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行く河の流れ

行く川のながれは絶えずして、しかも本の水にあらず。よどみに浮ぶうたかたは、かつ消えかつ結びて久しくとゞまることなし。

 太陽に向かって上へ上へと
 背が高くなればそれを支える幹を
 年輪としてまとっていく
 そしてまた太陽に向かって高く高く
 その樹の大きく開かれた木陰に
 やってくる人もあれば
 去っていく人もいる
 その樹を眺めようと少し距離をおく人もいれば
 根元で居眠りをする人もいる
 樹は在処を変えず
 ただ上へと高くのぼろうとしている
 相反する二つの事象を併せ持つ心
 頑固で柔軟
 厳しくて優しい
 細やかで大らか
 古くて新しい
 それらを対立する概念としてではなく
 一つのモノとしての人間の振り幅
 それらを包括する人格を
 しなやかな人間という
 文春新書で鳥飼玖美子さんの著書。小学校の教科に英語が必修科目になる。「国語も危うい中で、英語よりも大切なことがあるだろう」という批判があるが、僕はこの問題についてよく分からなかったので読んでみることにした。
 この著書の中で特に注目した主張がある。この本の著者は小学生からの英語教育には反対の立場をとった上で、以下のように主張している。

 『中心は母語である日本語ですが、これまでの国語教育の枠内に閉じこもるのではなく、「コミュニケーション」という視点から、ことばを取り上げます。教科書を読んで先生が説明するような授業ではなく、子どもたちがみずから体験することで、ことばの豊かさ、面白さ、そして怖さに気づくような、「言葉の体験学習」を実現できないかと思います』

 また同様な観点から「国際理解教育」についても述べている。

 『「国際理解教育」については、「戦争はひとの心の中で生まれるものであるから、ひとの心の中に平和のとりでを築かなければならない」というユネスコ憲章を教育で具体化したものとして大切だと考えます。だたし、「国際理解」や「異文化交流」を、外国(それも多くの場合、欧米諸国)に限定して考える風潮には大きな違和感を持ちます。(中略)「異文化理解」というのは、英米人と英語でおしゃべりすることではありません。身の回りの「異文化」と理解しあうということの中には、隣に住むアジアの人との交流も入れば、体に不自由を持った人たちと共に生きることでもあり、世代やジェンダーを超えて理解しあうことでもあります。「異文化理解」は、ことばをかえて言えば、「異質なものへの開かれた心」を育てることでもあります』

 同感である。小学校での英語学習に以上のような理念が文言だけに終わるようであれば、この時期に導入する意義を失ってしまうのと同じである。となると、現場の教師の力量による部分が大いにある。
 次期自民党総裁が確実視される安倍晋三氏の著書で文春新書で出版されている。相変わらず新書は読みやすく、その分野の入口くらいにはなるだろう。この著書もそうで彼の考えの表面的なものを知るにはよかったかもしれない。
 政治家が実際に権力を手にした時には、いままで貫いてきた信念信条を絡み採られる様々なしがらみ(利権)が発生する。彼が一国の首相になった時にこの著書に書かれていることが達成することはとても難しいことになるだろう。・・・あまり具体的な政策については述べられていないが。
 理想的な政治家は存在しない。よく「投票したい人がいない」とか屁理屈をこねて選挙に投票しない人がいるが、「投票したい」という完全な政治家などいないのだ。その中で、消去法により「まぁこの人なら・・・」と投票するのが限界なのではないだろうか。そもそも投票しない人というのはどういう政治家がどういう考え方をし、どういう政策を提案しているかを知りもしないで「投票したい人がいない」と言うだけだという偏見を僕は持っている。そして確信もある。
 それを知るにはテレビではダメだ。大切な本当のことは決して言わない。やっぱり自分で勉強していくしかないのだ。騙されない為にというマイナスな動機だとしても。
 耕した土壌からしか芽は出ない
 心の大地は潤っているだろうか
 眼前に迫りくるモノに圧倒されているばかりの日々では
 地平のない荒廃にさらされる
 いくら大地を耕しても
 種を蒔かねば実を採ることはできない
 循環の宇宙の渦中に踊らねば
 昨日、祖母と叔母と三人で墓参りに行ってきた。僕も小さい時から行き慣れているお墓は山間の竹林の麓にある。僕は車酔いがひどく、墓参りと言えばあまり気持ちの良いモノではなかった。毎回途中で気分が悪くなり車を降りて新鮮な空気を吸って歩いた。
 今はそんなことはなく、以前ほど、ここが遠くには感じられない。到着してからお墓を掃除して、花を挙げて、水をかけ、お供え物をして、一つ一つのお墓を拝む。その流れの中に子どもの時には感じなかったモノを感じた。祖母はいつも自分の夫である祖父の墓に話しかけながら一つ一つの作業をしていく。その言葉はいつも家で仏壇に向かって発する言葉であり、つまることなく流れ出てくる感謝の言葉である。心から発する言葉は美しい。
 掃除の合間に家に関するいろいろな話をしてくれる。お墓参りに来る度に聞かされる同じ話も多い。でも僕は小さい時から聞かされるこの話が、毎回新鮮な気持ちで聞くことができる。昨日もそうで自分の心の成長を測るバロメーターになっているのかもしれない。
 ふと思ったのが、祖母はこの家に嫁いで来たわけだ。しかしである。この家の今に至るまでの先祖にめちゃくちゃ詳しい。まるで子ども時代からこの家に生まれ、この家で育ち、この家で生活してきたように。しかし実際には祖父と結婚するまでは、この家のことなんて全く知らなかったはずだ。
 おばあちゃんのおじいちゃんを想う気持ちがそこには在った。時を刻み深みと透明度そして強さとしなやかさを増した感情が在った。おばあちゃん、やっぱすごいです。
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 君の元気は
 僕の元気だfight!
 命の喜びに
 Let's it's good good morning
 だってこんなにfine day

 日曜日の午後七時くらい。何か製薬会社のCMの中で歌われている歌である。特に歌詞を気にすることもなく小さいときからよく口ずさんでいたように思う。語呂がいいのだろう。明日は月曜日で学校が始まるという憂鬱から自分を励ましていたのかもしれない。
 朝から騒々しかった。靖国に眠る英霊に対し申し訳ないほどに。本来ならば静かに粛々と感謝と哀悼の意を持って参拝せねばなるまい。しかし日本はまだ戦後の後遺症でそこまで回復していないとみえる。許して頂きたい。
 テレビは物々しく小泉首相の参拝の様子を中継していた。スタジオではそれがどういう意味を持つのかおそらく理解していないだろう女子アナが自身もマスコミに踊らされているように、わざとらしく神妙な顔をして声を発している。もう喜劇である。
 夕方の地方版のニュースでも「街の声」として街頭インタビューを放送していた。皆インタビューを受けた人はそれらしいことを言っているが、残念ながらすべてマスコミによって流されていることをなぞっているだけで、無知をさらけだしているだけだった。日本人として知っておくべきことであり不勉強も責められてしかるべきなのだろうが、それを流すテレビもテレビである。
 ああ、この国はどこへ向かうのか・・・。あなた方が命をかけて守り抜いたこの国は、あなた方の想い描いた未来を辿ってはいないようです。申し訳ない。涙が出てきます。
 その人が目指す世界へ
 その先の世界はどんなだろう
 そこへ向かい歩く人を見て
 「この人に付いていけば面白い」
 「同じ世界を目指せる」
 そう思わせる背中
 向き合うのではない
 目指す世界へと歩み続け
 あとに続く人に背中で語る
 そういう人を「師」と呼ぶ
 ピアノの練習をした。自分の部屋で下手なりに唄いながら練習していると、携帯電話が鳴った。「誰からだろ?」と携帯電話を持ってみると僕の父親の幼なじみであり、僕の友達でもあるおじさんから電話だった。
 「上手だね?ピアノの練習?」
 僕はあれっ?と思って、二階の窓から外をみると、そのおじさんが携帯電話を片手に見上げて手を挙げている。
 「やぁ!練習してるんだね」
 なんだかカッコいい登場のしかただなぁと思い、ヘタクソなピアノの音を聞かれた恥ずかしさを忘れて久々の再会を喜び、階段を駆け下りた。