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行く河の流れ

行く川のながれは絶えずして、しかも本の水にあらず。よどみに浮ぶうたかたは、かつ消えかつ結びて久しくとゞまることなし。

 コンピュータに向かい、キーボードを叩いて文字を書くという行為はきっと新しい人間の思考形式を作っていくという話を聞いた。僕もそうだと思う。
 文字を書くという行為はペンを使い、手を使って行う身体行動の一つであった。手と脳の関係性については密接であるという話はよく聞く。書くことによって作られていた思考形式が、キーボードを叩くということで文字を現す。そこに思考形式の変化は当然とみるからである。
 しかしどのように変わっていくのかは予想できない。しかし確実に変わっていくことだけは分かっている。
 今日は藤谷道夫先生を招いてダンテの『神曲』についての講義である。『神曲』は読みたいと思ったことはあるが、読んだことはなかった。しかし今日、この講義を聴き終わった後の感想として「とても僕個人の力で読めるモノではない」ということを感じた。凄まじく壮大で緻密で、そして限りなく美しく構成されたこの作品はダンテという天才が20年もの歳月を費やして完成させた人類の至宝である。
 藤谷先生は『神曲』の解き方についての話をされた。『神曲』の冒頭、最初の1行。

Nel mezzo del cammin di nostora vita
(人の世の道半ば)

 これを4時間を費やして説明してくれた。なぜ、「道半ば」なのかを。そこには天文学の知識、聖書の知識、数学の知識、哲学の知識、詩に関する知識、さらにその他の知という知すべてを総動員してそしてすべての事柄が織物のように折り重なり関係され、この言葉に収斂されていっていた。この知的に登り詰めていく緊張感はどんな推理小説よりもスリリングで、どんな冒険物語よりもファンタジックであった。圧倒され、そしてこの壮大な詩を描いたダンテに驚異的な人間の限界を観た。
 そしてなぜ「道半ば」なのかが特定されたときの爽快感と言えば、きっと山登りをする人と同じく頂きに立ったときのようなそれであろう。まさに生きていてよかったと思える瞬間であった。
 今、岡山では「バッハの学校」が開催されている。今年で3回目になる今回は「流れよ、わが涙 ールネサンス・バロックの詩と音楽ー」と題して9月7日から9月16日まで講義にコンサートを織り交ぜながら体験的に行われる。
 今朝はその会場からホテルへと楽器を運ぶ作業を手伝いに行った。前日先輩が誘ってくれたのだ。講義は午後からであった。「バロック芸術とマリア像」の講義を2部形式で行われた。1部を丸山桂介先生による『ペルゴレージの「サルヴェ・レジーナ」ー名曲の中のマリア像ー』で2部を大野陽子先生による『サルベ・レジーナの歴史ールネサンス・バロックのマリア信仰ー』であった。
 どちらの講義も興奮の連続で、楽しくって仕方がなかった。ワクワクワクワクしていた。次はどんな話になるんだろう?どんなことと結びつくんだろう?どういう意味があるんだろう?と。こんな勉強をしたいと思った。大学に行けども、このレベルの講義はなかなか巡り会うことはできない。
 この講義の後は、岡山のオリエント美術館を貸し切っての「バロック・コンサート」であった。石造りの建築の中で響くカウンター・テナーの声に教会での響きを観るという試み。綺麗だった。
 先輩と倉敷で飲んだ。「いいバーがあるんだ」と誘われ、仕事が終わってから駅で補導活動を終え、待ち合わせの場所に向かった。お互い夕飯を食べていなかったのでみそかつを食べてからそのバーへ行った。そこは個人のおじさんが経営する小さなバー。大きい扉で路地の裏の方にあり人の紹介じゃないと入れないようなところだ。が、入ってみるととてもあたたかい雰囲気の楽しい居酒屋のようなお店だった。マスターの人柄がそうさせるのだろうか。店の雰囲気とはかけ離れたお客さんの会話。最近先輩がハマり気味のウィスキーを頂いた。マッカランや山崎など4杯くらいをロックで頂いた。とても良い気分になり、体はフワフワしているのだが、意識はビシィっとしている不思議な感覚。これがウィスキーで酔うということなのか?家に帰るとお風呂も入らず、ベッドに倒れ込んで眠り込んでいった。
 運動会ではクラス対抗のリレーがある。負けたくない。子どもたちにも勝たせてやりたい。そう思い、前日から子どもの50m走のタイムを参考にチーム分けに頭を悩ませた。そして今日、リレーの練習があった。
 クラスを3チームに分けて、3レースある。練習とはいえ、その3レース中2レースで1位を取った。「よしっ!これなら本番もいけるかも!?」と自信を持ち、あとは勝てなかった1チームにも1位を取れるように作戦を練るだけだ。
 子どもたちが得る成功体験はとても大きいモノだと考える。僕自身も負けたくない。
 よりによって今日は天気予報が当たらなくてもいいのに・・・。大雨の中、子どもたちと一緒に社会科見学へ行った。場所は消防署。皆、びしょ濡れになりながらも1時間傘を差して歩いていった。
 見学自体はとても興味深く面白かった。大人になってからはなかなか見学する機会もないところに堂々と訪問できるのはとても楽しい経験だ。また子どもの時とは違った見方もできる。僕が以前に行っていた仕事も、こういう訪問に対するプログラムを実施していたので、これまた他の人とは別の角度から見ることができるというオプション付き。
 帰りも大雨の中、開き直って歩いていると駅にさしかかった時に号外が配られていた。子どもの手前受け取らなかったが、子どもの一人が受け取って、「これ!」って渡してくれた。新聞のタイトルは「紀子さま男子ご出産」感慨深かった。ここで知ることになるとは。学校に帰ってから教室の黒板にこの号外を張っておいた。子どもたちは「そんなにめでたいの?」という子もいた。「めでたいよ」僕は当然のように答えた。男の子か、日本に神風が吹いた。
 考えねばと思ったときに、自分に選択肢が出来ていることに歓びを感じた。帰るべき場所があった。プラトンであり『論語』であり『武士道』であり、いままで僕が触れてきた、先人達が考えたこと。人類の包み込むようなあたたかさを感じた。
 モノを考えることをしていないように思う。目の前にあることに奔走し、生きていない。僕にとって生きることは考えること、自分の命について、役割について、生まれてきた意義について、どう死ぬかについて。生きねば息を続ける意味がない。
 明日から学校で使う文具や教室の準備をする小物を買いに出かけた。教室をイメージするがこれでいいのかわからないままである。突然、海原に放り投げられたようでコンパスもなく僕はどう進んで行ったらいいのだろう。僕は何を目当てに進んでいくべきなんだろう。ここは自分で考えるべきところでは無いような気がするが、日常の処理に追われ、考えられていない。考えねば。何をどうするか?
 疲労困憊。昨日の疲れが朝の目覚めと妨げる。このままでいいと思い、また夢へと帰っていく。そしてまた目覚める。その繰り返し。
 お昼、友人から連絡があり岡山にいるとのこと。ちょうど僕も眼鏡を物色しに街に出ようと思っていたので丁度良い。夕方から軽く飲んで家へと帰った。疲れてビールを飲むことを思い出した。