私が敬愛する玄侑宗久禅師は言う。
自分の中には、膨大な数の抽斗(ひきだし)がある。
それが自分の可能性なのである。
しかし、現実に暮らすには抽斗をいくつかあければ足りる。
だから、チャレンジ精神をもって遠くの抽斗もたまにはあけてみる。
それが修行としての日常である‥‥と。そして、
‥‥だから神と悪魔を合わせたような、
宇宙的なほどに無限な可能性をもった我々ではあるが、
実際に現れる自己は理性でも感情でもなく、
習慣によって動くのだし、思考も習慣どおりしている。
禅はそう考えるのである。
‥禅はあくまでも生活から離れないのだ。
自分の中の可能性とは、いったいどこにあるのか?
今の自分ではない、理想の自分。しかし現実には、そのイメージとはかけ離れた自分の姿が見える。私には、無限の可能性があるはずなのに、それに手が届かない。私は無力だ。
しかし、その可能性というのは、一体、どこにあるのか?
その答えが、玄侑禅師のいう「日常の習慣」の中にあるのだということ。
日常をしっかりと生きてこそ、新しい抽斗を開ける勇気が出てくるのだろう。
自分の身のまわりを、整理整頓し、清潔にし、ただひたすら清掃する。
埃ひとつない清新な空気の中で、じっと静かに、無心に坐る。
‥‥と思うのだが、それにしても、私の書斎空間は、雑然としすぎている。
まずは、掃除しなけりゃ!
幾つになっても、人間にとって可能性とは甘味な幻想だな!
今日も、元気で!