先日の展示会で様々な未来を見ました。

昨年度に実施された日経の調査の中で、
「会社における知的労働(管理職含む)の一部はAIが代替するほうがよい」という回答を会社経営者の約6割が行ったというデータがありました。

現在も話題となっているように10年以内に人の仕事がなくなる分野も発表されていますが、その順は

①マニュアルがあれば行える単純作業
 ↓
②受付業務などの第一次対応、オペレータ
 ↓
③技術を必要とする仕事(ネイリストなど)
 ↓ 
④管理職・弁護士などのジャッジ

他にもありますが、知能や知識、技能を必要とする分野も機械化でまかなうことが可能です。

今回の展示で既に①、②は実用化し企業へ導入済
③、④は実証実験段階で既に現物が存在している
という状況でした。

「人の仕事を取る」ということではなく、人と寄り添う事や人に危険を及ぼす部分を代わるという発想のものが主でした。

また、現在一番の課題とされている「モラル」ですがAIは予め大量のデータを蓄積し、学習をしながら判断を行っています。
先日も記載したとおり最終的に人の判断は入らなくなるので最適な判断ができることになります。

今現在〜確立するまでの期間をどうするかということが現在議論をされています。
ビッグデータでは人が書き込んだ事全てがモラルの範囲なのか、反モラル的意見も含めてどこまでを「モラル」とするのか線引きの判断はまだ人が介在する必要があります。

個体差、国の差、宗教の違いなど、人の考え方も千差万別なのです。
モラルも結局は人の解釈。
だからどこが主導権を握るかで大きな差が出る為水面下で激しい国同士の競争が繰り広げられています。

分かりやすい例で言えば車の「自動運転」。
運転時の判断は運転者本人の判断によるものでそれがAIへ変わったときに人が抱く不信感の原因は「人であるかどうか」というところが大きいのではないかと思います。

洪水予想や雨雲レーダーなどはスパコンとAIがなければ実現はしません。ネットの検索も既にAIが担っています。
ロボットという見える形ではないものが、静かに私達の身の回りを大きく変化させている=既に浸透していることに気づくことです。

まず人が「未来を受け入れる」。やはりこれが一番の大切な出発点だと感じています。

未来を拒絶していては何も生まないどころか、それがデータとなりモラルの成立まで時間がかかります。
少しでもこうして伝えることで聞きなれる、見慣れる、そして「前向きに受け止める」ことができるように・・
先日最先端テクノロジーの展示会へ行きました。
既に企業へ導入されているもの、実証実験の段階
それぞれ現物を見ていよいよ本格始動だなと実感(^^

クラウド、IoT、ビッグデータ、人工知能・・
それぞれを融合させたアイディアが満載でした。
私のブログのテーマですので、少しづつ公開できる範囲を
記事にしていきたいと思います。
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ところでその時に講演をいくつか聴きましたが、中でも
とても興味深い内容がありました。
元オリンピック選手で、今は指導にあたる方のお話です。
テーマは「チームワーク」。

今回のリレーは日本のバトンの正確さが勝利の要因だということを
皆さんもよくご存知だと思います。
そして「アンダーハンドパス」という方法そのものが勝因
と報じられていますが、その方は「その方法が成功すること」
の難しさ、苦労について話されていました。

次回大会では、海外もこの方法を真似する国が出てくるが
日本以外の国は成功の確立はかなり低いだろうと・・

その理由がよく分かる画像があります。アメリカのバトンパスの様子・・
なにか不自然なところがあります。分かりますか?
(今回言葉での説明が難しいので、写真をお借りしました)
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リオでアメリカの選手がバトンを落とした場面ですが
手の出し方でも、視線や表情でもありません。



答えは「ゼッケンが手書き」だということ^^;


オリンピックでは、4年に1度の試合のために勿論全員が
練習を重ねるわけですが、リレーだけは団体競技の中でも
「心」が通じていなければかなり厳しい試合になる競技です。

アメリカでは個々の能力が高いため、それぞれにスポンサー
がつき、別々のコーチがいます。個人主義思考であることや
国土の広さなどから長期間一緒に練習をする時間がないそう。


日本の場合は選抜選手の中から走者を決め、いち早く順を
決めて丁寧に練習を重ねます。本番前のバトン練習をしていたような
ことを繰り返し何年も練習を行いながら、寝起きを共にする事で心の一体感
が生まれます。(万が一の交代選手も同様に練習します)

そうする事で「あの人に必ずバトンを託さなければ」という
強い責任が生まれ、受ける側もその気持ちを汲んで信頼関係
ができていきます。


そしてもう1つは「適材適所」です。第一走者〜アンカー
は全く役割も、心構えも異なります。その走者に向いている
人が必ずいるのです。

例えば足のピッチが長く、タイムの早いケンブリッジ選手の
ような人は全力でカーブを曲がり切ることができません。
対して、桐生選手は比較的小幅でスピードを出せる選手なので
第三走者の役割をきちんと果たせたのです。


話をアメリカに戻しますが、アメリカ選手の場合はスポンサー
などが商品の宣伝として「アンカーを走らせたい」などの
適材適所を配慮しない配置となっているようです。
加えて事前の練習がかなり少ない為、個々で走りきる能力までは
練習できても、肝心のバトンを渡す「心」まで間に合いません。

その様な複雑な背景があり、自国のゼッケンの準備も忘れて
入り口のチェックポイントで「手書き」をさせられる事に
なったのです。女子も同様にゼッケンは手書きでした。結果的に
男女ともバトンを落とすことになってしまいました。

ただバトンを落としただけ、一瞬の事ですがその背景は複雑で
長期的な要因がいくつも重なり「起きるべくして起きた」
出来事であったということがこのお話でよく分かります。


一時間ほどの講話はとても引き込まれるものでした。
そしてこの話はスポーツの世界だけではなく、会社、家族など
全てのことに共通するのだと改めて思いました。

最新テクノロジーの展示会の中で、講演の約半分が人との
繋がりなどをテーマとするものでした。

その話を聞き、やはり人の心までを置いてはいけない。
それは機械のせいではなく個々の思いであるということを
改めて再認識し心洗われる思いでした。
祖母が亡くなり四七日の頃に差し掛かっています。
基本的に興味はありませんでしたが、祖母のことをきっかけに
家の宗派について初めて考える機会になりました。

前回の「自由」という記事とも広くは通じると思っていますが、
人として楽しさを慈しみ、苦しみという課題から目をそらさずに
生き抜くことであり、禅でも仏様にすがるとしても自身を放棄する
ことはできません。人も格の低いものであり、悟りを開く(気づく)
まで、人であるとは限らず生まれ代わると考えられています。

逃げたとしても克服するまで同じ課題が来続けるという解釈ですね。
ここに哲学っぽい話を入れると内容が複雑になるので前回記事も
入口までの話にしていますが、どちらにしても私は不可思議なものは
(見えないもの)存在しないと考えています。
現象があったとしても個人の思いが視聴覚的に再現されたもので、
他人は自分と同じものを同じように見ることができませんから・・。

考えを否定しているのではなく、多くの人が共感するものは生きる
目標として必要だと思うので、その意味で私も受け入れています。
長い期間をかけて仏教などの考えが推奨され続けてきたということは
歴史を繋ぐ上で理解しやすい「お手本」だったからだと思うからです。

その手段だけにハマると本来目的を見失います。思いを馳せる事で
心に波風を立てず、個人が生き方を見出すのにはよいと思うのです。
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日本の古い仏教は「悟りを開く」方法がざっくり2つに分かれます。
釈迦(目標)に全権を委ね、全てに従いながら悟りを開く方法と
自分の力で修行を重ねて悟りを開く(=涅槃:ニルヴァーナ)
わが家は後者のほうにあたるようです。
(いずれも、最終的な到達地点は同じはずなのですけれど・・)

具体的に書きませんが後者は「禅宗」の中の1つだそうです。
祖母は生前、何百回忌と言う法要を行っていましたので
その宗派に属してから同じくらい長い年月がたっていますし
多分私の生き方の一部にもその思想は存在していると思います。

この宗派を開祖した僧侶は「禅によって悟りを開く」ことと
「日々の生活を丁寧に行う事が修行」という2つの考え方で
広めていきました。本来は経典も必要はなかったようです。
(教え自体がない為)
弟子に言葉で教えることはなく、ただ生活を共にし禅を続けながら
各自が自分自身で気づく(悟る)事を目指している宗派です。

そう思うと、日々の生活を黙々とこなしていた祖母の姿は生活を
通じ無意識の中で修行を行っているようにも感じます。
体調や環境のなどでも日々同じ生活を続けるということは相当の
努力が必要だったと思いますが、愚痴ひとつ言わず休む姿も見る
ことはなく、思い返すと改めて凄いことだったのだなと・・
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一般的には仏教の場合、亡くなってからの告別式や納骨となる
四十九日(七七日)までの期間はほぼ共通です。
基本は「釈迦」をベースとして各宗派の考え方が広まっているので
あとはそれぞれの解釈の違いになるのだと思います。

わが家の宗派の場合は生まれ変わり(再生)の思想はありません。
輪廻転生の考え方は海外の宗教には多くありますが、この宗派は
生きている間もしくは死後に釈迦の弟子となり、修行を積み重ねて
釈迦の元までたどり着くのだそう。
人生は一度きり、やり直しはできないという気持ちで生きる・・
ということなのでしょうね。

祖母を白装束に草鞋を履いた格好に着替えさせ、通夜の際には
髪を剃る(実際にはしません)剃髪儀式を行い、水を葉で撒き体を清め
刀を授け、「血脈」というお札を渡し釈迦の弟子と認められて
火葬の際一緒に焚上げます。

その後、告別式以降経典を毎日読み続け四十九日をかけて
修行を行い釈迦の元まで行く為の「成仏」仏様になるのが宗派の
考え方だそうです。


私は今回その話を知る前に、祖母と目に見える形で最後のお別れする
という思いで私一人で眠っている祖母の前で寝ずに2日間過ごしました。
叔父や叔母は最後の数日間はほとんど不眠不休だったそうで、少しでも
寝て欲しいという気持ちもあったのですが・・。


現代は線香も渦巻き式になっていて12時間消えずにもつものがあり
蝋燭は24時間もつものでした。通夜の時でさえ眠ることは可能ですが
「線香を四十九日の間は24時間たやさない」ことが本来の送り方だと
言っておられました。

「喪に服す」中でも「忌中」は特に色々な制約があります。
それは単に決め事でなく、49日かけて親族が集まり色々な話を
しながら亡くなった人に寄り添い続け成仏の日まで見送ってあげる
(=残された人の気持ちも納得)ことが本当の目的ではと思います。

今は皆仕事もし、それぞれが所帯を別に持ち生活を抱えています。
昔のように大所帯ではない為、その様な行事は簡素化されています。

祖母の七七日は9月20日なりますが、毎日祖母の生き方を思い出し、
日々できることは毎日祖母へ応援するための経典を読み上げる位なのですが・・
離れていても、せめてその様な思いをもち続けて生活をすることが
感謝をしてもしきれない祖母への自分なりの供養だと思っています。
慌しく出張から帰ってきました。
どちらかと言うと、休日よりも平日のほうが座席が埋まって
います。平日の朝は皆寝ているので車内は静か^^
私も普段は音楽を聴きながら爆睡していることが多いです。

混雑は夜のほうが特に酷いですね。ホームから人が溢れそうな
位集中しています。娯楽で移動と言うよりは仕事での利用が
多いからかもしれませんね。
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講師に行くとほぼ100%の確立で小学校は制服ではなく
私服の学校が増えました。ランドセルではなくリュック。

姪っ子達も同様で、先日の告別式の際は入学式のときに
買った大きめだった黒のスーツが今は3年生なので、サイズは
OKだったけれど袖も裾もかなり短め・・次は難しそう。
私服通学は結果的にお金もかからず楽で良いそうです。


私の場合はまだ制服の年代で確かブレザーでしたが、
中学校のお姉さんがセーラー服であこがれていました。
(結局転校先もブレザーでしたT_T)

私は元々人と同じというのがどうも嫌いで、何かしら
改造したりwwしていましたし、歌にもあるように全員が
同じに扱われる=支配というイメージが強かったからかも
しれません。

とは言いつつ、制服を嫌がっていた子達は卒業して制服が
無くなったにも関わらず友達の服を真似したり、おそろい
にしたがる子もいました。それがとても不思議でした。


ところで「お金の心配は一切要らないから、明日から一人で
永遠(無期限)に自由にしていいよ」と言われたら何をしますか?
はじめは嬉しいかもしれませんし、もしかしたら何をすれば
よいかと戸惑う人もいるかもしれません。

本来は制約があるから「自由」を感じられるのです。
条件の中であれこれ工夫する事が今の自由という感覚です。
それまでの生活習慣などが大きく影響していると思います。

自由な発想をする習慣のない人は、周りを見てとりあえず最善の
方法を選択することで落ち着くでしょう。
何も無いところから発想ができる人は、まず自分でテーマや条件
を決めていき、それに沿って何かを作り上げていくのです。

どちらにしても、今の概念では本当の意味での自由という環境
ではありません。大きく言えば必ず寿命が来るという制約の中で
生きているわけです。

お休みが楽しいのもキツイ仕事があるからこそ感じれるのかも
しれません。制約・不自由があってこそ自由が生きてくるのです。


技術的特異点が来る頃には、お金という制約は少し残るかもしれませんが
治せない病気はなくなっているでしょう。永遠の命を手にする可能性も
十分にあります。エネルギーも消費する必要のない車や家電や家であれば
地球環境を壊すこともなくなります。
食事も美味しいものを全て完全な状態の養殖技術が完成すれば種を減らす
こともなくなり、且つ地球全体でバランスを保ちづつけることができます。

そうなれば仕事も必要なくなり、最終的にはお金もなくなります。
そんな世の中になったとき、これまでとは全く違う概念での「自由」
な時間がやってきます。本当の意味での永遠の自由が来るのです。


そのとき、何をしたいでしょうか?
一切の制約も心配もなく全てを自由に生きてゆくことができます。
但しそれは、他人の自由も奪うことができないということなのです。


そう考えると今は生きる喜びを実感できる最後の時代なのかもしれません。
花は散り、枯れていくからこそ咲き誇った瞬間が美しいと感じるのです。

少なくとも私の世代はその変革をギリギリ見届けることができるかも
しれません。まだ今の段階ではなんともいえない状態ですけれど・・
しばらくはゆっくり更新になります。明日から出張・・
昨日下書きの状態で間違ってあげてしまいました^^;
イイネをしてくださった方すみませんでした><


先日、とある映画のエキストラに応募し(副業禁止なので
ボランティアです^^;)出られることになりました。
エキストラも出る機会は比較的あるのですが、実際に「映る」
という事に到達するのはとても難しいことです。

今回の場合は映画でしたが、エキストラが約100人ほど居る中で
メインで画面に入る5人まで私は残ったのですが、直前で間引かれて
しまい本番で残ったのは2人。画面に入ることはできませんでした。

これはよくある話で、映ったとしても遠すぎて誰か認識もできない
こともあれば実際に撮ったとしてもカットされる場合もあります。

今回は、メディアの業界を離れて長かったこともありましたし
ずっと撮る側の立場でしたので、今回は撮られる側で現場を見たい
というのが主目的でした。
ですので、映らなくても概ね目的は達成したということで^^;

監督は名前を聞けば知っている方は多いと思います。通常の生活を
していたら会う機会はないでしょう。
主演は海外のトップスターだったそうですが、残念ながら私は
誰かよく知らず・・。確かに見栄えのある整った容姿の人でした。

私はカメラの側に立っていたこともあり、間引かれたあと何故か監督と
一緒にモニターチェックするという別の意味で貴重な体験になりました。


猛暑で炎天下の中、待機は数時間で撮影数分と言うわずかなチャンスで
OKが出たわけですが、撮影クルーと主演の俳優はじめ演者も多数居た
状態で助監督が指揮をとりながら準備を行いあとはカメラを回すだけ・・
というところで監督がやってきました。
(ご高齢なので炎天下で居続けることができなかったかもですが・・)

そして最後モニターチェックをして人を間引いたりする程度で
演者には話しかけないまま本番が始まり撮影が終わりました。
何か、その全体の雰囲気にとても違和感を感じました。

今回の撮影はスタッフや演者が無言・・。セット撮影ではなく自然な
状況下ですが誰も何も言わず、終始静かに事が行われていました。

けれど決してスムーズだったわけではなく、撮影自体は当初の予定から
大幅に遅れていました。問題もなくうまく行っているのとはまた少し
違う・・事前や別の場所で打合せをしているわけでもなく、そのような
場所もない現場です。

見ている限り各役割のコミュニケーションは図られない事はうまく
進んでいない原因のひとつのようでしたが、それを誰も埋めようと
しない様子に、私が持っていた感覚とのギャップを感じました。

私がいたころは時間がかかっても監督も演者もスタッフも、それぞれ
の立場で考え時には衝突もあったりしたわけです。それは立場などを
を超えた作品そのものを手がけるという目標です。


知人ともこの話をしましたが、メディア嫌いなので良いものを作るのが
本当の目的なら公開する必要はない。名声と金儲けが目的と言ってます^^;
そういう人が多いのもまた現実なので。

そうでない人もいますし、実際私は作り手側でしたが金儲けどころか
普通の会社で働くほうがよっぽど給料も良く生活も安定しています。
するのは仕事が「好き」という気持ちがないと続かない位過酷です。

少なくとも作り手の作品は世に出すわけで、何故出すかといえば
反応が見たいというのは素直な気持ちではないのでしょうか。

折角競争を勝ち抜き、チャンスを自分の力でつかんだところまでは
よいのですが、そこからが本当の始まり。その時の気持ちをなくさず
一生かけてそれを追求するから魅力のある映像になるのではと思います。


今回の撮影は待機をしながらほぼ1日見ていたのですが、気迫というか
思い入れというか・・そんな雰囲気はあまり感じられませんでした。
といっても切取った一日なので全てを見たわけではありませんが・・

ですが、あの状況での印象のない撮影だったものは、その後編集や
CGが加えられて上映時には全く異なる印象になるのでしょうか。
それとも、現場で感じたままなのかもしれません。いずれにしても
答えが分かるのは撮影が続いていますのでまだ先になりそうです。

それを見届けたいという気持ちもありますが、見る気持ちは萎えた
と言うのも正直なところです。


ここ最近TVなどもココロに響くものがなくなってしまいました。
臨場感が必要な番組まで、切り貼り前提での長時間の収録。
都合の悪いところは編集でカット。生放送でもなく一度きり、失敗が
できないという緊張感はやはり感じません。

TVや映画での映像からから流れる作品が人々の心を揺さぶり、
楽しませるという本来のエンターテイメント性が失われているように
感じます。私が時代遅れなのかもしれませんけれど・・。

気がつけば近年は、舞台やライブばかり観に行っていますね・・(^^;;

オリンピックでは勝負は一度きりだと選手達は自覚をしています。
失敗したら終わり、やり直しはありません。その為に人生をかけて
人並み外れた努力を惜しまず、たった1回の勝負に望む。
その過程があるから、見ている私達も心打たれるのだと思います。

メディアに限らず、どの仕事でもこの姿勢は同じだと思うのです。

ブログも同じで、書くことそのものは自己満足ですし公開する必要は
ないのでしょう。でもそこに書き手が何か求めている思いがあれば
集まってくる層も変化するのだと。

一期一会。今日はもう二度とやってこない。そんな気持ちで日々生きる
人の為に、できる限り時間を費やしたいと改めて思う出来事でした。