行く河の流れ -26ページ目

行く河の流れ

行く川のながれは絶えずして、しかも本の水にあらず。よどみに浮ぶうたかたは、かつ消えかつ結びて久しくとゞまることなし。

 一日中、雨が降った
 どんより暗い
 空だけではない
 周りの世界が僕の皮膚という境界を
 意味のないものにして、浸透してくる
 この世の色が永遠に失われてしまった
 どうしても気持ちを抑えることが出来なかった。普段は購入したい物があっても何ヶ月もその気持ちを寝かせ、その他の物と検討比較し、それでも尚欲しい気持ちが収まらなかったら購入を決意するのだが・・・。
 購入したのはTomyの「Xiaostyle TDG-501」のデジタルカメラである。
 「デジタルカメラ」などとハイテクそうに言っているが、実はこれ、ものすごい写真がとれるのだ。とても綺麗とは言えない、全然思い通りに撮れない、電池もすぐに切れてしまう、ボタンの反応も遅い・・・。今の時代デジタルカメラでこの性能だとヒットする理由が見あたらないのである。しかしなぜ僕の心を捉えて止まなかったか。それはパソコンに取り込んだときの絵がもの凄く「イイ」のである。これは「味がある」と言って良いと思う。デジタルカメラのくせに味があるなんて僕は一目惚れをしてしまったのだ。
 面白いのはメーカーであるTomyはかなり真面目に開発製造したことがうかがえることである。それはホームページを見てみるとわかる。
「Tomy Xiaostyle」
http://www.takaratomy.co.jp/products/xiaostyle/index.htm
 確実に売り出し方を間違ってしまっていることが見て取れる。方向性が間違っているのだ。こんなオシャレな物ではない。こんなスタイリッシュな物ではない。むしろこのデジタルカメラはオモチャなのだ。そう、分類するならば「トイデジカメ」だ。
 僕はデジタルカメラでもトイカメラのLOMOの様な無骨で不器用で方向音痴なカメラが欲しかった。そのカメラをまさしく手に入れたのだ。生活にちょっとした遊び心をプラスすることによって、世界の見方も変わってくることを期待している。
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 「宗教にハマりやすい人」と言う人がいる。また言われる人がいる。僕はどちらかと言えば、言われる方だ。
 そもそも「宗教」とはなんであろうか。世界には三大宗教と呼ばれキリスト教、イスラム教、仏教がある。しかしそれ以外にもその土地に根ざした様々なものがある。現代社会の中にはカルトに分類されるようないかがわしいものもある。
 人の信じる心にそれは宿る。「信じる心」とは意識の在る人間ならば無意識に在るものだろう。「何か」を信じるというまでもいかなくて良い。人間の存在があれば心が在る。
 自分の気持ちの中に在るモノ。自分の存在を知ろうとする気持ち、それを求める気持ちは「哲学」と呼ばれ分類される。個人の「哲学」は持っていても良いが「宗教」を持っていてはダメな理由はどこにもない。むしろ冒頭に述べた「宗教にハマりやすい人」と人に言う人は「哲学」と「宗教」の区別が曖昧なのではないだろうか?曖昧さが分かっていないというよりもそれは「一体」なのだが、むしろそれを「別のモノ」と勘違いしているのではないだろうか?
 僕は「宗教心」とは誰の心の中にも在ると思っている。それはその人が生まれ、育ってきた環境の中で育まれる。その環境とはその土地に住むはるか昔の人たちからの「伝統」とも言えると思う。そして僕たちはその気持ちを未来に繋げていく役割を担っている。
 みんな持っているのに、それに「ハマる」などという言葉は適切ではないと思うのである。
 だから僕は決して「宗教にハマりやすい人」などと言うことはない。系統だった宗教から無意識のうちにその土地に在る宗教まで様々だが、自分の心に「本物」を問えば「ハマる」ということはないのではないだろうか。
 宗教とは自分の外に在るのではない。内に存在しているのだ。よって、「何か」に「ハマる」というような「何か」という対象が外にあるのならば、それは本当の宗教ではないと考える。
 ニカラグアへ出発する準備を進める為、買い物をしていた。スーツケースから衣類その他、2年間向こうで生活する為に何が必要かを想像して手探りでの準備だった。

 ちょうど2001年の夏の出来事。まだ太陽はなかなか沈まず午後7時を過ぎても夕方のようだった。一通りその日に予定していた買い物を終えて、国道2号線を家へと車を走らせていた。車は母親の車を借りていた。小さなダイハツの軽自動車だった。様々な便利な機能は付いておらずカーエアコンとラジカセだけだった。車内にはFM岡山が流れていた。
 国道2号線の登り坂に差し掛かったところでラジオのDJが曲を紹介した。
「では、続いてはBUMP OF CHICKENで天体観測・・・」
 それまで流れている曲は流れっぱなしで聴いているわけではなかったが、この曲が流れてくると引き込まれた。鳥肌が立ち、無条件に感動してしまった。ラジオのボリュームを上げ、この曲の空間に埋まってしまいたかった。

 結局、このCDをニカラグアへ持って行くことは、なかった。そしてその曲の存在も忘れていった。

 ニカラグアへ僕は何をする為に行ったのか?国際協力・・・。大義はそうだが、実際は違う。僕は「見えないモノを見ようとして」海を渡ったのだと思う。それは物理的空間による制約により見えないとされるものではなく、自分自身の心の中、周りにいる人たちの心の中、僕らを取り巻いている周りのモノの背後・・・。
 この曲を聴くとその時に気持ちを思い出す。未知なる世界を観ようとしていたあの誇らしくもあり、楽しくもあった高揚感を。
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『天体観測』
~BUMP OF CHICKEN~

午前二時 フミキリに 望遠鏡を担いでった
ベルトに結んだラジオ 雨は降らないらしい

二分後に君が来た 大袈裟な荷物しょって来た
始めようか天体観測 ほうき星を探して
深い闇に飲まれないように 精一杯だった
君の震える手を 握ろうとした あの日は

見えないモノを見ようとして 望遠鏡を覗き込んだ
静寂を切り裂いて いくつも声が生まれたよ
明日が僕らを呼んだって 返事もろくにしなかった
「イマ」というほうき星 君と二人追いかけていた

気が付けばいつだって ひたすら何か探している
幸せの定義とか 哀しみの置き場とか

生まれたら死ぬまで ずっと探してる
さあ 始めようか 天体観測 ほうき星を探して
今まで見付けたモノは全部覚えている
君の震える手を 握れなかった痛みも

知らないモノを知ろうとして 望遠鏡を覗き込んだ
暗闇を照らす様な 微かな光 探したよ
そうして知った痛みを 未だに僕は覚えている
「イマ」というほうき星 今も一人追いかけている

背が伸びるにつれて 伝えたいことも増えてった
宛名のない手紙も 崩れる程 重なった
僕は元気でいるよ 心配事も少ないよ
ただひとつ 今も思い出すよ

予報外れの雨に打たれて 泣き出しそうな
君の震える手を 握れなかった あの日を

見えてるモノを見落として 望遠鏡をまた担いで
静寂と暗闇の 帰り道を駆け抜けた
そうして知った痛みが 未だに僕を支えている
「イマ」というほうき星 今も一人追いかけている

もう一度君に会おうとして 望遠鏡をまた担いで
前と同じ午前二時 フミキリまで駆けてくよ
始めようか天体観測 二分後に君が来なくとも
「イマ」というほうき星 君と二人追いかけている
 「ニート代表」の杉村太蔵議員は今月1日の予算委員会第5分科会で自身初の質問に立った。曰く「僕たちをもっと使ってください!僕たちはやれば出来るのです!」と新卒採用という条件撤廃を訴えた。

 全国にどれだけいるだろう「ん?僕たち?」

 僕自身も最近は友人や知人にニートと呼ばれることが多い。そもそもニートとは「Not in Employment, Education or Training」のそれぞれの頭文字をとったもので、「職に就いていず、学校機関に所属もしていず、そして就労に向けた具体的な動きをしていない」若者を指す。現在日本でニートに分類される人は68万人にのぼると言われ社会問題になっている。
 話を再び自分のことに戻すが、僕は身分としては「大学生」である。現役で自分が大学生だった頃よりも勉強はしている。給料はもらっていはいないが、働いてもいる。・・・全くニートの定義に当てはまらないのだ。
 要するに「安定した一定の収入のある職に就いていない」ということからニートと呼ばれているのだろう。言うなればフリーター的身分である。
 現在、世界的な社会問題と考えられているニート。しかし、僕はそのことを信用していない。様々な時代で価値観は変わる。具体的な絵は描けないが、ニートの状態を一方的にすべて悪と決めつけることに違和感を覚える。「ニートは夢を見過ぎ」「ニートは社会的負け組」云々。
 ニートに関する議論にズレを感じるのだ。しかも太蔵くん、あなたはニートでもないし、なぜ代表なのか?本当のニートの人からすれば次元の違う人だし、しかも国民の代表として国会に立っている。ニートとなぜか呼ばれている僕から見ても「僕はあなたと違うぞ」と思った。どれだけズレるのか。
 最近お酒を飲んでいない。別に禁酒しているわけでも、お酒を飲めないわけでもない。ただ単に飲まない。それだけの理由だ。
 おいしいお酒は世の中にたくさんある。それをお金で買うこともできる。でも僕が思う「おいしいお酒」はお酒そのものではない。
 お酒をどこで飲むか。お酒を誰と飲むか。お酒を何の為に飲むか。お酒をいつ飲むか。どんな料理と飲むか。どのくらい飲むか。そして飲んだ後、良い気分になれるか。
 それらの要素の上にちょっとした贅沢感を感じさせるお酒であれば、なお良い。それくらいの要素である。
 久しぶりにうまい酒を飲みたいものだ。
 仕事の関係で広島に行った。朝、新倉敷から新幹線「こだま」に乗車し東広島駅までの一時間、快適なリクライニングシートに身を埋めてなんとはなしに車窓から見える景色を見ていた。
 辺りはどんどん暗く、雨雲が立ち込めるような天気になってきていた。岡山を出たときにはあんなに快晴だったのに。案の上、東広島の駅に着くとポツポツと小降りの雨が降ってきていた。それよりも驚いたのが駅から目的地へと向かうタクシーの中で田んぼの中、所々にある民家の屋根瓦の上に残雪の欠片が残っていたことだった。
 目的地へ着き、職員の人に聞いてみると、
「ここは広島の市内と3度は違いますよ。寒いんです」
 岡山市街地と県北の津山市くらいの違いらしい。僕が違和感を感じたのはその位置関係だった。
 岡山市街地と津山市は北と南の関係にある。北には山地があり標高が高くなって気温が低い。しかしこの広島市街地と東広島市の関係は西と東の関係だった。岡山の感覚だと「東西には標高差はない」である。しかしこの広島県にはあったのだ。東広島市は標高が高いらしい。
 なんだか変な感覚だった。「北に山、南に海」の僕にとって他の県の感覚はまた違ったモノになろう。鳥取県や島根県であれば岡山のそれとは全く逆になるのだから。
 昨年末にアルバイトをした。年末でどの店もとても忙しい時期。そんな時に限って学生さんは休んでしまう。
 そこで声をかけてもらったのだ。
 僕の意識としては「小遣い稼ぎ」という認識もなかった。ただ単に人がいなくて困っているからこんな僕でもよければ・・・という感覚だった。
 その時働いたお給料を頂いた。2カ所から声がかかり2カ所とも個人で経営されている所だったので両方とも「銀行振込」ではなく「現物支給」だった。
 働いたことを忘れていたので、驚いた。そしてやはり僕のお金に関する感覚は間違っていないと確信した。
 以前、会社員として東京で働いていた。その時は何十万円という給料を頂いていた。今回頂いたのは合計2万円弱である。本当にゼロの状態だった僕にその金額よりも気持ちとして頂いたそのお金が何より嬉しかった。
 「お金の為には働かない」という気持ちが固くなった。
 そんな気持ちじゃ社会で生きていけないと言われるかもしれない。だったら、それでいい。自分の信じた道を歩かなければ生きている意味がない。
 こんな気持ちを支えるのは「武士道」である。僕はあの本に共感する。そう生きたいと願う。ならば実践あるのみ。
 「ねぇ、遠くにいて仲の良い恋人と、近くにいるんだけど喧嘩ばかりする恋人とならどっちがいい?」
 電話ごしに彼女はそれまでの会話を無視するかのように聞いてきた。それは僕の心を覗き込む目のような声だった。
 彼女の望む答えは分かっていた。分かってはいたが、理解できなかった。僕の思う答えの方と逆の答えだったし、何より彼女は自分の答えと反対の答えを僕が選ぶだろうということを知って、この質問を聞いてきたのが分かっていたからだ。
 僕は素直に自分の思う方の答えを彼女に告げた。当然のように彼女はその答えと反対の答えを声にした。しばらくお互いの答えについて話し合った後、何事もなかったかのように、いつもの会話に戻っていった。
 電話を切った後、部屋のベッドに寝転がり天井を見上げた。右手にはそれまで話をしていた携帯電話がそのまま握られていた。
 深夜、仕事から帰っているとよく野良猫に遭遇する。猫は夜行性だから夜ウロチョロするのだという。夜の闇の中でも猫の目はしっかりと見ることができるらしい。
 僕はそこで疑問が湧いた。
「どうして動物に夜行性が多いのだろう?」
 単なる性質や特性で片づけるのではなく、その「意味」に興味を持った。ちょっと調べてみよう。
 題して『動物の夜行性における哲学的考察』