日本の唯識論の第一人者 仏教学者 横山紘一さんの「十牛図入門」(幻冬社新書 2008年3月初版刊)を熟読している。十牛図とは、‥‥逃げ出した牛を求める牧人が、「牛」すなわち「真の自己」を究明する禅の修業によって高まり行く心境を比喩的に十段階で示したもの‥‥という。
その第一図が写真の絵。「尋牛」(じんぎゅう)の図。
自分探しの時代。私もまた、わき目も振らず生きてきた世代の中で、ふと足を止めて「自分」を考える時間がもてるようになってから、改めて「自分探し」に出かけようとして手に取ったのがこの十牛図だったのだが‥‥。
「尋牛」(じんぎゅう)と題された第一図は、飼っていた牛が小屋から逃げ出したことに気がついた牧人が、野山を超え、川を渡り「逃げた牛」を捜し求める‥ただ一人で‥という図ですね。
横山先生は問います。「牛が逃げているとはどういうことか?」「なぜ牛を探さなければならないのか?」‥そして、自分が存在するということはただの思い込みに過ぎない!という言葉の前で、私は立ち止まっているのです。横山先生は本著の中で問います。
‥自分の手を見る。
確かに、自分の手は、この世界に存在している。
しかし、それを見ている自分があって初めて「手」を見ることができる。
では、その自分とは何か? モノとしての手のように、
自分はどこにあるのか?
この問いの前で、じっと考え込んでしまっているのですね。
‥在る、と思っている自分は影のようなもので、
本当に在るのかどうか分からない。
なぜなら、それを掴むことができないからだ。
‥しかし、在るのかどうか分からない! と問うている自分が、
在ることだけは確かだ。
自分探しは、人間の不思議さ探しの旅でもある。そしてまずは、命の大切さを知ることより、命の不思議さを知ることが先決だと‥‥。そして個としての自分の命が、普遍としての命と繋がっていくことを知る‥その最初が、この十牛図の第一図なのだと‥‥。
難しいな‥。
少なくとも、今の自分が、この第一図の中にいる牧人と同じような姿であることだけは、確かなようです。十番目の絵に到達するのは、いつのことやら‥‥。