最新作スカイ・クロラの劇場公開が始まった。
精細なアニメーション画像と難解なダイアログで若者を魅了してきた押井守監督。
しかし、今回の作品も評価は割れているようだ。
そんな新作の制作現場にカメラが入った。
NHKのドキュメント番組「映画監督・押井守のメッセージ」が4日の22時50分から放映された。
‥テーマは、若者に伝えたいこと
その伝言は、
‥生きるということは辛いこと。
特に若い時代は、苦しいことばかり。
自分もまたそうであったように‥‥
‥でも、55歳を過ぎて思うこと。
それでも、生きていると、いいことはある。
こんな感じだったでしょうか?
永遠の生命を与えられた人間の空虚感‥それを現代の若者の心の中に見つめる押井監督からのメッセージとして、スカイクロラを観る楽しみがあると思った。これまで、どちらかといえば、自分の世界、他者を突き放したような距離感で作品を描き続けてきた押井監督が、はじめて人間を抱きかかえようとした作品として、その意識の変化が作品にどんな風に表現されているのか‥それが楽しみの一つでもあると、私は思っています。
そういえば、先のNHKの番組「課外授業」に登場した押井監督は、自身の出身小学校で「沸騰都市」の観察の重要性を子供達に教えていた。この番組の中では、押井監督のイメージの中にはスカイクロラのキーワード「キルドレ」という永遠に若者で在り続ける子供達という今回の作品の主人公の存在と、現実の小学生とが重なる危うさを感じながら「授業」を続けていたのかもしれない‥とようやく気がついた。
‥‥押井監督作品は、評価するのではなく、感じることが大切だと思う。

8月2日から東京上野東京都美術館で「フェルメール展 光の天才画家とデルフトの巨匠たち」が始まった。(12月14日までの長い企画展示です)
西洋美術史上、最も才能溢れる画家と称されるフェルメールは、17世紀のオランダの画家。三十数点しか現存しない作品により謎のベールに包まれた画家でもある。 展示会ではカレル・ファブリティウス、ピーテル・デ・ホーホなどのデルフトの巨匠たちと呼ばれる画家達の絵画も展示されている。
フェルメールと言えば、代表的な作品が写真の「牛乳を注ぐ女」ですね。その静謐なリアリティとオブジェの質感が優れたこの作品は、様々な解釈が可能でもあるようです。
宗教画が優先された時代に、メイドなどの庶民を対象として、何を描こうとしたのか?
そして、この時代から以降、度々活用されるこの構図。左の窓とそこから微かに差し込む光。部屋の中にはその光を受けた影の中にいる一人の女性。パン、ミルクなどの描写の中には、一般庶民の中にも、マリアの存在感があるという意味を感じ取る人もいるようですね。(赤と青の服の組み合わせが聖母マリアの記号だということなど‥)。
私は、この絵画の前では、17世紀のオランダという「時間」の中の「静」を感受しますね。そしてゆっくりと流れる「空間」の中の「動」の予感とでも呼べばいいのでしょうか?
幻想絵画に驚愕の衝撃を受ける私の好みからいえば、フェルメールの描く絵画は、対極にありるように思っていますが、実は、この日常の質感こそが、幻想絵画の原点にあると考えています。
いかがでしょうか?
とても静かな気持ちになります。
2008年8月8日午後8時8分。
この8並びの縁起をかついで開会式が行われる北京五輪。
今週の金曜日から始まるのですね。
同じアジアで開催されるのは、1964年の東京、1988年のソウルに次いで三度目。
前回のアテネ五輪では、日本は16個の金メダルを獲得しているが、その主な競技は、柔道、水泳、レスリング。陸上競技ではマラソンの野口さんと室伏さんの二人。でももう大半は忘れてしまっている?
ちなみにアテネの前の2000年はシドニー。高橋尚子さんがマラソンで優勝しましたね。シドニーの前はアトランタ。もういいか‥。
それにしても、今回の五輪は、盛り上がらないですね。
あるいは盛り上げない? 理由が在り過ぎるというのだろうか?
一つには、情報が見えるようで見えないということ?
情報の透明性という視点では、私達日本のお隣の国でありながら、本当の姿が見えてこないということもありますね。人々の興味関心は、関心の対象についての情報力の差にも現れます。
二つには、日本の国民自体が五輪に対する興味を失っているということ?
オリンピックどころではないという本音がありますね。国民生活に直接影響を及ぼす課題があり過ぎる割に危機感の少ない日本人が、国という概念そのものに幻想を描けなくなっているということ?
三つ目は、マスコミ自体がノッテいないということ?
世界各国から100以上の民放テレビが現地に入り、それらのマスコミが共同してwebサイトで動画を配信するなど新しい情報発信の形態が様々に試みられるようですが、地球全体が共通して盛り上がるには、サッカーのワールドカップや世界陸上のような意識の高揚があってもいい。それが、五輪には既に失われていて、セレモニー化しているだけという感覚がある。
それにしても、こういう事業は、その国の姿が見えてしまうという皮肉もたくさんありますね。
五輪はこれから経済成長しようという国にとっては大きなイベントではありますが、高度に経済発展した後の成熟した国においては別の見方になってしまう‥。今回の五輪を国としての成熟した姿として理想的といわれる北欧の人々はどんな風に観ているのだろうか?
日本は、その成熟した姿をデザインすることが大切なのだな‥と思うのでした。
でも日本選手頑張れ!
この8並びの縁起をかついで開会式が行われる北京五輪。
今週の金曜日から始まるのですね。
同じアジアで開催されるのは、1964年の東京、1988年のソウルに次いで三度目。
前回のアテネ五輪では、日本は16個の金メダルを獲得しているが、その主な競技は、柔道、水泳、レスリング。陸上競技ではマラソンの野口さんと室伏さんの二人。でももう大半は忘れてしまっている?
ちなみにアテネの前の2000年はシドニー。高橋尚子さんがマラソンで優勝しましたね。シドニーの前はアトランタ。もういいか‥。
それにしても、今回の五輪は、盛り上がらないですね。
あるいは盛り上げない? 理由が在り過ぎるというのだろうか?
一つには、情報が見えるようで見えないということ?
情報の透明性という視点では、私達日本のお隣の国でありながら、本当の姿が見えてこないということもありますね。人々の興味関心は、関心の対象についての情報力の差にも現れます。
二つには、日本の国民自体が五輪に対する興味を失っているということ?
オリンピックどころではないという本音がありますね。国民生活に直接影響を及ぼす課題があり過ぎる割に危機感の少ない日本人が、国という概念そのものに幻想を描けなくなっているということ?
三つ目は、マスコミ自体がノッテいないということ?
世界各国から100以上の民放テレビが現地に入り、それらのマスコミが共同してwebサイトで動画を配信するなど新しい情報発信の形態が様々に試みられるようですが、地球全体が共通して盛り上がるには、サッカーのワールドカップや世界陸上のような意識の高揚があってもいい。それが、五輪には既に失われていて、セレモニー化しているだけという感覚がある。
それにしても、こういう事業は、その国の姿が見えてしまうという皮肉もたくさんありますね。
五輪はこれから経済成長しようという国にとっては大きなイベントではありますが、高度に経済発展した後の成熟した国においては別の見方になってしまう‥。今回の五輪を国としての成熟した姿として理想的といわれる北欧の人々はどんな風に観ているのだろうか?
日本は、その成熟した姿をデザインすることが大切なのだな‥と思うのでした。
でも日本選手頑張れ!
ミュージカルのレ・ミゼラブルもミスサイゴンも、そして世界の蜷川幸雄さんの古典劇の再編集による演出にも共通しているのは「群集劇」であることでしょうか。
多くの観衆を魅了し続けている大作には、この「群集」という劇的インフラの存在が欠かせない。
この魅力は、登場人物の誰に視点を合わせて観ても、その芝居が成立するということだ。物語の筋という縦軸より、物語の節目に展開される横軸に重点が置かれた演出と言えるのかもしれない。
‥今の日本や世界は、物語の縦軸が見えない時代。
一つのドラマがどこに着地するのか分からない物語は、不安で一杯だ。だから、大きなストーリィの中で泳いでいることが確認されれば、関心は横軸に行く。場面重視のシナリオが観衆の関心を呼ぶ時代なのかもしれない。この関心のあり方を「個」の時代というのだろうか?
既に何度も触れているが、NHK大河ドラマ「篤姫」は、久々の圧倒的な視聴率を叩き出している大河ドラマ史上記憶に残る番組になりそうな勢いである。
篤姫の面白さは、時代的な背景という物語の軸は薄めにセットしておいて、いわば細切れの場面の繋ぎ合わせの中の集積によって成り立っている演出にあるといっていいのではないか? ある意味、劇画の世界に似ていて、第一巻の最初の頁から読まなくても、どの場面から見ても、ドラマの世界に入り込める演出が魅力なのだと思う。そしてこの番組もまた「群集」を基盤とした物語なのだ。
だからでしょうか? 登場人物の台詞は極めて短く、ほとんど長台詞がない。対話の場面は、切り刻まれて、「要点のみの台詞」が、次々と展開されていく。「芝居のト書きの連続」のようですらある。そして、そのリズム感が現代の視聴者の感性にフィットする。
こうした読み方が正しいかどうかは別として、だからこそ、しっかりと考えるという習慣、時間をかけて考え抜くという覚悟が大切だと思うのですね。群集劇がパラドックスとして示唆しているのは、そこに登場している一人の個人が、その場面にどんな思いで参加しているのかということ。一人一人の役者が、そういう場面の中の一人として演ずる心にこそ、群集としての質感が得られるものと思うのですね。
‥群集の中の一人としての私と、
私の中の群集。
私もまた、1億人の日本人の中の一人。
しかし、その一人の生き様が劇的でなくて、
群集の魅力が創造されることはないのだ!
多くの観衆を魅了し続けている大作には、この「群集」という劇的インフラの存在が欠かせない。
この魅力は、登場人物の誰に視点を合わせて観ても、その芝居が成立するということだ。物語の筋という縦軸より、物語の節目に展開される横軸に重点が置かれた演出と言えるのかもしれない。
‥今の日本や世界は、物語の縦軸が見えない時代。
一つのドラマがどこに着地するのか分からない物語は、不安で一杯だ。だから、大きなストーリィの中で泳いでいることが確認されれば、関心は横軸に行く。場面重視のシナリオが観衆の関心を呼ぶ時代なのかもしれない。この関心のあり方を「個」の時代というのだろうか?
既に何度も触れているが、NHK大河ドラマ「篤姫」は、久々の圧倒的な視聴率を叩き出している大河ドラマ史上記憶に残る番組になりそうな勢いである。
篤姫の面白さは、時代的な背景という物語の軸は薄めにセットしておいて、いわば細切れの場面の繋ぎ合わせの中の集積によって成り立っている演出にあるといっていいのではないか? ある意味、劇画の世界に似ていて、第一巻の最初の頁から読まなくても、どの場面から見ても、ドラマの世界に入り込める演出が魅力なのだと思う。そしてこの番組もまた「群集」を基盤とした物語なのだ。
だからでしょうか? 登場人物の台詞は極めて短く、ほとんど長台詞がない。対話の場面は、切り刻まれて、「要点のみの台詞」が、次々と展開されていく。「芝居のト書きの連続」のようですらある。そして、そのリズム感が現代の視聴者の感性にフィットする。
こうした読み方が正しいかどうかは別として、だからこそ、しっかりと考えるという習慣、時間をかけて考え抜くという覚悟が大切だと思うのですね。群集劇がパラドックスとして示唆しているのは、そこに登場している一人の個人が、その場面にどんな思いで参加しているのかということ。一人一人の役者が、そういう場面の中の一人として演ずる心にこそ、群集としての質感が得られるものと思うのですね。
‥群集の中の一人としての私と、
私の中の群集。
私もまた、1億人の日本人の中の一人。
しかし、その一人の生き様が劇的でなくて、
群集の魅力が創造されることはないのだ!
東京帝国劇場でミュージカル「ミス・サイゴン」が始まりましたね。
ミス・サイゴンと言えば、主役のキム役で一世を風靡した本田美奈子さんのイメージが常にあります。
昨日の7月30日が本田美奈子さんが生きていれば41回目の誕生日であったとか‥。これを記念して、市村正親さんらの呼びかけで「本田美奈子.メモリアルウィーク」として生前の本田さんの映像などが紹介されています。(8月6日まで)
私がミュージカルを楽しむようになった頃には、既に本田さんは闘病生活に入っていました。実際の舞台で本田美奈子さんを見る機会はなく、残念ながら、その才能を直に堪能することはできませんでした。
しかし、その後、かなり頻繁に繰り返し舞台を見るようになって以降、特にミスサイゴンを積極的に観にいくようになりましたが、例えば、松たか子さんがキムを演じている時ですら、本田美奈子さんの幻影を感じていたのですね。
不思議なものです。
そして、私は思います。
‥‥優れた俳優は、解釈の多様性を容認する。
ということを。俳優は個性の塊のように思えますが、観客はそれぞれの感情で舞台を楽しむ。個人個人の思いが反映される演技ができないと、より多くの人に支持されない‥と想ったのですね。
本田美奈子さんが、長く人々の心に残っているのは、それが観る人の心の中に、「自分のキム」を記憶に留めることができたからではないかと‥そんな風に想うのです。
今年も、良い舞台が続いています。
ミス・サイゴンと言えば、主役のキム役で一世を風靡した本田美奈子さんのイメージが常にあります。
昨日の7月30日が本田美奈子さんが生きていれば41回目の誕生日であったとか‥。これを記念して、市村正親さんらの呼びかけで「本田美奈子.メモリアルウィーク」として生前の本田さんの映像などが紹介されています。(8月6日まで)
私がミュージカルを楽しむようになった頃には、既に本田さんは闘病生活に入っていました。実際の舞台で本田美奈子さんを見る機会はなく、残念ながら、その才能を直に堪能することはできませんでした。
しかし、その後、かなり頻繁に繰り返し舞台を見るようになって以降、特にミスサイゴンを積極的に観にいくようになりましたが、例えば、松たか子さんがキムを演じている時ですら、本田美奈子さんの幻影を感じていたのですね。
不思議なものです。
そして、私は思います。
‥‥優れた俳優は、解釈の多様性を容認する。
ということを。俳優は個性の塊のように思えますが、観客はそれぞれの感情で舞台を楽しむ。個人個人の思いが反映される演技ができないと、より多くの人に支持されない‥と想ったのですね。
本田美奈子さんが、長く人々の心に残っているのは、それが観る人の心の中に、「自分のキム」を記憶に留めることができたからではないかと‥そんな風に想うのです。
今年も、良い舞台が続いています。