛を探さなければならないのか?」‥そして、自分が存在するということはただの思い込みに過ぎない!という言葉の前で、私は立ち止まっているのです。横山先生は本著の中で問います。

    ‥自分の手を見る。
     確かに、自分の手は、この世界に存在している。
     しかし、それを見ている自分があって初めて「手」を見ることができる。

     では、その自分とは何か? モノとしての手のように、
     自分はどこにあるのか?

この問いの前で、じっと考え込んでしまっているのですね。

    ‥在る、と思っている自分は影のようなもので、
     本当に在るのかどうか分からない。
     なぜなら、それを掴むことができないからだ。

    ‥しかし、在るのかどうか分からない! と問うている自分が、
     在ることだけは確かだ。

自分探しは、人間の不思議さ探しの旅でもある。そしてまずは、命の大切さを知ることより、命の不思議さを知ることが先決だと‥‥。そして個としての自分の命が、普遍としての命と繋がっていくことを知る‥その最初が、この十牛図の第一図なのだと‥‥。

難しいな‥。
少なくとも、今の自分が、この第一図の中にいる牧人と同じような姿であることだけは、確かなようです。十番目の絵に到達するのは、いつのことやら‥‥。