どうでもいい話① パチンコ大学  | 伊藤修二 「黄昏シンドバッド」

伊藤修二 「黄昏シンドバッド」

 ・・・仙台市在住。東北大学経済学部卒業 放送作家(日本脚本家連盟会員)  詩集「ひとり荒野」 小説集「明日。」 「セクシードラゴンの夏」などを出版。アマゾンの「伊藤修二」から購入できます。寄せられたコメントは公開していません。フォロワーも求めていません。

 

どうでもいい話①  

パチンコ大学 

 

  あなたにとってはどうでもいい話を書く。それも昔の話だ。仙台市に「パチンコ大学」というユニークなパチンコ店があった。大学生のころ、わたしはそこでもアルバイトをしていた。ホール係ではなく三階にある小さな部屋で、店に寄せられた川柳や俳句をまとめて一冊の本に編集することだった。パチンコと川柳がどういう関係があるのか不審がる人も多いだろう。実際、東北大学学生課でアルバイト募集の張り紙を見た当時の私もそうだった。面接に行って、とんでもないパチンコ屋だとわかった。

 まず、店内でディスクジョッキーが行われていたのである。

   「いらっしゃいませ、いらっしゃいませ。毎度おなじみ、支配人の大場でございます。みなさま、お台の調子はいかがでしょうか。勝っても負けても楽しいパチンコ。勝っている人はすべてみなさまの実力のたまもの。負けている人はすべてわたしのせいでございます。しかし、パチンコに負けても人生には負けていないみなさま。これからも楽しくご遊戯くださいませ」。ここで、すでにパチンコ客からは万雷の拍手が起きている。

   「早速、午後三時の入選作をご紹介しましょう。将監団地にお住いの佐々木源太郎さんの作品。すっからかん バス代欲しい 川柳詠む。さあ、いい作品だと思う人は拍手してくださいね」 この大場さんのアナウンスにまたまた、大きな拍手。

 佐々木源太郎さんには大甘釘のオオバキュー台があてがわれ、バケツ一杯のパチンコ玉を獲得することにあいなった。佐々木さんは、これを換金して無事、バスに乗って帰宅したことだろう。このオオバキュー台こそ、大場さんが初めて仙台に持ち込んだ「フィーバーパチンコ台」であった。誰が遊戯しても出玉が良かった。川柳としては、他に「かあちゃん、鯖缶取った 今帰る」とか「パチンコや 隣の客は きれいな人」とか他愛のないものが多かった。でも、パチンコ店内の雰囲気を盛り上げる効果は絶大であった。

   大場さんの話で一番、面白かったことも書いておく。

   「パチンコでお楽しみのところ、まことにお邪魔様ですが、先日、聞いた面白い話をご紹介しましょう。これは四郎丸にお住いの、あるママさんバレーの選手、一応A子さんとしましょう。そのA子さんの週一回の練習の帰りのことでございました。なじみのガソリンスタンドに寄ってA子さんが言いました。【満タンでお願いします】 ガソリンスタンドの店員も、【はい、わかりました。奥さん、レギュラーですか】。するとA子さん、恥ずかしそうに【あら、レギュラーなんて、まだ補欠よ。でもいつかはなるわよ、レギュラーに!】 【はい!!了解しました、将来のレギュラー、満タン入ります】という大きな声がガソリンスタンドいっぱいに響き渡りました」  というような話だった。文字にすると面白くないと思うが、大場さんが話すと大うけであった。ちなみに、この話は後年、某落語家がマクラのネタとして使っていた。

 

    こんなに客との良好なコミュニケーションが取れているパチンコ店は、今もどこにも存在しないと思う。アナウンスしていたのは全国のパチンコファンから伝説の釘師と呼ばれていた大場さん。オーナーの吉田さんから高額の給料でスカウトされて、パチンコの本場・名古屋から仙台に移って来た人だ。

    さて、俳句や川柳をまとめて一冊の本にするという私のバイトだが、俳句だけでは紙面が埋まらないということで、パチンコ必勝法も載せることになった。それで、私は伝説の釘師から直接、釘の見方を教わることになる。(平成の風営法改正で釘の調整はメーカー主導になってしまった) 開店前の朝の7時半からおよそ一時間、先端にパチンコ玉がついた玉ゲージと小さなハンマーを持った大場さんのシゴトぶりを三日間、じっくりと見学させてもらった。「天の釘の左端の釘がどの方向を向いているかが第一のポイント」とか「チェッカーに誘導させる釘は直前の2本の釘ではなく、その手前の道釘がポイント」とか、夢中になって覚えた。今はすべてがデジタルのパチンコ台になったが、入賞に導くメインデジタルを回転させ、確変に持って行くには、今も釘は大きなポイントである。とにかく、大場さんにはいろいろなことを学ばせていただいた。つまらない東北大学の教授たちよりも知恵があり、はるかに人間性に優れた人であった。

  わたしが客からの川柳の投稿を整理していると、すべての投稿に住所、氏名があるのがわかったので、大場さんに顧客管理のデータベースづくりを進言したら即、了解してもらった。  この決断力の速さも大場さんの魅力である。今、全国のパチンコ店で顧客管理をして、店のファンクラブまであるところは皆無だろう。ほとんどが身分を明かさないで遊戯しているからだ。しかし、パチンコ大学は違ったのである。下は、大場さんに頼まれて作った「パチンコ大学の暑中見舞い」である。好きなように作っていいと言うので好きなようにコピーを書いた。いきなり、パチンコ店から夫に暑中見舞いのはがきが来て、驚いた主婦も多かったと思うが、その主婦もやがて夫と共にパチンコ大学で楽しく遊戯することになるのである。他の店より、女性客が多いのもパチンコ大学の大きな特長であった。

 

 ある程度のギャンブル性がないとパチンコ店の経営は成り立たないが、パチンコ大学では出玉をお金に換える客が少なかったと思う。店内に、今でいうコンビニのような景品交換所があったからだ。他店の景品交換所には、せいぜいタバコとかガム、チョコレート、缶詰の類ぐらいしかなかったが、パチンコ大学の景品交換所にはさまざまな食料品を中心に、靴下、化粧品、Tシャツ、エプロン、男女の下着、おもちゃ、映画のチケットなど実に多様な景品が置かれていた。景品を納入していた和浩という会社の若い担当者が、「大場さんが、次から次と新しい景品を要求してくるので困る」と嘆いていたのを覚えている。現在のパチンコ店でも、店内に小さなセブンイレブンがあれば、客も還元率が悪い現金ではなく、実利の景品のほうを選択するだろう。そして、そのようなパチンコ店は必ず繁盛する。令和のパチンコ店にもイノベーションが必要なのだ。そして、各コンビニチェーンも、パチンコ店という大きな市場を視野に入れた出店戦略を考えたほうがいい。

 

 パチンコ大学では出玉を現金化もせず、景品にも換えず、店内にあった「福祉の小箱」に寄付する客もたくさんいた。パチンコ大学は、このパチンコ玉の浄財を現金に換え、仙台市内の障がい者施設に寄付していた。これも他店ではありえないことだった。このことは地元のテレビ局にも知られ、大場さんとオーナーの吉田さん、客代表、そして、わたしがテレビ出演することになった。そのテレビ局の名は仙台放送。わたしが内定をもらっていたテレビ局である。なんと、入社する前にテレビ出演してしまったのである。 

 

  さて、パチンコ大学のバイト代はとても良かったが、それよりも嬉しかったのは、オーナーの奥さんが作ってくれる従業員のための食事だった。いつもおいしく、貧しい学生のわたしには宝物のようなごちそうであった。その昼ご飯は、昼前からサブちゃんと一緒に食べた。その後に、ホール係の従業員や和浩のような業者さんたちが交代で食べに来た。

  サブちゃんは、仙台市内のストリップ劇場のサンドイッチマンをしていた人だが、劇場が火事になったので一時、職を失っていた。その新聞記事を読んだ大場さんがパチンコ大学の清掃員としてサブちゃんを雇い入れていた。サブちゃんは足が不自由だったが、とても働き者だった。パチンコ大学の前だけを掃除すればいいのに、店がある名掛丁のすべての通りを掃除した。大場さんが、店の前だけでいいよと言っても、隣の店の前が汚れていれば掃除してしまうし、その隣の店の前も汚れていたら掃除してしまう。結局、通り全体を掃除してしまったと笑いながら弁解した。当時の名掛丁に店を構えていた商店は人情味が厚く時々、掃除してもらったお礼にとサブちゃんに菓子などの差し入れなどがあった。古き良き時代である。サブちゃんは街のヒーローだった。のちに、地元の河北新報の紙面に半年間、コラムを書かせていただいた際に、サブちゃんのことも書いた。わたしにとっても、サブちゃんは偉大なヒーローだった。

 サブちゃんは口数の少ない人だったが、一緒に食事しながら、ぼそぼそとストリップ劇場のおもしろい話をたくさん聞かせてくれた。それは後日、投稿する。

    次回も、あなたにとってはどうでもいい話の続きを投稿する。ストリップ劇場はその後。