行く河の流れ -11ページ目

行く河の流れ

行く川のながれは絶えずして、しかも本の水にあらず。よどみに浮ぶうたかたは、かつ消えかつ結びて久しくとゞまることなし。

 子どもたちの名前をフルネームで全員覚えて顔と一致させ、教室に入ってからの挨拶も台本を作って準備し、クラスの約束事も決めて子どもたちと出逢った。緊張はしていたが、良質の緊張感だったと思う。なかなか満足できる出逢いだったのではないかと思っている。これからがどうなるか分からず不安ではあるが。
 子どもたちが下校した後、どっと疲労が襲ってきた。しかし、この日はとても忙しく、夜遅くまで仕事をした。楽しかった。これから毎月大きな行事がある。僕が選んだこの職業はどんな可能性を秘めているのか。どこまでいけるのか。楽しみでしかたがない。
 
 明日への準備を進める。明日が成功するか、失敗するかは当日の出来、不出来よりも前日の準備の出来、不出来ですべてが決まる。また自分の夢へと向かうスタートラインに立つ日になる。今日がんばらないとね。どこまで準備しても不安はつきものだけどね。
 やることをやりおわると、あと結果はもうどっちでもいい気持ちになる。たとえ失敗してしまったにしても、その時点での自分の力を出し切れたと自分で思えたのなら悪い結果になろうとも後悔することはない。
 もう気持ちは9月1日に向いている。振り返る暇もないが、振り返る必要もない。
「君の長所は?」
「明るいところです」
「・・・・」
「じゃあ、短所は?」
「短絡的なところです」
「・・・短絡的っていうのは教員に向いていないんじゃない?」
「短所の一つを取り出して教員に向いていないと判断することは非常に短絡的だと思います。その論理に気づいていない、あなたの様な大人にならないよう、自分自身短所を自覚して、子どもにとって価値のある教師になるよう自己修養していこうと思います」
 一人、寿司屋のカウンターに座りヱビスビールを注文した。喉の渇きを潤し、そして旅の疲れを癒す。しばらくして握りの盛り合わせを頼んで腹を満たした。ふらりと店を出て宿に帰りつつも、どうしても行きたい場所、行かなければならないと感じている場所へと足を運んだ。陽は落ち、辺りには暗闇が浸りつつあるが、街のネオンがそれに抵抗していた。
 珈琲屋だ。店にはいると今日も客がいない。マスターはエアコンの具合を一人、背伸びをして調整していた。「いらっしゃいませ」静かに、そして慇懃な声が店内に響いた。僕は店の奥の端っこの席に座りつつ珈琲のストロングを注文した。今日もひっそりとクラシックがかかっている。何の曲だかわからないが、心地の良いバイオリンの旋律がこの空間の静けさを引き立てていた。
 店にある三つの窓からは店の前の道路を通る車が見える。タイヤとアスファルトが擦れるシャーッと言う音が聞こえてくるがまるで別世界の出来事のようだ。
 客のいない店内で一点を見つめ思想に耽る。何も物音を立てなくても僕の存在を肯定してくれているような、そんな沈黙が心地よい。マスターが珈琲を持ってきた。珈琲カップを丁寧にテーブルに出してくれた。全く音も立てずに。
 どれだけじっとしていただろうか。ふと店にある振り子時計に目をやるとゆっくりと左右に振れている振り子の上で時計の針は、僕が来たときから1時間を経過していた。この時間と空間の中で、僕のテンションは落ち着き、緩まず張らずのバランスを得た。会計するとき、マスターと一言二言、言葉を交わし店を出た。「やっぱり、ここは来なくちゃいけない所だ・・・」僕はゆっくりと歩いて宿へと帰っていった。
 住めば都とはよく言うが、本当にそう思う。その土地や環境が好きになることはもちろん、僕にとって何よりも惹かれるのは「人」である。その繋がりに安心感と居心地の良さを感じることによってそこにいつまでもいたくなるのだ。
 たぶん人がいる所へ行けば、どこでもそんな繋がりを作ることができれば、またそこが都となるのだろう。そこが安住の地へと変わっていくのだ。別にそれはそれでいいと思う。僕にとってそれは「日本」である。
 家で声を出して歌うのが恥ずかしいので、僕の歌の練習場はもっぱら車を運転しながらということになっている。歌い方も「喉」で歌うのではなく、もっと響きをもたせた声でおでこに響かせながら歌うので一人じゃないとどうも恥ずかしくて・・・。
 が、実際にはなかなかイイ声はでない。何回も何回も試運転をしてようやく「これかなぁ??」という段階までいくだけである。それも毎回。だから実際の実技試験の当日には早起きしてホテルで発声練習を十分にしてから望もうと思っているのである。
 まがりなりにも形にはなってきたので音楽の実技試験に対する不安は取り除かれた。でも、他の試験が不安にはなってくるんだけどね。こりゃ腹括らないとキリがないですね(笑)一年間いろいろ心に脳にため込んできたので、ある程度の自信を持ちつつも謙虚な気持ちで臨もうと思っている。やってきたからこそ「自分は何も知らない」ということを思い知らされ、不安になるスパイラルへと・・・。そんなのも楽しいんですけどね(笑)
 最近考えるのが「通勤用の車を買わないとなぁ」ってこと。しかし実際問題としてお金がないので買うことはできないのだが(笑)いろいろな車を物色している。
 いろいろな種類の車が販売されているのだが、どれも似たり寄ったりな型をしていてあまり僕の気持ちを揺さぶるような車はない。その時代にウケる形というのがあり、それが今の時代はトヨタのヴィッツであったり、ホンダのフィットであったりするのだろう。この二つの車も素人の僕が見る限り同じ形をしている。魅力的な車にはみえない。
 いろんな車ジャーナリスト達が車を試乗したインプレッションを書いているが、どれも褒めてばっかりでつまらない。まぁ参考にはなるが。
 そんなこんなで考えていると僕が求める車の在り方ってどんなだろう?という疑問が湧いてきた。おぼろげながらある。でも「これっ!」っていう形はつかめない。一つだけ確実に言えるのは僕は車に「速さ」は求めていないということだけかもしれない。だから軽自動車でいいのだが、これまた、あまりイイ形がないように思うのである。なんかないかなぁ・・・。
 人智を超えた創造物に対しては
 無条件に平伏す感情
 到底手の届かない何者かによって
 形作られた造形
 なぜそうしたのか
 そうで在らねばならぬ理由は
 人はそれを求めてやまぬから
 人がそれを求めてやまぬから
 かといって、それが存在しなくもない
 僕は音楽の心得がまったくない。ピアノなんて弾けないし、楽譜なんて読めない。来週の試験ではピアノで伴奏しつつ「ふじ山」を歌う。ソプラノリコーダーでコンバース作曲の「星の世界」を吹く。さらにエルガーの「威風堂々」の一番を指揮する。絶望的な気分に陥ってしまう。
 しかし一週間前、音楽家の友人と珈琲を飲んでいた時、その話になってピアノを見てもらえることになった。その日の夜、レッスンを受けた。恥ずかしいくらいの初歩の初歩から教えてもらった。そしてそのレッスンに感動した。めちゃくちゃ楽しいのである。できない。確かに僕は音楽の「お」の字も出来ていなかった。でも音楽を目指そうとして取り組む、そのレッスンが楽しくてしかたがなかった。そしてピアノとソプラノリコーダーの練習の仕方を示してもらったのだ。その通りに進めば大丈夫という希望と自信が生まれていた。一気に谷から空に駆け上がった気分だった。
 そして一週間後の今日、練習の成果をみてもらった。自分なりにしっかり練習し、ピアノもソプラノリコーダーも弾けるようにして望んだ。しかし、結果は全否定。「・・・それは音楽じゃない」
 それから音楽のレッスンが始まった。まずは歌。歌えない。「眉間までスッとあげて前に打つ感じ」「欠伸をする時のように」「喉じゃなくおでこで響かせて」すべて出来ない。友人がやってみせてくれた。不思議なことに声が口からじゃなくおでこから出ているのである。ホントに。
 ソプラノリコーダーを吹いた。ミス無く最後まで弾いた。またもや「ダメ」。お手本で吹いてもらった。鳥肌がたった。僕にも「これが音楽だ」ってわかるほどに情景が浮かんでくるような演奏だった。吹けていたと思っていたが全く吹けていなかったということを思い知った。一つ一つの音を見てくれた。
 本当は1時間の約束だったのだが、3時間も見てくれた。何一つ出来るようになったことが無いことが申し訳なかったがとても嬉しかった。そして楽しかった。以前彼に聞いたことがある「レッスンって毎回積み上げていったモノを壊す作業なんだ。自分じゃなかなか壊せないから先生に壊してもらう。そしてそこから積み上げていく。そしてまた次のレッスンで壊してもらう。その繰り返しだね」
 レッスンが終わり、出してもらった蜜柑を食べながら「今、これ練習してるんだ」とベートーベンの「エリーゼのために」をピアノで弾いてくれた。普通の演奏と彼の解釈との両方で弾いてくれたのでよくわかった。彼の演奏に奮え、鳥肌がたった。「・・・すごい」という言葉しか出てこなかった。視覚では捉えることのできないものが観えるのだ。