天空の旅人 | 伊藤修二 「黄昏シンドバッド」

伊藤修二 「黄昏シンドバッド」

 ・・・仙台市在住。東北大学経済学部卒業 放送作家(日本脚本家連盟会員)  詩集「ひとり荒野」 小説集「明日。」 「セクシードラゴンの夏」などを出版。アマゾンの「伊藤修二」から購入できます。寄せられたコメントは公開していません。フォロワーも求めていません。

   

   天空の旅人

 この世の中に存在するものに永久不変なものはない。 例えば、きょうのあなたがいくら貧しくとも、 明日のあなたが再び貧しいわけではない。 永遠に変わらないのは、 私たちの命に限りがあるということだけである。 私たちのこの命が一度、尽きてしまうと、 もう永遠に復活することはない。 その恐怖から逃れるために、さまざまな宗教が生まれた。 すべてを神に委ねれば救われると説く宗教もある。 念仏さえ唱えていれば、黄泉の世界で生きられると諭す宗教もある。 一人瞑想し、自らを仏の境地に高めようとする宗教もある。 あるいは、特定宗教団体に多額の献金をすれば 極楽浄土に行けると言い放つ宗教もある。

 

  しかし、そんなたわいのないことは、きょうの問題ではない。 私たちの命には限りがあると正しく認識することで 逆に、あなたは力強く生きられるのである。 権力や財力に執着した者も、 それらを一切持たざる者も、 愛におぼれた者も、 愛することさえ躊躇した者も、 死ぬ時は、たったひとり。 だから、どうだろう。 私たちが永遠に命を絶つ運命にあるのなら、 この際、すべての緊縛から逃れて生きてみようではないか。カビの生えた常識や世間のしがらみ、この古い社会が強いて来る「同調圧力」など、すべてから自由になって生きてみようではないか。

 

 私たちの命は永遠ではない。 その死は明日にも訪れるかもしれない。 しかし誰もが体験したことのない、 あの見知らぬ星々の先にはかすかな希望があるかもしれない。 到達するのにさえ、光の速さで何十億年もかかるという 天空のかなたこそ、すでに神の領域なのかもしれない。

  だから、 私たちはこの地上での命が永遠に絶たれてしまっても、 「天空の旅人」として あの「神の領域」を永遠に旅することができるのだ。 すべての宗教的支配から逃れられた時、 初めて、わたしたちの「旅」が始まるのだろう。