伊藤修二 「黄昏シンドバッド」

伊藤修二 「黄昏シンドバッド」

 ・・・仙台市在住。東北大学経済学部卒業 放送作家(日本脚本家連盟会員)  詩集「ひとり荒野」 小説集「明日。」 「セクシードラゴンの夏」などを出版。アマゾンの「伊藤修二」から購入できます。寄せられたコメントは公開していません。フォロワーも求めていません。

   グローブ  


   あの時

  君がまだ小学五年生で 

  行商を営む母親と二人暮らしだった時

  あまりにも貧しくて

  二人で農家の粗末な物置に住んでいた時

 

  友だちと群れることもなく

  母親と二人で

  大量の豆腐と油揚げを背負いながら

  十キロあまりの山道を歩いて

  行商に廻っていた時

  あの時も

  君の投げるボールは速かった

 

  君が時々

  ボクの家にご飯を食べに来た時

  君の母親が顔を輝かせながら

  君が百三十キロのボールを投げて

  隣町の野球チームに誘われたのと

  言った時

 

  でも

  グローブもないし

  ユニフォームも買ってやれないと

  君の母親の表情が一瞬、曇った時

 

  ボクの母親が

  そんなの何とでもなるわよと言って

  ボクのグローブを君にあげ

  選挙が近かった町議会議員から

  ユニフォーム代をせしめ取った時

  ボクたち四人は大きく笑ったよね


  大人のチームも

  君のボールは打てなくなり

  将来はプロ野球選手になれると

  地元の小さな新聞に書かれた時

 

  働き過ぎで

  君の母親が倒れ

  君がその日を境に野球をやめた時

 

  その半年後

  君たち二人が突然、町から姿を消し

  ボクの家の玄関に

  君にあげたグローブが

  風呂敷に包まれて

  そっと置かれていた時

  ボクは涙が止まらなかった

 

  あの時からしばらくして

  君は

  日本のプロ野球を代表する

  ピッチャーになり

  今、ボクの目の前で投げている時

  ボクは

  古いグローブを入れたリュックを

  膝で抱えながら

  また涙が止まらなかった

 

  あの時・・・

  お金より大切なモノがあった

  「あの時」は

  あなたにもあるよね

 

 詩集「ひとり荒野」より。Amazonで購入できます。

 

 

リン酸塩がたっぷり添加されたハムやソーセージは

あまり食べないようにしている。

手作りハムの一番の手間は燻蒸。

それが面倒で

市販の添加物まみれのハムやソーセージを利用している人も多いだろう。

 

しかし、燻蒸作業をカットすれば簡単にハムが作れる。

写真の鶏の味噌ハムがそう。

鶏のむね肉を、

味噌、てんさい糖、日本酒、みりん、セージ、胡椒などの調味液に四日間、漬けこみ、

250度のオーブンで10分、150度で15分焼いただけで、

おいしいおしい鶏の味噌ハム、味噌ソーセージができる。

調味液に南蛮をドバっと入れれば辛味ハムになる。

これは、日本酒のアテには最高である。

 

 

 

   

   天空の旅人

 この世の中に存在するものに永久不変なものはない。 例えば、きょうのあなたがいくら貧しくとも、 明日のあなたが再び貧しいわけではない。 永遠に変わらないのは、 私たちの命に限りがあるということだけである。 私たちのこの命が一度、尽きてしまうと、 もう永遠に復活することはない。 その恐怖から逃れるために、さまざまな宗教が生まれた。 すべてを神に委ねれば救われると説く宗教もある。 念仏さえ唱えていれば、黄泉の世界で生きられると諭す宗教もある。 一人瞑想し、自らを仏の境地に高めようとする宗教もある。 あるいは、特定宗教団体に多額の献金をすれば 極楽浄土に行けると言い放つ宗教もある。

 

  しかし、そんなたわいのないことは、きょうの問題ではない。 私たちの命には限りがあると正しく認識することで 逆に、あなたは力強く生きられるのである。 権力や財力に執着した者も、 それらを一切持たざる者も、 愛におぼれた者も、 愛することさえ躊躇した者も、 死ぬ時は、たったひとり。 だから、どうだろう。 私たちが永遠に命を絶つ運命にあるのなら、 この際、すべての緊縛から逃れて生きてみようではないか。カビの生えた常識や世間のしがらみ、この古い社会が強いて来る「同調圧力」など、すべてから自由になって生きてみようではないか。

 

 私たちの命は永遠ではない。 その死は明日にも訪れるかもしれない。 しかし誰もが体験したことのない、 あの見知らぬ星々の先にはかすかな希望があるかもしれない。 到達するのにさえ、光の速さで何十億年もかかるという 天空のかなたこそ、すでに神の領域なのかもしれない。

  だから、 私たちはこの地上での命が永遠に絶たれてしまっても、 「天空の旅人」として あの「神の領域」を永遠に旅することができるのだ。 すべての宗教的支配から逃れられた時、 初めて、わたしたちの「旅」が始まるのだろう。 

 

 

 

どうでもいい話①  

パチンコ大学 

 

  あなたにとってはどうでもいい話を書く。それも昔の話だ。仙台市に「パチンコ大学」というユニークなパチンコ店があった。大学生のころ、わたしはそこでもアルバイトをしていた。ホール係ではなく三階にある小さな部屋で、店に寄せられた川柳や俳句をまとめて一冊の本に編集することだった。パチンコと川柳がどういう関係があるのか不審がる人も多いだろう。実際、東北大学学生課でアルバイト募集の張り紙を見た当時の私もそうだった。面接に行って、とんでもないパチンコ屋だとわかった。

 まず、店内でディスクジョッキーが行われていたのである。

   「いらっしゃいませ、いらっしゃいませ。毎度おなじみ、支配人の大場でございます。みなさま、お台の調子はいかがでしょうか。勝っても負けても楽しいパチンコ。勝っている人はすべてみなさまの実力のたまもの。負けている人はすべてわたしのせいでございます。しかし、パチンコに負けても人生には負けていないみなさま。これからも楽しくご遊戯くださいませ」。ここで、すでにパチンコ客からは万雷の拍手が起きている。

   「早速、午後三時の入選作をご紹介しましょう。将監団地にお住いの佐々木源太郎さんの作品。すっからかん バス代欲しい 川柳詠む。さあ、いい作品だと思う人は拍手してくださいね」 この大場さんのアナウンスにまたまた、大きな拍手。

 佐々木源太郎さんには大甘釘のオオバキュー台があてがわれ、バケツ一杯のパチンコ玉を獲得することにあいなった。佐々木さんは、これを換金して無事、バスに乗って帰宅したことだろう。このオオバキュー台こそ、大場さんが初めて仙台に持ち込んだ「フィーバーパチンコ台」であった。誰が遊戯しても出玉が良かった。川柳としては、他に「かあちゃん、鯖缶取った 今帰る」とか「パチンコや 隣の客は きれいな人」とか他愛のないものが多かった。でも、パチンコ店内の雰囲気を盛り上げる効果は絶大であった。

   大場さんの話で一番、面白かったことも書いておく。

   「パチンコでお楽しみのところ、まことにお邪魔様ですが、先日、聞いた面白い話をご紹介しましょう。これは四郎丸にお住いの、あるママさんバレーの選手、一応A子さんとしましょう。そのA子さんの週一回の練習の帰りのことでございました。なじみのガソリンスタンドに寄ってA子さんが言いました。【満タンでお願いします】 ガソリンスタンドの店員も、【はい、わかりました。奥さん、レギュラーですか】。するとA子さん、恥ずかしそうに【あら、レギュラーなんて、まだ補欠よ。でもいつかはなるわよ、レギュラーに!】 【はい!!了解しました、将来のレギュラー、満タン入ります】という大きな声がガソリンスタンドいっぱいに響き渡りました」  というような話だった。文字にすると面白くないと思うが、大場さんが話すと大うけであった。ちなみに、この話は後年、某落語家がマクラのネタとして使っていた。

 

    こんなに客との良好なコミュニケーションが取れているパチンコ店は、今もどこにも存在しないと思う。アナウンスしていたのは全国のパチンコファンから伝説の釘師と呼ばれていた大場さん。オーナーの吉田さんから高額の給料でスカウトされて、パチンコの本場・名古屋から仙台に移って来た人だ。

    さて、俳句や川柳をまとめて一冊の本にするという私のバイトだが、俳句だけでは紙面が埋まらないということで、パチンコ必勝法も載せることになった。それで、私は伝説の釘師から直接、釘の見方を教わることになる。(平成の風営法改正で釘の調整はメーカー主導になってしまった) 開店前の朝の7時半からおよそ一時間、先端にパチンコ玉がついた玉ゲージと小さなハンマーを持った大場さんのシゴトぶりを三日間、じっくりと見学させてもらった。「天の釘の左端の釘がどの方向を向いているかが第一のポイント」とか「チェッカーに誘導させる釘は直前の2本の釘ではなく、その手前の道釘がポイント」とか、夢中になって覚えた。今はすべてがデジタルのパチンコ台になったが、入賞に導くメインデジタルを回転させ、確変に持って行くには、今も釘は大きなポイントである。とにかく、大場さんにはいろいろなことを学ばせていただいた。つまらない東北大学の教授たちよりも知恵があり、はるかに人間性に優れた人であった。

  わたしが客からの川柳の投稿を整理していると、すべての投稿に住所、氏名があるのがわかったので、大場さんに顧客管理のデータベースづくりを進言したら即、了解してもらった。  この決断力の速さも大場さんの魅力である。今、全国のパチンコ店で顧客管理をして、店のファンクラブまであるところは皆無だろう。ほとんどが身分を明かさないで遊戯しているからだ。しかし、パチンコ大学は違ったのである。下は、大場さんに頼まれて作った「パチンコ大学の暑中見舞い」である。好きなように作っていいと言うので好きなようにコピーを書いた。いきなり、パチンコ店から夫に暑中見舞いのはがきが来て、驚いた主婦も多かったと思うが、その主婦もやがて夫と共にパチンコ大学で楽しく遊戯することになるのである。他の店より、女性客が多いのもパチンコ大学の大きな特長であった。

 

 ある程度のギャンブル性がないとパチンコ店の経営は成り立たないが、パチンコ大学では出玉をお金に換える客が少なかったと思う。店内に、今でいうコンビニのような景品交換所があったからだ。他店の景品交換所には、せいぜいタバコとかガム、チョコレート、缶詰の類ぐらいしかなかったが、パチンコ大学の景品交換所にはさまざまな食料品を中心に、靴下、化粧品、Tシャツ、エプロン、男女の下着、おもちゃ、映画のチケットなど実に多様な景品が置かれていた。景品を納入していた和浩という会社の若い担当者が、「大場さんが、次から次と新しい景品を要求してくるので困る」と嘆いていたのを覚えている。現在のパチンコ店でも、店内に小さなセブンイレブンがあれば、客も還元率が悪い現金ではなく、実利の景品のほうを選択するだろう。そして、そのようなパチンコ店は必ず繁盛する。令和のパチンコ店にもイノベーションが必要なのだ。そして、各コンビニチェーンも、パチンコ店という大きな市場を視野に入れた出店戦略を考えたほうがいい。

 

 パチンコ大学では出玉を現金化もせず、景品にも換えず、店内にあった「福祉の小箱」に寄付する客もたくさんいた。パチンコ大学は、このパチンコ玉の浄財を現金に換え、仙台市内の障がい者施設に寄付していた。これも他店ではありえないことだった。このことは地元のテレビ局にも知られ、大場さんとオーナーの吉田さん、客代表、そして、わたしがテレビ出演することになった。そのテレビ局の名は仙台放送。わたしが内定をもらっていたテレビ局である。なんと、入社する前にテレビ出演してしまったのである。 

 

  さて、パチンコ大学のバイト代はとても良かったが、それよりも嬉しかったのは、オーナーの奥さんが作ってくれる従業員のための食事だった。いつもおいしく、貧しい学生のわたしには宝物のようなごちそうであった。その昼ご飯は、昼前からサブちゃんと一緒に食べた。その後に、ホール係の従業員や和浩のような業者さんたちが交代で食べに来た。

  サブちゃんは、仙台市内のストリップ劇場のサンドイッチマンをしていた人だが、劇場が火事になったので一時、職を失っていた。その新聞記事を読んだ大場さんがパチンコ大学の清掃員としてサブちゃんを雇い入れていた。サブちゃんは足が不自由だったが、とても働き者だった。パチンコ大学の前だけを掃除すればいいのに、店がある名掛丁のすべての通りを掃除した。大場さんが、店の前だけでいいよと言っても、隣の店の前が汚れていれば掃除してしまうし、その隣の店の前も汚れていたら掃除してしまう。結局、通り全体を掃除してしまったと笑いながら弁解した。当時の名掛丁に店を構えていた商店は人情味が厚く時々、掃除してもらったお礼にとサブちゃんに菓子などの差し入れなどがあった。古き良き時代である。サブちゃんは街のヒーローだった。のちに、地元の河北新報の紙面に半年間、コラムを書かせていただいた際に、サブちゃんのことも書いた。わたしにとっても、サブちゃんは偉大なヒーローだった。

 サブちゃんは口数の少ない人だったが、一緒に食事しながら、ぼそぼそとストリップ劇場のおもしろい話をたくさん聞かせてくれた。それは後日、投稿する。

    次回も、あなたにとってはどうでもいい話の続きを投稿する。ストリップ劇場はその後。

 

 

 

どうでもいい話②   

東北大学

 マニュアル群衆

 

   わたしは東北大学経済学部に所属していたことは書いた。しかし、授業にはほとんど出席しなかった。出席したのは語学と数学、金融など経済学の一部の授業ぐらいで、あとは午前中は図書館にこもり、午後は学生課のアルバイト掲示板のチェック、その後は数種類のアルバイトで生活費を稼いでいた。授業料は4年間全額免除で払ったことはなく、日本育英会というところから返す必要のないかなりの額の特別奨学金をもらっていた。しかし、家からの仕送りは断っていたのでアルバイトをしないと暮らしていけなかった。

 

   大学の授業に興味がなくなった理由はある。経済学総論というような授業を大きな階段教室で受けていた時だった。突然、全共闘系の学生数人が教壇に詰め寄り、教授に論争を挑んだ。鉄パイプを手にしているわけでもなく、いたって静かに論争を仕掛けていた。その時の教授は、彼のゼミに入れば、全国ほとんどの銀行に無試験で入れるという人気の教授であった。しかし、教授はうろたえた。声も震え出し「君たち、なぜ授業の邪魔をするのだ、早く出て行きたまえ」と叫び続けた。全共闘系の学生のほうが「先生は、経済学は人々を幸福にできるとお考えですか。それだけお答えください」といたって冷静であった。しかし、教授の興奮と声の震えは止まらない。結局、机の下にある呼び鈴を押して、本部職員たちに助けを求めてしまった。全共闘系の学生たちは、駆け付けた十数人の職員に押し出されるようにして教室の外に出た。

    その直後、この教授は大きな声で叫んだ。「経済学は不滅です」。

 

   アホか。わたしが唯一信頼できた数学の御園生教授なら、「自己完結の学問は、人々を幸福にすることはできない。その可能性はあるということだけだ」みたいなことを全共闘の学生たちに話したことだろう。それに比べて、この経済学部の教授のなんとだらしないことか。以来、わたしは経済学部の授業には全く出ていない。幸いというか、経済学部の授業は出席を取らないし、ゼミにも参加する必要もない。年に一度の試験さえ合格すれば単位がもらえた。それも、たとえば「18世紀のフランスにおける交通経済について2000文字以内で書け」というような大枠の試験問題だけだったから、なんとかなった。わたしは、「旅行好きだったマリー・アントワネットの排便処理事情から、フランス各地に簡易トイレが設置され、それが簡単な食事ができるビストロになり、しだいに人が集約されて街が形成されていった」という嘘八百のことを書いて単位をもらった。もちろん、最低ラインのC評価である。自慢ではないが、わたしの学部の最終成績はすべてC評価である。その後、仙台放送の最終面接で「君の成績表はCCレモンだね」と笑われた。わたしも笑うしかなかったが、なぜか合格した。仙台放送については後日、投稿する。

 

     東北大学には三人の恩人がいた。学生課のアルバイト担当職員と図書館の男性司書、そして川内にあった一番大きな学生食堂のおばさんである。学生課のアルバイト担当職員とはいつのまにか顔なじみになり、いつも割のいいアルバイトを紹介してもらった。ほぼ毎日、顔を出すわたしを待っていたように、新着の求人票を張り出してくれたのだ。大学病院裏の柏木にあった金貸し業の集金もそのひとつだ。夜6時にその普通の民家に行き、まず豪勢な夕食をごちそうになった後、運転手付きの黒のベンツの助手席に乗り、仙台市内の飲食店や美容室などを廻り、貸した金を集金するというアルバイトだった。相手に払う金がない場合でも無理に取り立てることはない。「じゃ、次にお願いします」と言ってベンツに戻るだけの仕事だった。次の日に、その借り手が柏木の親方のところに来て、貸してある金を差し引いた額をまた借りるという契約をしていた。要するに、高利貸しの強制的な契約延長である。かなり金利が高いようだったが、その人は銀行にも相手にされず、アンコウ鍋の食材を仕入れる金は親方を頼るしかなかったのだ。お互いに犯罪すれすれということがわかっていて、金の貸し借りをしていた。大学の紹介とはいえ、危険な香りがしたので早く辞めたかったが、親方に気に入れられて三か月も続けてしまった。東北電力グリーンプラザでの子供絵画教室のバイトをやりながらである。

 

  図書館の中年の司書の人には、毎日のように一日何回も、貴重な古い図書を閉架式から出してもらっていた。授業に出ないわたしには、こここそが学問の場所だった。計量経済など一部の近経の授業をのぞけは、教授の一年間の授業など、彼の売れない本を一日で読めばすべて事足りた。それに、アルバイト代の一部を今で言うハイイールド債のような米国社債に投資していたから、それで生きた経済学が学べた。

  わたしが何とか卒業できた時、その司書さんが言ってくれた。「三十三年間、東北大学図書館に勤めて来たが、これまでであなたが一番、本を借りたと思う。卒業、おめでとう」。わたしは、あまりにも嬉しくて胸にこみ上げてくる熱いものを感じてしまっていた。何度も、借りた本を早く返却せよと張り紙をされたにもかかわらず、返す際、彼は文句ひとつ言わなかった。こういうデラシネな学生でも、陰ながら見ていてくれた人がいたのだ。彼も大恩人である。余計なことかもしれないが、毎年、新入生は教授たちから「参考までに、この本に詳しく書いてある」と自分か書いた本を買わされる。高くて売れない本である。貧しい学生は買わなくていい。東北大学図書館に行けば開架式に5冊ぐらい置いてある。それを借りればいい。授業の中で自分の本を紹介するような教授は最低の教授であると、学習することこそ学問である。

 

    戻る。三番目の恩人は、学生食堂のおばさん。わたしが食堂に行くのは午後2時前と決まっていた。理由は、午後2時になると食堂のショーウインドウにある日替わり定食のメニューが代わるからだ。定番のかつ丼や麺類は蝋や樹脂製の食品サンプルを使っていたが、コロッケ定食とか焼き魚定食とかの日替わり定食は本物である。午後2時の午後のメニューとの入れ替えの時に行けば、おばさんから用済みの午前中の日替わり定食がもらえた。最初は、衛生上、廃棄することになっていると渋っていたが、わたしの貧しさに負けて、上司にわからないようにそっと食べさせてくれた。もちろん、毎日ではない。バイト代が入るようになってからは、堂々と食券を買って食べた。ただし、そのおばさんが食堂の引き渡しカウンターにいる時は、普通盛りのカレーの食券を出しても、いつも皿からあふれんばかりにデカ盛りのカレーをよそってくれた。普通のかけそばも頼んでいないのに天ぷらや油揚げが乗って来た。このおばさんも大恩人である。

 

    もう少し、付け加える。わたしは、入学式も卒業式も出なかった。卒業式の時は、大学側から父兄用の入場券一枚をもらったが、両親二人に自分の卒業式を見せたいが一枚足りないというマザコン学生にいい値で売った。あげてもよかったが、買いたいというので売った。二十歳過ぎの男が卒業式を両親に見せてどうするというのだろうか。

  それから東北大学経済学同窓会の事務局からは、会費を払って入会せよとも言われたが、大学には愛着がないし金がもったいないから断った。そしたら、卒業後20年間にわたって、わたしの職業欄に身に覚えのない「保険外交員」と書かれ続けた。別にいいのだけど、名簿づくりに協力しない卒業生はすべて「保険外交員」にしていると、同じように保険外交員と書かれていた旧友から20年後に聞いた。大学の同窓会とは、そういう組織である。いまは、正しい「放送作家」となっているようだ。同窓生名簿など一度も見たことがないが、そういう話はどこからか流れて来た。大学の同窓会といい、会社のOB会といい、離れてからもつるんでいてどうしょうというのだろう。ここまで書くと、孤立していた学生時代のように思われるかもしれないが、クラス雑誌の編集長もしていたし、5人の気の置けない仲間と放送劇のサークルも作った。学外では、東北学院大の学生や宮城学院のきれいな女子大生とか日赤病院のきれいな看護師さんとか日産自動車のきれいな事務員さんとかと一緒の山登りのサークルに入っていた。

 

   どうでもいい話のブログだから、放送劇サークルについてもう少し書く。わたしは、仙台市の上杉山中学校でも日直のアルバイトをしていた。平日は17時から20時まで、日曜日は10時から20時まで、プロの警備員が巡回に来るまで職員室にいて雑務をこなしていた。主な仕事は電話受けと校内巡回。日曜日にはよく外から電話が来た。「バスケット部の保護者のものですが、これから三人でお菓子を差し入れに行きますので、山岸先生によろしくお伝えください」というような伝言である。わたしは、体育館まで走って行って、山岸先生に「保護者のお母さんたちがお菓子を差し入れに来るそうです」と大声で伝え、大喜びする中学生たちからの大きな拍手と歓声を背中に受けて、職員室に戻るのであった。ちなみに山岸先生は部活にとても熱心な先生で、日曜日も学校に来ていた。

 

   放送劇の話だった。当時の上杉山中学校の校長がかなりの人格者で、大学での放送劇の話をすると、テープレコーダーやレコードなど中学校内の放送機材すべてを自由に使っていいとおっしゃってくれた。そこで、先生も生徒も帰った19時頃から、校長室に仲間を呼び込んで放送劇の録音を始めた。途中、声優が足りなくなったので、巡回に来た顔なじみの警備員にも参加してもらい、「空襲だ、早く逃げろ」のセリフを入れてもらったこともあった。この「硝煙」という名の放送劇は、大学祭ではけっこう評判が良かった。上杉山中学校のおかげである。今でも、前を通ると頭を下げる。

 

    戻る。とにかく、東北大学図書館だけはすばらしかった。一般市民でも利用できる図書館だから、大いに利用したほうがいい。図書館で本を読むのに疲れたら、大学食堂でごはんを食べると不思議なチカラが湧いてくると思う。東北大学は東北大学の学生だけが利用するところではない。かなりの国家予算をつぎ込ん造られた大学だから、一般市民も積極的に施設を利用すればいいと思う。片平キャンパスは市民も散策に訪れているが、川内や青葉山キャンパスでも、例えば小学生たちがワーワーキャーキャー言いながら遊びまくっていたり、高齢者たちグループがキャンパス内を歩きながら俳句を詠んでいたりしていて、それを笑顔で見ている学生がいる光景こそ本当の大学の姿である。

 

    次回のどうでもいい話③は、秋保の高級旅館でのアルバイトの話である。

 

どうでもいい話③ 

秋保の高級旅館  

 

 さて、わたしはふしだらな学生生活を送りながらも、フランス留学を画策していた。大学の授業には出ていないし、就職する気持ちもまったくなかったので、いろいろな人生の選択ができたのだ。留学するには、今まで以上にアルバイトで金を稼がなくてはならない。そこで住み込みで働くようになったのが、秋保有数の高級旅館であった。ここにも大きな恩義がある。

 

  この旅館は、大学のアルバイト係の紹介ではなく、河北新報社の求人広告を見て応募した。フロント係だったが、一週間後に会計主任の女性が突然、辞めたので、わたしにその仕事がまわって来た。東北大学経済学部の学生だから会計には詳しいだろうというのが旅館側の考えだった。いやいや、わたしは授業に出ていない経済学部の学生であって、会計のノウハウなどはまったく知らなかった。しかし、退職する会計主任の女性が負い目を感じたのか、一日がかりで指導してくれたおかげで、なんとか初歩のホテル会計はマスターすることができた。最新の会計システムを導入していたから、その操作を学べばなんとかできたのだ。この旅館は今は、日本を代表する大きなホテルになったが、当時は従業員四十人ぐらいの温かみのある旅館だった。そして、ここは、わたしにとって人生最初にして最高の楽園でもあった。

 

  会計係は、朝の六時から十時まで、そして午後は四時から九時までが基本の勤務時間だった。その間は、自由に時間が使えた。客がいない時間は温泉にも入れた。午後の時間は主にフランス語の勉強に充てたが、掃除パートのおばさんたちが特別に、私の勉強部屋になっていた観光バスの運転手さん用の小さな部屋を一番最初に掃除してくれていた。みんな本当にいい人たちだった。昼ご飯も、その掃除のパートおばさんや雑務係のおばさんら十数人と一緒に食べた。おかずに前夜の宴席で手が付けられなかった鮎の塩焼きがよく出た。仲居さんがパートのおばさん用にときれいに取り分けてくれていたのだ。まかない係のおばさんが、その冷めて固くなった鮎を塩を入れて煮切った日本酒の中で一度洗った後、再び木炭コンロで焼いてくれた。これが実においしかった。要するに鮎の酒びたし焼きである。なんでも、そのまかない役のおばさんの夫はアユ釣りの名人で、釣った鮎は一度焼いてから数か月間、天日に干し、正月に酒で戻して食べるのだそうであった。だから、このまま客に出しても喜ばれるような出来栄えになっていた。掃除のおばさんたちは、調理長より料理が巧いと笑っていたが、わたしもそう思った。朝の会計の時に、料理への不満を訴える客が多かったからだ。おそらく、社長も女将さんもそう思っていただろう。それほど料理に工夫がなかった。かといって簡単にクビは切れない。他の温泉地も同様で、全国の旅館の調理師たちは都道府県の調理師会からの推薦で入って来ているからクビにしたら、後釜の調理師を入れてもらえなくなるのだ。昔はそうだった。今はワカラナイ。

  旅館はどこも、調理師がいなければその日の営業が成り立たなくなる。「渡りの調理師」を探すにしても時間がかかったのだ。ここに、現在の旅館の最大の欠陥があるかもしれない。調理長、調理師が幅を利かせている旅館は経営も怪しいと思う。逆に調理長が腕が立ち、あまり野心がない調理長なら、このコロナ禍でもやって行けるだろう。単に高価な本マグロの大トロを膳に乗せて満足しているような調理長はダメで、その大トロの柵をさっと湯通ししてから、自家製梅干しを使った煎り酒につけて食べさせるとかの工夫がある調理長は旅館にも繁栄をもたらすということである。

 

  当時の旅館の大風呂は混浴だったので、客が寝静まった頃、フロント主任と大風呂に入っていると、よく仕事終わりの芸者さんたちも入って来た。「いい?」とは言って入って来るのだけど、混浴である。断る筋がない。わたしとフロント主任はお互いスッポンポンのまま、芸者さんたちとお風呂談義していた。ニコニコ顔の芸者さんに背中を流してもらえる。そんな学生はおそらくいなかっただろう。
   ちなみに、わたしが贔屓した芸者さんは千代屋の一也姐さんと小春さん。チップが弾む他県からの政治家たちの宴会には決まって、一也姐さんと小春さんを入れた。アルバイトの会計係はいつのまにか芸者さんの手配までするようになっていた。一也姐さんの三味と小春さんの踊りは美しく、芸術そのものだった。広島県の県議団の宴席では、合わせて四万円(現在では十二万円ぐらいかな)のチップが、小春さんの和服の胸に入って来たと、のちに小春さん自身から聞いた。酔った政治家はいいカモだった。視察と称して、税金で遊びに来ていたわけだからカモになってもしかたがない。現在の広島県議団はそんなことはしていないだろう。視察は視察、私的な観光は私的な観光と区別しているはずである。誰も政務調査費を使って旅行はしていないだろう。と思う。

 

  旅館では三食付きで住居費も無料。下着などの洗濯も雑務係のパートのおばさんが一緒に洗ってくれたから、金の使いようがない。バイト代をそっくり貯蓄に回すことができた。まさに天国であった。フランスなんかに行かないで、このままこの旅館に居座ろうと思ったほど居心地が良かった。給料以外の収入としてチップもあった。朝食の前に会計を済ませた人たちが宿泊代金の釣りをチップとして置いていくのである。そのチップはかなりの額になり、プールしておいてフロントの人たちに分配した。しかし、それは仲居さんたちから文句を言われる原因にもなった。それまでは、仲居さんが勘定書きを部屋に持参して、その釣りは仲居さんたちの貴重な収入源になっていた。ところが、わたしが会計係になると、みんなフロントの会計で清算するようになったのだという。仲居さんが怒るのも当然である。集団でわたしのところまで文句を言いに来た。そこに割って入ったのが、若くてきれいなR子さんだった。「ねえ、みんな、伊藤さんが夜、フロントに来たお客さんたちに丁寧に仙台の観光案内しているのを知らないの。チップは一番親切にしてくれた人にあげたいというのがお客様の気持ちではないの。特にお年寄りはね、ちょっとした親切が心に響くものなのよ」というようなことを言ってくれた。30代のR子さんが、60代のキヌさんや50代の里子さんたちをたしなめたのである。R子さんは横浜のヤクザ屋さんから逃げて来た女性といううわさがあったが、もしかしたら本当だったかもしれない。R子さんの迫力に他の仲居さんは何も言えなかった。

    確かに、わたしは仙台での観光を尋ねて来たお客さんに、ガイドブックにはないところも紹介していた。庭がきれいな輪王寺とか、花が好きな人には無料の養種園を勧め、その前にある江刺家のおいしい揚げパンなども交通手段と一緒に教えていた。実際に江刺家の揚げパンを食べながら養種園のバラ園を楽しんでいたし、バイト先の裏千家の知り合いに連れられて輪王寺の茶会にも行っていた。しかし、仲居さんのことも考えて、チップは仲居さんにも分配することにした。わたしの取り分が少なくなるがしかたがない。その仲居さんたちにも休み時間に個人的にお茶とお菓子をごちそうになるなど、ずいぶんとお世話になっていたからだ。

 

  R子さんはとにかくきれいな人だった。本館のすべての風呂が定義参拝の日帰り客でいっぱいになった日、わたしは自炊部のお風呂に一人で入っていた。そこに、「お邪魔するわよ」とR子さんが丸裸のまま入って来たのだ。ここの風呂も混浴なのであたりまえのことなのだが、憧れのきれいなR子さんである。身体の線が少し崩れかけていた芸者の花丸さんたちとは違うのだ。ツンと上を向いているふたつの乳房、引き締まった白い肢体、形のいいお尻、そして身体の中央にある黒々とした小さな繁み。R子さんはそれらをまったく隠さず、湯船の中のわたしの前を行ったり来たりしているのだ。21歳のわたしは不思議と性的に興奮するわけでもなく、美術品を見るように髪を洗うR子さんの後姿をずっと見ていた。15分ほどしてから自炊部に逗留しているお婆ちゃんたちも入って来て、極楽浄土の美術館はやがて、民謡アカペラの賑やかな社交場になった。

 

   半年過ぎて、フランス留学資金もかなり貯まり、ソルボンヌ大学からも入学許可書が届いたので、旅館を辞め留学の準備をすることになった。東北大学にも一年間の休学届を出した。

ソルボンヌ大学の入学許可書の一部

  旅館での最終日、R子さんがフロントに来て、わたしに封筒を手渡した。「あなたから分けてもらっていたチップ分と私からのささやかなお餞別よ」。周囲に誰もいなかったら、わたしはR子さんをきつく抱きしめていたことだろう。

 フランス留学については、次回の「どうでもいい話④」に書く。

 

どうでもいい話④   フランス留学

 

   半年で秋保の高級旅館のアルバイトを辞めた。一旦、田舎に帰ってからすぐ東京に出た。ソルボンヌ大学からの入学許可書を持って、南麻布にあったフランス領事館に行き、留学生ビザを発行してもらうためである。この留学生ビザはのちに大変に役に立った。大学の食堂だけでなく、パリ市内の一部のレストランも留学生ビザを提示すると食事代が半額になったし、ルーブルを除く大半の美術館も無料で入館できた。さすが、フランスであった。

    ちなみに、ソ連へのビザは日本社会党宮城県本部から発行してもらった。今から五十年以上も前のことだ。当時のソ連と日本社会党は友好関係にあり、地方では社会党の各道府県本部がビザ発行の代理人となっていた。当時はビザがないとソ連に入国できなかったし、その発行条件もかなり厳しかった。つまり、社会主義を明確に否定する日本人にはビザは発行しないという頑なな態度であった。わたしも社会主義や共産主義にはまったくなじめなかったが、ダメもとで社会党宮城県本部を訪ねた。しかし、偶然である。話をしているうちに当時の県本部書記長が古川高校の先輩ということがわかり、余計な尋問はなしにすぐ発行してもらえた。縁は異なものである。しかし、横浜からウイーンまでは、日ソツーリストビューローが決めたスケジュールで行動し、ソ連国内の移動は当局の指示に従うことなどを誓わされた。

 

   横浜から軍港のナホトカまではソ連の客船・バイカル号をあてがわれた。ナホトカからハバロフスクまではシベリア横断鉄道、そしてハバロフスクからモスクワまではアエロフロート機。それ以外の交通手段は認められなかった。バイカル号は、当時のソ連の客船にしてはかなり豪華で、出発時には数十人の楽団員がデッキに出て、カチューシャなどを生演奏してくれた。あのデッキでの派手な演出はそれからのひとり旅への不安をかき消してくれた。しかし、それよりも大きな不安がアエロフロート機にあった。なんと座席はビニール張りで、加速する度に機内の擁壁を押さえているリベットがガタガタと音を出して浮き上がった。あれは恐怖だった。今にも擁壁が壊れて自分が飛行機の外に持っていかれそうな気分になった。しかし、ロシアの人たちは平然としていて、機内食の骨付きチキンに食らいついていた。ちなみに、機内食はこのチキン一個と固い黒いパン、塩辛いぬるいスープだけだった。

   モスクワでは常に監視がついた。日本からの旅行者は全員がボリショイサーカスに連れて行かれた。行きたくない場合はホテルに留まり、一歩も外に出られないということだったので、迷わずサーカスを選んだ。ところが、このサーカスがすごかった。中でも人間ロケットには驚いた。第二次世界大戦で使われていたような大筒から人間が空中に飛び出して、およそ30メートル先の網の上にすっと立つという仕掛けである。世界各地で興行しているボリショイサーカスはいわば二軍、三軍で、モスクワ常駐しているのが正規のボリショイサーカス団だとロシア人の説明役が胸を張った。

 モスクワには二日ほど滞在させられ、今度はウイーンまでの国際列車に乗せられた。国際列車からは監視の目も緩くなり、日本人2人にポーランド人などの四人部屋の客室も和やかな雰囲気になった。その雰囲気が変わったのが、ソ連とポーランド国境にある税関を過ぎたあたりだった。ポーランドに入る寸前の山中で突然、汽車が停車し、おびただしい数のロシア人が乗り込んで来たのだ。廊下はすべてこれらの人たちで埋め尽くされ、わたしたちは客室の外に出られなくなった。最初は亡命かなと思ったが、それにしては荷物が少ない。おそらく、計画経済化のソ連ではなかなか売っていない商品を買い出しに来た密入国の人たちだったに違いない。それが証拠に国境を過ぎると全員があっというまに姿を消した。ビザもパスポートもなしに国境を越えるのだから、車掌や運転士にそれなりの賄賂が渡されていたのだろう。

 

 国際列車はポーランド、チェコを経由してウイーンに着いた。ここから初めて、ソ連の監視下から離れて自由な旅ができるのだ。ウイーンには日が暮れてから着いたので、安宿を探す時間はなく、国際列車で一緒だった日本人と宿賃を折半して、駅の裏通りにあったホテルのツインを借りた。彼の目的はパリでの料理修行。といっても日本からの紹介状を持っているわけではなく、わたしと同じように貧しかった。

   次の朝、彼とはホテルの前で別れた。わたしもパリをめざしていたが、一緒に旅をする気持ちはなかった。なるべく他人に寄りかからない。ひとり旅の矜持というものだ。それがなかったら、貧しいひとり旅などはできはしない。彼はストラスブールから、わたしはリヨン経由でパリに入ることになった。しかし、わたしはそのリヨン駅でとんでもない間違いをしてしまった。フランスの駅は親切でない。ホームの詳細な案内もなければ、行き先の表示も明確でない。わたしは時刻表で確認してから、パリ行きの列車のホームに行った。出発時間の10分前になったので、何の疑いもなく、目の前の列車に乗り込んだ。この列車がパリ行きではなく、南仏に向かう列車だったと気がついたのは、深夜、列車がスペイン国境に近い終着駅に到着した時だった。

 

 列車ではずっと車窓を眺めていた。のんびりとした中部フランスの風景は私の心を和らげた。途中の小さな駅では、大勢の見送り人を引き連れて、結婚式を終えたばかりらしいカップルが乗り込んで来た。二人は本当に幸せそうだった。そんな初めてのフランス光景に夢中になっていたわたしに、列車の間違いなどわかるわけがなかった。終着駅がなんという名前だったかは忘れてしまった。しかたなく、列車から降りて駅の事務室らしい部屋に入った。親切な中年の駅員だった。

    「きょうはパリ行きの列車はない。 駅の構内から出なければ、 あなたのチケットは有効で明日、そのままパリに行ける。 追加料金を取られないよう私が証明書を書いてあげよう。 今夜は待合室で休むといい」と言ってくれた。待合室に入った。ベンチというベンチは路上生活者らしい人たちに占領されていて、わたしの座る場所はなかった。後ろから追いかけて来た駅員の話では、彼らのほとんどがスペインからの出稼ぎ者で、ホテル代わりに待合室を利用しているということだった。この駅から仕事に出て、仕事が終わるとまた駅に戻って来ているらしい。家族連れも多かった。ベンチに粗末な毛布を敷き、子供たちはその上に、親たちはベンチ下のコンクリートの床に直に寝ていた。当時のスペインはまだフランコの影響下にあり、この独裁者に翻弄されていた国民の多くは貧しかった。彼らは越境してでも、フランスで働かざるを得なかったのかもしれない。

 「あの家族があなたのためにベンチを空けると合図しています」駅員が道路側の窓際にいたスペイン人家族を指さした。夫婦らしい中年の男女が、笑顔で手招きしている。毎日、金も払わずに駅の構内を利用している彼らが、正規の乗車券を持っている東洋からの旅人に気を遣ってくれているのだ。「でも、せっかく寝入っている子供を起こすのは気の毒だから、あなたは事務室で休んだほうがいいと思う」と駅員が大きな声で言った。それを聞くと、スペイン人夫婦はわたしたち二人に深々と頭を下げて、また笑顔を見せた。スペインからの貧しい出稼ぎ者たちが、この駅をねぐらにしている理由がわかるような気がした。もし、ひどい低賃金にあえぐスペイン人労働者の大暴動がこの街で起きたとしても、彼らは、この駅員にだけは指一本触れないだろうと思った。

 

 パリに行く前にクレルモンフェランに3日ほど滞在した。クレルモンフェラン大学の入学許可書ももらっていたから、大学の寮が確保できれば、ここの大学でもいいと思った。しかし、すでに満杯。しかたがないから、宿のユースホステルで一緒になったモロッコの若者と一緒に三日間、街をうろついた。きれいな街だった。夜、ベットを並べながらモロッコ人若者と話をした。カサブランカという映画の話だ。若者はいつになるかわからないがモロッコで映画が撮りたいと言った。あなたならできると無責任なことを言ってしまったが、若者の顔が輝いた。クレルモンフェランの街並みより美しい顔であった。

 

 パリでの暮らしは書くことがあまりない。一日600円のトイレもシャワーもない安宿に泊まって、小さなリンゴとパン、そしてワインを飲んで腹を満たし、栄養が足りないなと思った時は、大学の食堂に行って、食べ放題の大きな牛レバーと、野菜たっぷりのスープを飲んだ。また貧乏たらしい話をすると、この大学食堂でもわたしは大恩人に出会った。食券を買う際に、窓口の女性からワイン券は要らないのと聞かれた。行列前後のほとんどの学生がワイン券も購入していたからだ。金がないから要らないと答えていたが、次からは、彼女は黙ってワイン券も差し出してくれた。ワイン券が買えない貧しいわたしのことを覚えていてくれたのだ。あの東北大学食堂のおばさんがパリにもいたのである。

 安宿ホテルの部屋は割と広かったが、深夜でも一階にしかないトイレに行くのが苦痛であった。シャワーは、地下鉄で4つぐらい行ったところにレンタルのシャワー室があったが、高いので一週間に一回しか行けなかった。あとは水に浸したタオルでひたすら身体をこすった。それでなんとかなった。こんな貧しい暮らしでも楽しかった。

 

 ソルボンヌ大学の授業は三週間で諦めた。早口で繰り出されるフランス語がまるでわからなかった。パリの大学も日本の東北大学も出世など取らずに、正式に入学手続きを済ませば、後は何をしても自由であった。大学の授業よりパリの街そのものが魅力的だった。パリよりモスクワの街並みのほうがきれいだったが、パリには自由があり何より若者を大切にする文化があった。コンサートにしても演劇にしても学生は八割近い割引率で鑑賞できた。

 授業には出ず、午前中は大学構内をぶらぶらしながら、主に外国人留学生たちの群れに加わって拙いフランス語で話したり、その後は無料の美術館めぐり。昼は日本大使館に行って無料の新聞を読み漁り、午後はパリ市内をスケッチして歩いた。夜は無料のシネマテークに行った。小津安二郎や黒澤明の日本映画をフランス語の字幕付きで見るのはとても不思議な感じがした。

 クラシックのコンサートにもよく出かけた。パリ管弦楽団とアシュケナージのピアノ、アイザックスターンのバイオリンがたったの300円で聴けた。といっても、立ち見の天井桟敷からは、指揮者とソリスト、第一バイオリンの一列目ぐらいしか見えなかった。舞台上方に突き出た巨大な彫刻が邪魔して奥のほうまで見えなかったのだ。それでも、そこは貧しい音楽好きの若者たちでいつもいっぱいであった。

 コメディフランセーズは、平日のマチネに行くと留学生ビザで無料で見られた。フランス版松竹喜劇である。フランスにも藤山寛美がいたのである。こちらは大学の授業と違って、間を取って話してくれるので少しはフランス語が理解できた。

 

 パリの日本大使館も楽しい場所だった。無料で日仏の新聞、情報誌が読めるだけでなく、同じような日本人が集まってきていたから、日本人の友達がたくさんできた。パリに来て日本人とつるむのは情けないが、けっこう頼りになった。金がなくなって来たので、こちらの大学でもアルバイト探しをした。しかし、まともな仕事には、「ブラックとイエローはお断り」という注釈がついていた。黒人と東洋人用のアルバイトは早朝の道路掃除ぐらいなものだった。もう何か月もパリをブラブラしていたから、帰ろうと思ったが、日本大使館で知り合った日本人たちに助けてもらった。時々、みんなで集まってパーティをするから、あなたは無料で参加していいというのだ。当然、その好意に甘えた。2年も前からパリでファッションの勉強をしている女友達はかなり裕福で、食材はすべて彼女が購入し、調理師見習の男友達がパリ風すき焼きなどを作ってくれた。パリではスライスした肉など売っていなかったから、調理師見習が肉の塊を包丁で薄く切り取ったが、やはりまずかった。しかし、文句は言えない。タダでごちそうになっていたのだから。

 日本人ばかりでなく、パリでもいろんな人に世話になった。アテネフランセーズで知り合ったカメルーンの女性は、自身も貧しいのにわたしの貧しさだけをいつも心から気にしてくれた。また、日本に荷物を送ろうと向かった郵便局の前では、フランス人の初老のご婦人に親切にされた。ちょうど郵便局のストライキにぶつかり、途方に暮れていると、婦人の自宅まで連れて行かれ、お茶をごちそうになったあげく、後日、婦人が日本に送ると言う約束で荷物を預かってくれた。なんでも、息子さんが神戸の貿易会社に研修で行った際に日本人に大変お世話になったから、今度はそれをあなたにお返ししたいということだった。貧しさの中の他人の親切は特に身に染みる。わたしは、その婦人へのお礼はまだ返していない。せめて、ワールドカップサッカーでフランスを応援しているというとだけだ。

 

 わたしが持っていた一年間有効の航空券はエジプト航空のものだった。中東戦争がまた始まったので、南回りは近く飛ばなくなるだろうというので結局、日本に帰ることにした。エジプト航空のチケットを北回りの他の航空会社のものに交換すれば、より安全に帰られるような気がした。交換の交渉にはフランス語が達者な女友達が付き合ってくれたが、エールフランス、KLM、パンナムなどすべての航空会社に断られた。エジプト航空のチケットは安すぎて交換できないというのだ。考えてみれは当然である。しかたがないから、帰国当日、オルリー空港にある日本航空のカウンターで再交渉することになった。すると、意外や意外、すんなりと交換してくれた。機内は半分以上が空席だったのだ。

絵画展の案内状

 久しぶりに日本に帰った。まだ東北大学には休学届を出したままだったので、日本海のすぐそばにある山形県の吹浦海岸に行って絵を描くことにした。そこには二ヵ月間逗留した。宿の柳田さんという女将さんがとてもいい人で、離れにあったプレハブ小屋の二階に三食付きで千円という、ただ同然の料金で泊めてくれた。女将さんの親切に甘えて、絵を描きまくった。10枚の油絵は描いたと思う。逗留している間にこの宿で地元の新郎新婦による結婚披露宴が行われた。女将さんが離れに走って来て、わたしも参加してと言うのだ。ご祝儀を出す金がないと丁寧に断ると、「お膳は余分に作ってあるから遠慮しないでいいのよ、新郎新婦もぜひにと言っているのだから」と笑顔で言ってくれた。わたしは、末席の膳の前に座らせられて、新婦から酌まで受けてしまった。料理もとてもおいしかった。本当に、わたしはいろいろな人に助けられて生きているのだなと実感した時でもあった。

 後日、仙台の東北電力グリーンプラザで絵画展を開いたので、吹浦の柳田さんにも案内状を出したのだが、身体の調子を崩していて来られなかった。フランス留学からは中途半端な形で帰って来たのだが、ここの吹浦の人たちの温かさに触れ、少し元気を回復した。吹浦には仙台放送で仕事をするようになってからも、何度も旅をした。みなさんもどうぞ。素朴でとてもいいところです。しかし、当時の宿はもうない。

 

  ・・・というフランスでの恥ずかしい話も、「どうでもいい話」というタイトルの投稿だから安心して書ける。これを読んだ人は本当につまらなかったと思う。貴重な時間を奪って申し訳なく思う。次は、どうでもいい話⑤ 仙台放送を投稿する。    

どうでもいい話⑤ 

仙台放送   

 

  大学の学部の成績が「CCレモン」の最低の成績なのに仙台放送に合格したと東北大学編に書いた。まったく就職する気はなかったが、フランスから帰って来てから、無頼な生活から少しはまともな生活をしなければならない事情に迫られた。詳しいことは書かない。

 

 経済学部では、ほとんどの就職がゼミの教授の推薦で決まっていたので、学生課の求人板にはあまり「物件」がなかった。教授の推薦枠があまりなく、自分で就職口を探さなければならなかった文学部に行って仙台放送への提出書類をもらった。仙台放送がどこにあるのかもわからなかったが、何よりもかなり報酬が良かったので応募した。仙台の試験会場という一番町の星和ビルで大勢の学生たちと一緒に試験を受け、しばらく経ってから面接に来てという知らせがあったので、友だちからスーツを借りて面接に臨み、それで合格した。わたしの身長は183センチ、友だちの身長は174センチ。かなりきついスーツだったが、リクルートスーツなどはなかったからしかたがなかった。

 卒業証明書をもらう都合上、学生課に就職内定を報告したが「あなたが・・・」と言われた。授業には出ない。図書館から借りた本はなかなか返さない。勝手に一年間、休学した。就職説明会には一度も出てこない。会社訪問はどこにも行っていない。求職票も出していない。わたしの評判は最悪だったのである。
 

 さて、なんとなく入社させてもらった仙台放送だが、ここは本当にいい会社だった。ボーナスは10か月分とプラス2か月分もらっていた。現在はそうではないみたいだが、他よりは平均年収は多いだろう。ずっと番組制作部と報道部という現場仕事で、入社3年目あたりからは好きなことがけっこうやれた。しかし、最初から40歳になったら辞めようと思っていたから40歳で辞めた。

   顔を知っている現役の後輩がまだいるので、あまり批判めいたことは書けない。いい会社だったとだけ書いておく。辞めた時の代表取締役会長だった植村泰久さんのことは書かなければならない。一番、お世話になった人だが、他の社員にはずいぶんと誤解されていた人だったから少しフォローする。

  わたしと植村さんが親しくなったのは、植村さんが社長の時代。わたしが三十歳前半のころである。きっかけは、わたしが地元紙の河北新報に依頼されて半年間、夕刊に連載していたコラムだった。もちろん、このコラムは人事部の了解を得ての連載であった。当時は副業などは認められていないし、なにしろ河北新報社はライバルの東北放送の親会社だったから、コラムを連載することに反対の役員もいた。 

 午後4時ごろ、コラムが載った夕刊を手にした植村社長がいつも、平社員のわたしの席にそっと来た。いつのまにか後ろに立っているいう感じで、わたしは隣の異常なほど出世志向の強い(例えば血糖値が高いと出世に響くとばかり社内健診の一か月前から断酒する)上司がガタガタと椅子から立ち上がり、直立する音で気が付いた。さて、植村さんの話すことはいつも同じ。「君ね、きょうのコラム読ませてもらったよ」と言い、ちょっとした感想を付け加えてから、また静かに戻っていった。植村さんは、元経団連会長の植村甲午郎さんのご子息で、その血筋の良さと群れるのがあまり好きでない性格からか、なんとなく距離を置く役員や幹部社員が多かった。ほとんどゴルフをしないというのもその理由だったかもしれない。しかし、実際の植村さんはとても物わかりのいい人であった。

 河北新報の連載コラムで、「街のヒーロー」として紹介したサブちゃんのことにも興味を示されたので、パチンコ大学でのサブちゃんとわたしとのいきさつを話した。経団連会長を父に持ち学習院大学を卒業した植村さんと、中卒で左足に障害を持ち、ストリップ劇場のサンドイッチマンをやりながら、死ぬか生きるかの瀬戸際の生活をしていたサブちゃんだが、植村さんはしっかりと話を聞いてくれた。パチンコ大学に清掃員として雇ってくれた大場さんに感謝し、いつもおいしい料理を作ってくれるオーナーの奥さんに感謝し、わたしと一緒に昼飯をごちそうになる時は、丁寧に両手を合わせてから食べていたサブちゃん。街を行く人たちから「サブちゃん!」と声をかけられると、いつも手をあげて応えていたサブちゃん。商店街の人からお菓子をもらうと私にも分けてくれたサブちゃん。この街のヒーローに植村さんも感心していた様子だった。

 

 さて、「仙台放送花見の会」にも、植村さんは役員の中では唯一、毎回参加してくれた。少しこの会について話すと、仙台放送の旧社屋時代に大道具室の近くに大きな桜の木が三本あり、毎年、見事な花を咲かせていた。総務部の許可を得て始めたが、一回目の参加者は30人ぐらいだった。コンクリートの地べたにブルーシートを敷き、その上に番組で使う畳を20枚ほど並べた。酒の肴は会社の食堂の親方に頼んで、から揚げやラーメン用のメンマ、漬物などを破格の特別料金で用意してもらった。夕方の17時半過ぎ。仕事終わりで桜を観る会がスタートしたが、そこに植村社長がひとりで現れたのである。幹事のわたしに一万円札を渡すのだが、「会費は二千円なのでお釣りは後から持って来ます」と言うと、もちろん、そこは「釣りはいらないよ」とニコリと笑った。「社長から一万円、いただきましたあ」とわたしが叫ぶと、万雷の拍手がわき起こった。植村さんも終始、わたしの隣にいて楽しそうに飲んでいた。

  

 花見の会は何年か続いた。わたしがずっと幹事役で植村さんも欠かさず参加してくれた。しかしである。社長が野外の殺風景な社員飲み会に参加してくれているのに、他の役員や幹部社員は誰ひとりとして参加しない。新人女子アナが初めて原稿を読む昼ニュースの時間に、つるんで鉄塔下の芝生でパターの練習をしていた連中である。悔しいから考えた。次の年からは、夕方になってから番組で抽選用に使っていた透明なアクリル製のボックスを玄関口に置いた。「花見の会へのカンパをお願いします」という張り紙と共に。そしたら、帰宅するために出て来た他の役員や局長クラスが財布から万札を取り出しボックスの中に入れてくれたのである。透明のボックスの中には見せ金の一万円札を入れていたし、花見の会場からは丸見えの場所だった。もちろん、スルーするケチな役員もいたが、おそらく、わたしは彼らにひどく憎まれたはずである。昔の役員の話だ。今は、優秀な役員が二人いる。
 

 花見の会の後は、「デンキブランを飲む会」や「バス通勤友の会」などいう社内横断の飲み会を作った。バス通勤友の会は、わたしが運転免許の更新を忘れて失効し、バス通勤を余儀なくされた時に作った。「今や、バス通勤はスポーツ感覚で楽しむ時代になりました。バスの急停車や坂道発進で鍛えられる調和の取れた身体は朝のジョギングなどでは得られるものではありません。仙台放送バス通勤友の会は野草園行きバスに感謝し、あわせて世界の交通安全、車掌はきれいな女性にしてという願いを込めて発足しました」というのが発会時の口上書きだった。

 17時48分仙台放送前発のバスに乗り、仙台駅前で降りたら、みんなで焼き鳥屋で飲む会だ。バス通勤している女子社員が多かったから、こちらにはその美しい女子社員たちが数多く参加してくれた。男女平等、たとえ上司でも酌はしない、手酌が基本というルールもあったからだ。例会がある日だけ、マイカー通勤からバス通勤に代えた男性社員も何人かいた。その様子を「知的バス生活のススメ」と題して社報に書いたら、また植村さんがわたしの席にやって来た。「そんなに楽しいの」と悔しそうな様子であった。植村さんはいつも運転手付きの社長車で帰るので参加資格はなかった。

  

 ところで、みなさん。運転免許の更新は忘れずに。失効すると新たに免許を取るはめになるが、これがけっこうしんどい。路上での技能試験では現役の警察官が試験官として助手席に乗る。教習所の優しい教官とはまるで違うのだ。まず「始めなさい!」で左右を確認しながら車に乗り、その後もすべて命令調。「そこを左折!」。そして、交差点に差し掛かると「けさは、何を食べた?」と聞かれた。いきなり何だよと思って、にやけながら助手席の試験官を見たら「脇見運転」で大幅減点になる。わたしは、まっすぐ前を向いて「納豆ご飯を食べました」と返答した。30分ほどの路上試験が終わってから聞いてみた。「朝ごはんのことはみんなに聞くのですか?」。すると試験官は「たまたまだよ」と言って初めて笑った。それでわたしは合格した。生うにたっぷり丼とかビーフストロガノフではなく、納豆ご飯と答えたのも良かったのかもしれない。また脱線した。どうでもいい話の投稿だからいいよね。

 

 その後、植村さんとそっと二人で飲む時は、文化横丁の中年夫婦だけでやっている小さな寿司屋が多かった。わたしが顔を出すと、女将さんがすぐ隣の小さな厨房に行って卵焼きを焼いてくれた。おそらく優しい植村さんが若いやつが来たらすぐ卵焼きを作ってくれと頼んでいたのだろう。わたしは、そのぶ厚い卵焼きをふうふうして食べた。それ以来、寿司屋で熱々の卵焼きは食べたことがない。卵焼きは長年の経験と熟練した技が必要なのだ。仙台には五橋にいい卵焼き専門店があったから、ほとんどの寿司屋がそこから取り寄せていた。

その寿司屋の後は、隣のビルの二階にある汚いバー。そこのマスターはわたしより若いのだが、植村さんを「おい、植村!、いつものやつでいいのか」と呼び捨てにした。仙台放送の代表取締役社長をである。それでも、植村さんはニコニコと笑いながら飲み続けていた。そのマスターは誰が来てもすべて呼び捨て。年上のわたしも「おい、伊藤!」だった。きっと植村さんは、職業や年齢で客を区別しないこの若者の流儀が気に入っていたらしい。

 植村さんとはいろいろな話をした。役員人事のこと、繰越金の運用方法、富谷と利府にある塩漬けになっていた所有土地の問題など、およそ平の社員には話してはいけないことばかりであったが、少しは詳細に意見を言った。役員報酬はもらっていないのにである。そして植村さんはいつも、この店でダウン。わたしが肩を支えながら、プレジデント一番町という高級マンションの玄関先まで送り届けた。

植村さんは、わたしが会社を辞めてからも秘書の山下さんを通して、酒に誘ってくれた。しかし、中途で会社を辞めた罪な人間とその会社の取締役会長がつるんで飲むのはいかにもまずいと、一回だけつきあって終わりにした。

 

  植村さんは4年前に鬼籍に入られた。東京の奥様から知らせをいただいた時はとても悲しかった。お嬢さんが日本航空のキャビンアテンダントに合格したとわたしに教えくれた時のあの嬉しそうな親バカ顔が今でも忘れられない。社内ではあまり話をする人がいなかったようだが、ダンディでとてもセンスのある生き方をする人だった。社長だと言ってそっくり返っているような人間は、あの汚ない文化横丁の呼び捨てバーには絶対に行かないだろう。

 

 植村さんとはまったくタイプが違うが、仙台放送にはさらに尊敬する先輩がいらした。ご存命なので実名は避けるが、実に正義の人、あっぱれな人であった。上司に媚びることはほとんどなく、常に自分の信念を貫き通していた。それがわたしにはとても新鮮だった。当然、役員などにはなっていない。役員にならないことが大きな勲章でもあった。仙台放送を辞めてから国際ボランティアの道に進まれた。出世志向の人は、メディアに職を求めてはいけないと思う。出世より信念である。

 

 ちょっとだけ、仙台放送時代の仕事の話をする。現役後輩には影響のない話だからいいだろう。報道部の記者時代のニュースである。宮城県警の記者クラブにいたら、デスクからきょうのニュースが埋まらないから三越ギャラリーに行って、〇〇派のいけばな展を90秒で作れという指示があった。こういうのをどうでもいいヒマネタという。デスクのチェックも適当である。さて、カメラマンと会場に行くと着飾ったご婦人方がわんさと寄って来た。いっぱい撮影してくださいねとか、支部長の作品がいいですわよとか速射砲のように言われたが、受付に「高級な来賓」が姿を見せたらしく、ほぼ全員がそちらに移動してしまった。残ったのは見るからに地味な女性一人だけ。彼女だけがパンフレットの整理とか、花器からこぼれ落ちた花びらとかを掃除したりしていた。「これらの作品の材料費ってわかりますか」「はい、ルールはないのですが、みなさん、ランクが上の方のお花代よりは上回らないように工夫なされているようです」「お花代も厳しい序列世界なのですね」。それで、決まった。花の材料費の高い順番から見せていったほうが、少しは視聴者に興味を持ってもらえるだろうと思ったのである。一位、推定16万5千円。確かゴーストウッドを中心に花をアレンジしていた作品だった。そして二位、三位と撮影して行くうちに、とんでもない生け花に出会ったのである。

 深さ8センチぐらい、直径60センチほどの白い花器の中央にある剣山の上に赤いバラが一輪だけ横たわり、薄いピンク色に染められた水にはバラの花びら一片が静かに浮いていた。まるで、親しい人の棺の上に置かれた一輪の白菊、山口百恵がラストステージで舞台にそっとおいた一本のマイクのように美しかった。まあ、言葉ではなかなか伝えられないが、実に見事な花の表現であった。感動したわたしは、50秒をどうでもいい花材料費ベスト5の紹介にあて、残り40秒はこの作品だけに集中しようと思った。それまではノーライトで撮影していたのだが、これにだけには強力なバックライトを当てて深みを持たせるようにした。さらに、会場のFFからズームアウトしながらドリーインして生け花に近づき、そこから花器に横たわるバラの1Sから水に浮かぶ花びらへとゆっくりパンダウンさせ、なおかつフォーカスインするという演出を施した。「芸術の真実は金銭には左右されない。この作品は自宅の庭のバラだから材料費はゼロ」などという極私的な誉めの原稿も入れた。

 この作品の作者はひとり残って、わたしに説明してくれたあの地味な女性だった。日頃から尊敬していた東北放送の門間カメラマンからも「俺も撮影に行ったけどさ、あんなことされちゃな、負けたよ」と珍しく褒められた。彼は古川高校という田舎の高校の先輩でもあった。評判はまずまずだったが、次の日、この流派の代表者から名指しで抗議の電話があった。序列を乱したのだ。もちろん無視した。昔の話だ。現在の華道界は、いいものはいい。ダメなのはダメという序列に関係なく評価する本来の雅な世界になっているはずである。そして、高価なゴーストウッドは業者から買うのではなく、自分で山中の湖に分け入って苦労しながら探すべきであり、使用する花も、自ら種をまいて育てた花のほうがいいし、そうすべきである。それでこそ、華道としてのいけ花の価値が出て来る。

 

 正直、報道部の仕事はまったくつまらなかった。決められた時間に出社するというのがまず嫌だったし、毎日のサツ回りも面白くなかった。ネタが少ない地方の警察や役所に日参しても得るものはほとんどない。いざという時の顔つなぎでしかなかった。記者クラブもわけのわからない場所だった。警察や役所の広報は企画ニュースをくれるわけではない。記者クラブのつまらない発表ネタに頼っていると、どこのテレビ局も横並びのどうでもいいニュースになる。今もそれは変わらないだろう。仙台中央署の副署長あたりからリークされて、ヤクザ屋さんが3グラムの覚せい剤を持っていたことをニュースにして得意になっていた先輩記者もいたが、知事が覚せい剤を持っていたらニュースだが、ヤクザ屋さんの3グラムはそれほどのニュースでないと思っていた。だから再び、番組制作部に移された時はホッとした。ここは、自分で仕事が管理できていれば、出社時間も退社時間も自由だった。束縛されたくない。それだけがわたしの流儀だった。

 

 次は、その番組制作部での仕事。一年半にわたって美しい風景とそこに暮らす人々を追いかけた番組を制作した。最初の一週間は図書館にこもって、東北の地元紙のライブラリーや農業新聞、情報誌などを読み漁った。八森で昔ながらの丸木舟でハタハタ漁をしている人たちや、下北半島で中古バスに生鮮食料品を満載して販売している元演歌歌手、徒歩でしか行けない八甲田山中で古びた温泉宿を営む老夫婦などを見つけ出した。それらの人たちとの打ち合わせや風景のロケハンのために、会社の金で自由な一人旅を二か月間も続けた。仙台放送には本当に感謝している。

 

 「ファンジー紀行・北の風景」という番組である。文化庁の芸術祭にも出したが、かすりもしなかった。保存形式が今とは異なっているから仙台放送のライブラリーにも残っていないだろう。わたしは、一インチのVTRからダビングを繰り返して、今はブルーレイで所有している。40年近く前の番組だが、だいぶ前にどなたかが、フジテレビで放送したものをニコニコ動画に投稿しているようだ。画質が粗く、CM部分をカットして三部作のようになっているが、本来はCMを入れて74分の番組である。著作権管理がどうなっているのかわからないが、興味がある方はニコニコ動画へ。

  今年は東日本大震災から10年。撮影した風景の中には、大震災で崩壊してしまったものもある。再び、これら東北の大地を一人旅したいと思っている。

 

 わたしは、予定通り四十歳で会社を辞めた。その後のことなど何も考えていなかった。なんとかなるだろうぐらいの気持ちだった。しかし、辞めた次の日、東北放送の東京支社の見知らぬ人から「東北放送でも仕事をしてくれるのでしょうか」と電話があった。その次の日は仙台市内の制作会社からも具体的な仕事のオファーが来た。失業保険をもらって数か月は休もうと思っていたが、そうも行かなくなった。この文章を読んでいる人には不愉快だろうが、大手広告代理店からテレビCM制作の話が来るわ、某大企業から企業紹介のビデオ製作を依頼されるわで、大変だった。いわゆるたった一人の個人事業主だから代わりの人間がいない。すべて自分一人でこなさなければならなかった。気がついたら、最初の一年でテレビ局時代の年収を軽く越えていた。不思議な感じであった。とにかく、いろいろな人に感謝しなければならないなと思う。そして、後年はあんなに嫌っていた東北大学の仕事もやることになった。海外向けの学生募集ビデオと、理系女性教授の紹介ビデオの台本や、しまいには東北大学創立100周年記念番組の台本まで書かされてしまった。しかし、同窓会の会費は一切、払っていないし、所属したくもない。

 

 ここまで書き終わった後、ユーチューブで長谷川きよしさんのライブ映像を観た。長谷川さんもわたし同様に年を重ねて来たのに、昔のままの澄んだ美しい高音と巧みなギターテクニック。さすがである。仙台放送時代、盛岡や青森などに向かう途中、仙台駅で下車した長谷川さんから何度か電話があり、駅前のホテルでお茶を飲んだ。「仙台の街はもう色づいていますか」「まだですね、あと二週間後でしょう」「楽しみですね」というような、いつも他愛のない会話だった。しかし、二人で黙ったままお茶を飲んでいても優しさがにじみ出るような人だった。まだ二人とも若く、30代の頃の話だ。

 

 苦しい時はいつも、長谷川さんの「別れのサンバ」と「愛の賛歌」を眼を閉じて聴いた。ひとり息子を失った時も眼を閉じて聴いた。東日本大震災で自宅前の道路が大きく崩落した時も眼を閉じて聴いた。長谷川さんの歌は救いの歌であった。きっと、あなたにとっても長谷川さんの歌は心の底にまで響く歌になるはずである。

 「愛の賛歌」が歌える歌手は世界に3人しかいない。エディット・ピアフと越路吹雪、そして長谷川きよしである。今は、長谷川さんだけがあの美しい声で歌い続けている。

 

「Hymne à l'amour」の一部と勝手な訳詞。

越路さんが歌う岩谷時子訳詞の愛の賛歌はピアフの歌とはまるで違う歌。長谷川さんが歌う栗原野里子訳詞のほうがピアフに近い。わたしもリズムを度外視してサビの後半部分だけ訳詞した。ピアフの愛の賛歌は甘美な愛の歌ではなく、どちらかというと逃避行に近い愛の歌である。

 

Si tu me le demandais.

J’irais décrocher la lune,

J’irais voler la fortune,

Si tu me le demandais.

・・・・・・・・・

 

あなたが望むなら

わたしは 月にだって行く

あなたが望むなら

わたしは 盗みもするだろう

 

あなたが望むなら

わたしは 国を捨て 友も裏切る

あなたが望むなら

人にどう思われようと 何でもする

 

いつか 運命がふたりを引き裂くだろう

でも あなたが死ぬときは

わたしも死ぬとき

あなたが愛してくれるなら それでいい

 

わたしたちは

一緒に あの果てしない空に旅立つ

もう ふたりに悔いはない

 

 

 こんな愛に恵まれた人は幸せだと思う。

 「愛の賛歌」を聴くなら、長谷川きよしに限る。越路吹雪の歌詞では、本当の愛がわからない。

 

どうでもいい話⑥  

好きやねん

 

まったく興味がないかもしれないが、仙台放送の話を続ける。もしかしたら、少しは地方局の番組作りの参考になるかもしれない。

他局も同じだと思うが、仙台放送の自主製作番組はほとんどが編成局や営業局の主導で作られていた。午後に一時間の枠があるから何か作って欲しいとか、スポンサー対策の情報番組を作って欲しいとかいったものである。放送時間も番組のジャンルも内容もディレクター自らが企画した番組はまったくなかった。そこで、省力化したニュースセンターの完成に合わせて、低コストでできる深夜の生放送の企画書を出した。

 

「好きやねん」という番組だ。何のことはない、視聴者から「愛の告白」を3台の電話で受け、それを次々とスタジオで紹介するというラジオのようなテレビ番組である。スタッフは、プロデューサー兼ディレクター兼スイッチャーのわたしと音声担当の技術スタッフ一人、キャスターの男女二人、電話受けのアルバイト3人という小さなスタッフ陣であった。まあ、こんな企画は通らないだろうと半信半疑で企画書を書いたが、不思議と一発で通ってしまった。

 

地方の深夜生放送なんてスポンサーがつかないと営業局は反対したらしいが、なんと大手予備校や大手飲料メーカーなど、ワンサとスポンサーがついた。ありがたい話である。もちろん、その感謝の意味もあって、各社の了解を得て番組独自のコマーシャル動画を作り、番組の中で頻繁に流させていただいた。例えば真夏、アルバイト学生を海に連れて行き、汗びっしょり、くたくたになるまで徹底的に波際を走らせ、ダウンしたところでスポンサー企業の冷たい清涼飲料水をそっと差し出すという動画である。アルバイト学生の「演技なしのほっとした笑顔」は実に見ごたえがあった。深夜の番組にしては高い視聴率だった。朝日新聞も取材に来て生番組の様子を掲載してくれた。

 

表記のチラシは、朝の七時からアルバイトと一緒に朝の仙台駅前や泉中央駅で高校生たちに配ったもの。一枚のチラシが学校に持ち込まれるだけで、学校内で回し読むという抜群の宣伝効果があった。高校生への番組宣伝はテレビを使った番宣より、登校時に配る一枚のチラシのほうが優れている。

 

   「深夜放送ばかり見てないで勉強もしなさい」という保護者対策もした。番組中に「赤尾の英単語」を次々とスーパーインポーズして、テレビを見ながらでも受験勉強ができるというアホな企画である。例えば、Add(加える)という感じのスーパー。こんなので頭が良くなるわけがないが、「テレビの画面に英単語が出て来る番組がある」「うそ!」という若者受けを狙っただけのことである。しかし、これは番組が始まる前にいちいち英単語を打ち込むわたしの負担が大きすぎたので三か月でやめた。

 

話は大幅に飛ぶ。スーパーインポーズと言えば、報道部時代に、県北地方で大きな道路が開通したという話題を、ユーミンの「中央フリーウェイ」を聞かせながらアナウンスコメントは一切なしで、スーパーだけのニュースを流したことがある。記念の渡り初めで、道路を歩いて渡る紋付き袴の爺さん、婆さんやその孫たち、その他の地元の人たちの笑顔に、「中央フリーウェイ」の曲はよく合った。そして、総工費や地域への貢献、その他の情報などはすべて詳細なスーパーで処理した。今では、全国どこのテレビ局でもやっていると思うが、当時は新しかった。およそ45年前の話だ。たまたま仙台に出張で来ていた芝浦工大の教授が、「仙台で、スーパーと音楽だけの変わったニュースを見た」とスポニチの東京版コラムに書いてくれた。その記事のコピーを東京支社の人間がわたしに送ってくれた。日本で初めてのスーパーと音楽だけのニュースだったのかもしれない。また嫌われるようなことを書いた。戻る。

 

さて、生で受け付けていた三台の電話は鳴りっぱなしで、番組の最後まで鳴りやむことはなかった。「いつも仙石線の一両目で見かける育英バスケのエムさん、大好きです。二高との試合、応援に行きます。白百合のヨッコ」とか、「課長、妻子がいても愛してます。総務の女」とかいった愛の告白である。プライバシー保護や個人情報の関係で詳細な名前は出せなかったが、育英のエムくんは自分のことだとなんとなくわかるだろうし、妻子のある多くの課長は勝手に自分のことだと喜んだに違いない。メールなどはなかった時代だが、今だってSNSで愛を告白するにはかなりの勇気が必要だ。全国の地方の意欲あるディレクター諸君、深夜の生放送は低コストでやれるし、SNSの時代であっても若者たちに受けると思う。

 

今も昔も、若者たちはテレビを遊びのツールとして利用している。生放送中に、番組が終わったら「おでんパーティー」をやると呼びかけたら、なんと百人以上の若者たちがバイクや車に乗ってやって来た。遠くは松島町から来た男の子もいた。深夜2時の話である。当時の仙台放送の周辺に人家はなかったが、途中の住民がおびただしい数のバイクに驚き、仙台南署に通報してしまった。パトカー2台が緊急出動し、おかげでわたしは始末書を書かされる羽目になった。しかし、その後も深夜のおでん会、芋煮会は継続した。もちろん、仙台南署には事前に通告し、途中のバイク走行が密にならないよう集合時間にかなりの幅を持たせた。

 

「好きやねん」というあえて関西風のタイトルで始めた番組は、「空飛ぶペンギン」「幸せのキットシヨー」「オンリーユー」とタイトル名だけ変えて続けた。そして、わたしが40歳で仙台放送を辞めると同時に、番組も閉じた。最後の番組ということで記憶に残る番組であった。これからの地方局の番組づくりは、「低予算」というコンセプトが大切だと思う。金をかけてお笑い芸人を大量に登場させるキー局の安易な番組づくりを真似る必要はさらさらない。低予算でもインパクトのある番組はいくらでも作れる。

 

また少し嫌味な話を書く。主婦向けの情報番組を担当したことがある。主婦にも政治に興味を持ってもらおうと始めたのが「県会議員ルーレット紹介」という企画。宮城県に64人いた県議をガラガラポンの抽選器で選び、県議番号と同じ玉が出たら、その県議の活動や政治信条などを10分動画で紹介するという斬新な?企画である。自民党から共産党まですべての県議にチャンスがあり、週に一人ずつ紹介した。視聴者より県議たちの反応がすごかった。「オレの番はいつだ」「抽選です」「知り合いの県議を優先してないか」「してません。生放送中に抽選しています」などなど。

山に登るからそこで話を聞いてくれとか、趣味の詩吟を紹介してくれとか、議会ではなかなか見せてくれない顔をのぞかせる県議が多かった。企画のネライ通りであった。これは、他の県でもやれると思う。一番のコツは県議を手玉に取ること。たかが政治家、遠慮することはない。

 

今、地方の地上波テレビ局は、ひどい財政難で苦しんでいる。もうテレビは成長産業ではなくなった。これからは、放送より通信。地方のテレビは地方のテレビなりの画期的なイノベーションを起こさないと即、斜陽化する状況にある。この地方テレビ局の窮状を救うのは、類型にとらわれず、後ろ指をさされながらも自由な発想を貫く若いディレクターたちである。

 

次回は約束通り、パチンコ大学でサブちゃんから聞いたストリップ劇場の話を投稿する。

  どうでもいい話⑦  ストリップ劇場物語

  「どうでもいい話/パチンコ大学編」にも書いたが、わたしは学生時代、パチンコ大学というユニークなパチンコ店で客から寄せられた川柳の編集のアルバイトをしていた。その社員食堂で知り合ったのが昔、ストリップ劇場でサンドイッチマンをしていたサブちゃん。そのサブちゃんから聞いたストリップ劇場の話を約束通り、投稿する。数日間にわたって聞いた断片的な話であり、こちらも記憶に誤りがあると思うから大幅に脚色している。ノンフィクションではなく、フィクションとして読んで欲しい。

 

   リリーと夫であった稔は、東北の〇〇県の〇〇町が企画した農業青年の韓国ツアーで知合った。韓国の繊維工場で働いていたリリーは、家族の勧めで彼らとの交流パーティに参加した。日本からの花嫁探しツアーとは知っていたが、リリーは結婚する気はまったくなく、パーティに参加することで得られるお金が目当てだった。しかし、稔に会ってその考えは変わった。彼の朴訥な性格にすっかり惹かれてしまったのである。リリーはこの時二十歳になったばかりだった。3か月後、リリーは同じ韓国の女性二人と一緒に〇〇町にやって来た。町では町長以下大勢が出迎えてくれて、三組の合同結婚式も盛大に行なわれた。

    稔との結婚生活は順調だった。稔の両親との仲もうまく行っていた。しかし、一緒にやって来た他の二人は、突然町から姿を消し、そのまま韓国に帰ってしまった。町の口さがない連中は、リリーもまもなく逃げて行くだろうとはやしたてた。稔はそれでも一生懸命リリーをかばってくれたが、リリーに対する町の人たちの不信感はなかなか消えなかった。稔の両親との間にもしだいにすきま風が吹き始め、結局リリーは稔と別れて町を出てしまった。稔は最後まで優しかった。農家の長男として家族を捨てられない自分を詫び、工面して作った30万円をリリーに渡してくれた。リリーは、その30万円は生活に困った時も絶対に使わなかったという。使ってしまうと余計に悲しくなるいう理由からだった。

この後、リリーは韓国には帰らず東京に出てストリッパーになった。コリアンバーにも勤めたが、日本人の機嫌を取りながら話をするのは苦手だった。リリーはソロダンスを専門に踊った。しかし、ストリッパーになって半年もしないうちに、事務所は本番まな板を要求して来た。ソロダンス一本ではなかなかスケジュールが切れなくなってしまったのだ。踊りの上手さから始めは人気もあったが、全国をひと回りするとあきられてしまっていた。後は本番か蛇しかないと言われたという。

  リリーは仙台で初めて本番まな板ショーの舞台に立った。楽屋にいる時は気が重かったが、いざ舞台に上がるとあまり抵抗はなかった。ラブイズオーバーの曲に乗ってリリーは踊った。この曲が終わるといよいよまな板ショーになる。その時、リリーの眼に入って来たのは客席にいる別れた夫の稔の姿だった。驚きのあまり踊りを中断してしまったほどだった。稔も恥ずかしそうにして顔を伏せている。彼は〇〇町から仙台の建設現場に出稼ぎに来ていて、たまたま入ったのがこのストリップ劇場だった。曲が終わり、場内アナウンスが本番まな板への誘いを入れると、数人の客の手が一斉に挙がった。リリーはあせった。別れた夫の前で他の男とのまな板など演じられるわけがない。リリーは思い切って稔を指名した。手を挙げた他の客からは不満の声が上がったが、一切無視した。リリーは嫌がる稔を強引に舞台に引き上げ、それでも逃げようとする稔の腰にしがみ付いて手早くズボンを下げた。パンツ一枚になった稔にもう恥ずかしさはなかった。リリーも変な小細工はせず、その場で身につけているものをすべて脱ぎ、丸裸になった。この大胆な行為に客席からは割れんばかりの拍手が沸き起こった。リリーは稔の下半身に手を移動してパンツをゆっくりと脱がした。その時だった。客席から三人の男が土足のまま舞台に上がって来た。

 『待て、そのまま動くな』 

 私服の警察官だった。場内のすべての照明が突然消え、満員の観客たちが出口に殺到して大混乱になった。しかし、稔は逃げなかった。暗がりの中からリリーの衣装を探し出してそっと身体にかけてくれた。稔を警察沙汰に巻き込んでしまったが、リリーは稔を舞台に上げたことを後悔しなかった。舞台に一緒にいる時に、稔がリリーの耳元でそっとささやいてくれたのだ。

 「ずっと好きだったよ」

 リリーにとって、それまで生きていて一番嬉しい言葉だったという。