群集の中の私、私の中の群集‥‥篤姫の対話の簡潔性に思う | 考える道具を考える

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The instrument which I think

ミュージカルのレ・ミゼラブルもミスサイゴンも、そして世界の蜷川幸雄さんの古典劇の再編集による演出にも共通しているのは「群集劇」であることでしょうか。

多くの観衆を魅了し続けている大作には、この「群集」という劇的インフラの存在が欠かせない。

この魅力は、登場人物の誰に視点を合わせて観ても、その芝居が成立するということだ。物語の筋という縦軸より、物語の節目に展開される横軸に重点が置かれた演出と言えるのかもしれない。

   ‥今の日本や世界は、物語の縦軸が見えない時代。

一つのドラマがどこに着地するのか分からない物語は、不安で一杯だ。だから、大きなストーリィの中で泳いでいることが確認されれば、関心は横軸に行く。場面重視のシナリオが観衆の関心を呼ぶ時代なのかもしれない。この関心のあり方を「個」の時代というのだろうか?


既に何度も触れているが、NHK大河ドラマ「篤姫」は、久々の圧倒的な視聴率を叩き出している大河ドラマ史上記憶に残る番組になりそうな勢いである。

篤姫の面白さは、時代的な背景という物語の軸は薄めにセットしておいて、いわば細切れの場面の繋ぎ合わせの中の集積によって成り立っている演出にあるといっていいのではないか? ある意味、劇画の世界に似ていて、第一巻の最初の頁から読まなくても、どの場面から見ても、ドラマの世界に入り込める演出が魅力なのだと思う。そしてこの番組もまた「群集」を基盤とした物語なのだ。


だからでしょうか? 登場人物の台詞は極めて短く、ほとんど長台詞がない。対話の場面は、切り刻まれて、「要点のみの台詞」が、次々と展開されていく。「芝居のト書きの連続」のようですらある。そして、そのリズム感が現代の視聴者の感性にフィットする。

こうした読み方が正しいかどうかは別として、だからこそ、しっかりと考えるという習慣、時間をかけて考え抜くという覚悟が大切だと思うのですね。群集劇がパラドックスとして示唆しているのは、そこに登場している一人の個人が、その場面にどんな思いで参加しているのかということ。一人一人の役者が、そういう場面の中の一人として演ずる心にこそ、群集としての質感が得られるものと思うのですね。

    ‥群集の中の一人としての私と、
     私の中の群集。
     私もまた、1億人の日本人の中の一人。
     しかし、その一人の生き様が劇的でなくて、
     群集の魅力が創造されることはないのだ!