どうでもいい話⑤ 仙台放送  | 伊藤修二 「黄昏シンドバッド」

伊藤修二 「黄昏シンドバッド」

 ・・・仙台市在住。東北大学経済学部卒業 放送作家(日本脚本家連盟会員)  詩集「ひとり荒野」 小説集「明日。」 「セクシードラゴンの夏」などを出版。アマゾンの「伊藤修二」から購入できます。寄せられたコメントは公開していません。フォロワーも求めていません。

どうでもいい話⑤ 

仙台放送   

 

  大学の学部の成績が「CCレモン」の最低の成績なのに仙台放送に合格したと東北大学編に書いた。まったく就職する気はなかったが、フランスから帰って来てから、無頼な生活から少しはまともな生活をしなければならない事情に迫られた。詳しいことは書かない。

 

 経済学部では、ほとんどの就職がゼミの教授の推薦で決まっていたので、学生課の求人板にはあまり「物件」がなかった。教授の推薦枠があまりなく、自分で就職口を探さなければならなかった文学部に行って仙台放送への提出書類をもらった。仙台放送がどこにあるのかもわからなかったが、何よりもかなり報酬が良かったので応募した。仙台の試験会場という一番町の星和ビルで大勢の学生たちと一緒に試験を受け、しばらく経ってから面接に来てという知らせがあったので、友だちからスーツを借りて面接に臨み、それで合格した。わたしの身長は183センチ、友だちの身長は174センチ。かなりきついスーツだったが、リクルートスーツなどはなかったからしかたがなかった。

 卒業証明書をもらう都合上、学生課に就職内定を報告したが「あなたが・・・」と言われた。授業には出ない。図書館から借りた本はなかなか返さない。勝手に一年間、休学した。就職説明会には一度も出てこない。会社訪問はどこにも行っていない。求職票も出していない。わたしの評判は最悪だったのである。
 

 さて、なんとなく入社させてもらった仙台放送だが、ここは本当にいい会社だった。ボーナスは10か月分とプラス2か月分もらっていた。現在はそうではないみたいだが、他よりは平均年収は多いだろう。ずっと番組制作部と報道部という現場仕事で、入社3年目あたりからは好きなことがけっこうやれた。しかし、最初から40歳になったら辞めようと思っていたから40歳で辞めた。

   顔を知っている現役の後輩がまだいるので、あまり批判めいたことは書けない。いい会社だったとだけ書いておく。辞めた時の代表取締役会長だった植村泰久さんのことは書かなければならない。一番、お世話になった人だが、他の社員にはずいぶんと誤解されていた人だったから少しフォローする。

  わたしと植村さんが親しくなったのは、植村さんが社長の時代。わたしが三十歳前半のころである。きっかけは、わたしが地元紙の河北新報に依頼されて半年間、夕刊に連載していたコラムだった。もちろん、このコラムは人事部の了解を得ての連載であった。当時は副業などは認められていないし、なにしろ河北新報社はライバルの東北放送の親会社だったから、コラムを連載することに反対の役員もいた。 

 午後4時ごろ、コラムが載った夕刊を手にした植村社長がいつも、平社員のわたしの席にそっと来た。いつのまにか後ろに立っているいう感じで、わたしは隣の異常なほど出世志向の強い(例えば血糖値が高いと出世に響くとばかり社内健診の一か月前から断酒する)上司がガタガタと椅子から立ち上がり、直立する音で気が付いた。さて、植村さんの話すことはいつも同じ。「君ね、きょうのコラム読ませてもらったよ」と言い、ちょっとした感想を付け加えてから、また静かに戻っていった。植村さんは、元経団連会長の植村甲午郎さんのご子息で、その血筋の良さと群れるのがあまり好きでない性格からか、なんとなく距離を置く役員や幹部社員が多かった。ほとんどゴルフをしないというのもその理由だったかもしれない。しかし、実際の植村さんはとても物わかりのいい人であった。

 河北新報の連載コラムで、「街のヒーロー」として紹介したサブちゃんのことにも興味を示されたので、パチンコ大学でのサブちゃんとわたしとのいきさつを話した。経団連会長を父に持ち学習院大学を卒業した植村さんと、中卒で左足に障害を持ち、ストリップ劇場のサンドイッチマンをやりながら、死ぬか生きるかの瀬戸際の生活をしていたサブちゃんだが、植村さんはしっかりと話を聞いてくれた。パチンコ大学に清掃員として雇ってくれた大場さんに感謝し、いつもおいしい料理を作ってくれるオーナーの奥さんに感謝し、わたしと一緒に昼飯をごちそうになる時は、丁寧に両手を合わせてから食べていたサブちゃん。街を行く人たちから「サブちゃん!」と声をかけられると、いつも手をあげて応えていたサブちゃん。商店街の人からお菓子をもらうと私にも分けてくれたサブちゃん。この街のヒーローに植村さんも感心していた様子だった。

 

 さて、「仙台放送花見の会」にも、植村さんは役員の中では唯一、毎回参加してくれた。少しこの会について話すと、仙台放送の旧社屋時代に大道具室の近くに大きな桜の木が三本あり、毎年、見事な花を咲かせていた。総務部の許可を得て始めたが、一回目の参加者は30人ぐらいだった。コンクリートの地べたにブルーシートを敷き、その上に番組で使う畳を20枚ほど並べた。酒の肴は会社の食堂の親方に頼んで、から揚げやラーメン用のメンマ、漬物などを破格の特別料金で用意してもらった。夕方の17時半過ぎ。仕事終わりで桜を観る会がスタートしたが、そこに植村社長がひとりで現れたのである。幹事のわたしに一万円札を渡すのだが、「会費は二千円なのでお釣りは後から持って来ます」と言うと、もちろん、そこは「釣りはいらないよ」とニコリと笑った。「社長から一万円、いただきましたあ」とわたしが叫ぶと、万雷の拍手がわき起こった。植村さんも終始、わたしの隣にいて楽しそうに飲んでいた。

  

 花見の会は何年か続いた。わたしがずっと幹事役で植村さんも欠かさず参加してくれた。しかしである。社長が野外の殺風景な社員飲み会に参加してくれているのに、他の役員や幹部社員は誰ひとりとして参加しない。新人女子アナが初めて原稿を読む昼ニュースの時間に、つるんで鉄塔下の芝生でパターの練習をしていた連中である。悔しいから考えた。次の年からは、夕方になってから番組で抽選用に使っていた透明なアクリル製のボックスを玄関口に置いた。「花見の会へのカンパをお願いします」という張り紙と共に。そしたら、帰宅するために出て来た他の役員や局長クラスが財布から万札を取り出しボックスの中に入れてくれたのである。透明のボックスの中には見せ金の一万円札を入れていたし、花見の会場からは丸見えの場所だった。もちろん、スルーするケチな役員もいたが、おそらく、わたしは彼らにひどく憎まれたはずである。昔の役員の話だ。今は、優秀な役員が二人いる。
 

 花見の会の後は、「デンキブランを飲む会」や「バス通勤友の会」などいう社内横断の飲み会を作った。バス通勤友の会は、わたしが運転免許の更新を忘れて失効し、バス通勤を余儀なくされた時に作った。「今や、バス通勤はスポーツ感覚で楽しむ時代になりました。バスの急停車や坂道発進で鍛えられる調和の取れた身体は朝のジョギングなどでは得られるものではありません。仙台放送バス通勤友の会は野草園行きバスに感謝し、あわせて世界の交通安全、車掌はきれいな女性にしてという願いを込めて発足しました」というのが発会時の口上書きだった。

 17時48分仙台放送前発のバスに乗り、仙台駅前で降りたら、みんなで焼き鳥屋で飲む会だ。バス通勤している女子社員が多かったから、こちらにはその美しい女子社員たちが数多く参加してくれた。男女平等、たとえ上司でも酌はしない、手酌が基本というルールもあったからだ。例会がある日だけ、マイカー通勤からバス通勤に代えた男性社員も何人かいた。その様子を「知的バス生活のススメ」と題して社報に書いたら、また植村さんがわたしの席にやって来た。「そんなに楽しいの」と悔しそうな様子であった。植村さんはいつも運転手付きの社長車で帰るので参加資格はなかった。

  

 ところで、みなさん。運転免許の更新は忘れずに。失効すると新たに免許を取るはめになるが、これがけっこうしんどい。路上での技能試験では現役の警察官が試験官として助手席に乗る。教習所の優しい教官とはまるで違うのだ。まず「始めなさい!」で左右を確認しながら車に乗り、その後もすべて命令調。「そこを左折!」。そして、交差点に差し掛かると「けさは、何を食べた?」と聞かれた。いきなり何だよと思って、にやけながら助手席の試験官を見たら「脇見運転」で大幅減点になる。わたしは、まっすぐ前を向いて「納豆ご飯を食べました」と返答した。30分ほどの路上試験が終わってから聞いてみた。「朝ごはんのことはみんなに聞くのですか?」。すると試験官は「たまたまだよ」と言って初めて笑った。それでわたしは合格した。生うにたっぷり丼とかビーフストロガノフではなく、納豆ご飯と答えたのも良かったのかもしれない。また脱線した。どうでもいい話の投稿だからいいよね。

 

 その後、植村さんとそっと二人で飲む時は、文化横丁の中年夫婦だけでやっている小さな寿司屋が多かった。わたしが顔を出すと、女将さんがすぐ隣の小さな厨房に行って卵焼きを焼いてくれた。おそらく優しい植村さんが若いやつが来たらすぐ卵焼きを作ってくれと頼んでいたのだろう。わたしは、そのぶ厚い卵焼きをふうふうして食べた。それ以来、寿司屋で熱々の卵焼きは食べたことがない。卵焼きは長年の経験と熟練した技が必要なのだ。仙台には五橋にいい卵焼き専門店があったから、ほとんどの寿司屋がそこから取り寄せていた。

その寿司屋の後は、隣のビルの二階にある汚いバー。そこのマスターはわたしより若いのだが、植村さんを「おい、植村!、いつものやつでいいのか」と呼び捨てにした。仙台放送の代表取締役社長をである。それでも、植村さんはニコニコと笑いながら飲み続けていた。そのマスターは誰が来てもすべて呼び捨て。年上のわたしも「おい、伊藤!」だった。きっと植村さんは、職業や年齢で客を区別しないこの若者の流儀が気に入っていたらしい。

 植村さんとはいろいろな話をした。役員人事のこと、繰越金の運用方法、富谷と利府にある塩漬けになっていた所有土地の問題など、およそ平の社員には話してはいけないことばかりであったが、少しは詳細に意見を言った。役員報酬はもらっていないのにである。そして植村さんはいつも、この店でダウン。わたしが肩を支えながら、プレジデント一番町という高級マンションの玄関先まで送り届けた。

植村さんは、わたしが会社を辞めてからも秘書の山下さんを通して、酒に誘ってくれた。しかし、中途で会社を辞めた罪な人間とその会社の取締役会長がつるんで飲むのはいかにもまずいと、一回だけつきあって終わりにした。

 

  植村さんは4年前に鬼籍に入られた。東京の奥様から知らせをいただいた時はとても悲しかった。お嬢さんが日本航空のキャビンアテンダントに合格したとわたしに教えくれた時のあの嬉しそうな親バカ顔が今でも忘れられない。社内ではあまり話をする人がいなかったようだが、ダンディでとてもセンスのある生き方をする人だった。社長だと言ってそっくり返っているような人間は、あの汚ない文化横丁の呼び捨てバーには絶対に行かないだろう。

 

 植村さんとはまったくタイプが違うが、仙台放送にはさらに尊敬する先輩がいらした。ご存命なので実名は避けるが、実に正義の人、あっぱれな人であった。上司に媚びることはほとんどなく、常に自分の信念を貫き通していた。それがわたしにはとても新鮮だった。当然、役員などにはなっていない。役員にならないことが大きな勲章でもあった。仙台放送を辞めてから国際ボランティアの道に進まれた。出世志向の人は、メディアに職を求めてはいけないと思う。出世より信念である。

 

 ちょっとだけ、仙台放送時代の仕事の話をする。現役後輩には影響のない話だからいいだろう。報道部の記者時代のニュースである。宮城県警の記者クラブにいたら、デスクからきょうのニュースが埋まらないから三越ギャラリーに行って、〇〇派のいけばな展を90秒で作れという指示があった。こういうのをどうでもいいヒマネタという。デスクのチェックも適当である。さて、カメラマンと会場に行くと着飾ったご婦人方がわんさと寄って来た。いっぱい撮影してくださいねとか、支部長の作品がいいですわよとか速射砲のように言われたが、受付に「高級な来賓」が姿を見せたらしく、ほぼ全員がそちらに移動してしまった。残ったのは見るからに地味な女性一人だけ。彼女だけがパンフレットの整理とか、花器からこぼれ落ちた花びらとかを掃除したりしていた。「これらの作品の材料費ってわかりますか」「はい、ルールはないのですが、みなさん、ランクが上の方のお花代よりは上回らないように工夫なされているようです」「お花代も厳しい序列世界なのですね」。それで、決まった。花の材料費の高い順番から見せていったほうが、少しは視聴者に興味を持ってもらえるだろうと思ったのである。一位、推定16万5千円。確かゴーストウッドを中心に花をアレンジしていた作品だった。そして二位、三位と撮影して行くうちに、とんでもない生け花に出会ったのである。

 深さ8センチぐらい、直径60センチほどの白い花器の中央にある剣山の上に赤いバラが一輪だけ横たわり、薄いピンク色に染められた水にはバラの花びら一片が静かに浮いていた。まるで、親しい人の棺の上に置かれた一輪の白菊、山口百恵がラストステージで舞台にそっとおいた一本のマイクのように美しかった。まあ、言葉ではなかなか伝えられないが、実に見事な花の表現であった。感動したわたしは、50秒をどうでもいい花材料費ベスト5の紹介にあて、残り40秒はこの作品だけに集中しようと思った。それまではノーライトで撮影していたのだが、これにだけには強力なバックライトを当てて深みを持たせるようにした。さらに、会場のFFからズームアウトしながらドリーインして生け花に近づき、そこから花器に横たわるバラの1Sから水に浮かぶ花びらへとゆっくりパンダウンさせ、なおかつフォーカスインするという演出を施した。「芸術の真実は金銭には左右されない。この作品は自宅の庭のバラだから材料費はゼロ」などという極私的な誉めの原稿も入れた。

 この作品の作者はひとり残って、わたしに説明してくれたあの地味な女性だった。日頃から尊敬していた東北放送の門間カメラマンからも「俺も撮影に行ったけどさ、あんなことされちゃな、負けたよ」と珍しく褒められた。彼は古川高校という田舎の高校の先輩でもあった。評判はまずまずだったが、次の日、この流派の代表者から名指しで抗議の電話があった。序列を乱したのだ。もちろん無視した。昔の話だ。現在の華道界は、いいものはいい。ダメなのはダメという序列に関係なく評価する本来の雅な世界になっているはずである。そして、高価なゴーストウッドは業者から買うのではなく、自分で山中の湖に分け入って苦労しながら探すべきであり、使用する花も、自ら種をまいて育てた花のほうがいいし、そうすべきである。それでこそ、華道としてのいけ花の価値が出て来る。

 

 正直、報道部の仕事はまったくつまらなかった。決められた時間に出社するというのがまず嫌だったし、毎日のサツ回りも面白くなかった。ネタが少ない地方の警察や役所に日参しても得るものはほとんどない。いざという時の顔つなぎでしかなかった。記者クラブもわけのわからない場所だった。警察や役所の広報は企画ニュースをくれるわけではない。記者クラブのつまらない発表ネタに頼っていると、どこのテレビ局も横並びのどうでもいいニュースになる。今もそれは変わらないだろう。仙台中央署の副署長あたりからリークされて、ヤクザ屋さんが3グラムの覚せい剤を持っていたことをニュースにして得意になっていた先輩記者もいたが、知事が覚せい剤を持っていたらニュースだが、ヤクザ屋さんの3グラムはそれほどのニュースでないと思っていた。だから再び、番組制作部に移された時はホッとした。ここは、自分で仕事が管理できていれば、出社時間も退社時間も自由だった。束縛されたくない。それだけがわたしの流儀だった。

 

 次は、その番組制作部での仕事。一年半にわたって美しい風景とそこに暮らす人々を追いかけた番組を制作した。最初の一週間は図書館にこもって、東北の地元紙のライブラリーや農業新聞、情報誌などを読み漁った。八森で昔ながらの丸木舟でハタハタ漁をしている人たちや、下北半島で中古バスに生鮮食料品を満載して販売している元演歌歌手、徒歩でしか行けない八甲田山中で古びた温泉宿を営む老夫婦などを見つけ出した。それらの人たちとの打ち合わせや風景のロケハンのために、会社の金で自由な一人旅を二か月間も続けた。仙台放送には本当に感謝している。

 

 「ファンジー紀行・北の風景」という番組である。文化庁の芸術祭にも出したが、かすりもしなかった。保存形式が今とは異なっているから仙台放送のライブラリーにも残っていないだろう。わたしは、一インチのVTRからダビングを繰り返して、今はブルーレイで所有している。40年近く前の番組だが、だいぶ前にどなたかが、フジテレビで放送したものをニコニコ動画に投稿しているようだ。画質が粗く、CM部分をカットして三部作のようになっているが、本来はCMを入れて74分の番組である。著作権管理がどうなっているのかわからないが、興味がある方はニコニコ動画へ。

  今年は東日本大震災から10年。撮影した風景の中には、大震災で崩壊してしまったものもある。再び、これら東北の大地を一人旅したいと思っている。

 

 わたしは、予定通り四十歳で会社を辞めた。その後のことなど何も考えていなかった。なんとかなるだろうぐらいの気持ちだった。しかし、辞めた次の日、東北放送の東京支社の見知らぬ人から「東北放送でも仕事をしてくれるのでしょうか」と電話があった。その次の日は仙台市内の制作会社からも具体的な仕事のオファーが来た。失業保険をもらって数か月は休もうと思っていたが、そうも行かなくなった。この文章を読んでいる人には不愉快だろうが、大手広告代理店からテレビCM制作の話が来るわ、某大企業から企業紹介のビデオ製作を依頼されるわで、大変だった。いわゆるたった一人の個人事業主だから代わりの人間がいない。すべて自分一人でこなさなければならなかった。気がついたら、最初の一年でテレビ局時代の年収を軽く越えていた。不思議な感じであった。とにかく、いろいろな人に感謝しなければならないなと思う。そして、後年はあんなに嫌っていた東北大学の仕事もやることになった。海外向けの学生募集ビデオと、理系女性教授の紹介ビデオの台本や、しまいには東北大学創立100周年記念番組の台本まで書かされてしまった。しかし、同窓会の会費は一切、払っていないし、所属したくもない。

 

 ここまで書き終わった後、ユーチューブで長谷川きよしさんのライブ映像を観た。長谷川さんもわたし同様に年を重ねて来たのに、昔のままの澄んだ美しい高音と巧みなギターテクニック。さすがである。仙台放送時代、盛岡や青森などに向かう途中、仙台駅で下車した長谷川さんから何度か電話があり、駅前のホテルでお茶を飲んだ。「仙台の街はもう色づいていますか」「まだですね、あと二週間後でしょう」「楽しみですね」というような、いつも他愛のない会話だった。しかし、二人で黙ったままお茶を飲んでいても優しさがにじみ出るような人だった。まだ二人とも若く、30代の頃の話だ。

 

 苦しい時はいつも、長谷川さんの「別れのサンバ」と「愛の賛歌」を眼を閉じて聴いた。ひとり息子を失った時も眼を閉じて聴いた。東日本大震災で自宅前の道路が大きく崩落した時も眼を閉じて聴いた。長谷川さんの歌は救いの歌であった。きっと、あなたにとっても長谷川さんの歌は心の底にまで響く歌になるはずである。

 「愛の賛歌」が歌える歌手は世界に3人しかいない。エディット・ピアフと越路吹雪、そして長谷川きよしである。今は、長谷川さんだけがあの美しい声で歌い続けている。

 

「Hymne à l'amour」の一部と勝手な訳詞。

越路さんが歌う岩谷時子訳詞の愛の賛歌はピアフの歌とはまるで違う歌。長谷川さんが歌う栗原野里子訳詞のほうがピアフに近い。わたしもリズムを度外視してサビの後半部分だけ訳詞した。ピアフの愛の賛歌は甘美な愛の歌ではなく、どちらかというと逃避行に近い愛の歌である。

 

Si tu me le demandais.

J’irais décrocher la lune,

J’irais voler la fortune,

Si tu me le demandais.

・・・・・・・・・

 

あなたが望むなら

わたしは 月にだって行く

あなたが望むなら

わたしは 盗みもするだろう

 

あなたが望むなら

わたしは 国を捨て 友も裏切る

あなたが望むなら

人にどう思われようと 何でもする

 

いつか 運命がふたりを引き裂くだろう

でも あなたが死ぬときは

わたしも死ぬとき

あなたが愛してくれるなら それでいい

 

わたしたちは

一緒に あの果てしない空に旅立つ

もう ふたりに悔いはない

 

 

 こんな愛に恵まれた人は幸せだと思う。

 「愛の賛歌」を聴くなら、長谷川きよしに限る。越路吹雪の歌詞では、本当の愛がわからない。