どうでもいい話③ 秋保の高級旅館  | 伊藤修二 「黄昏シンドバッド」

伊藤修二 「黄昏シンドバッド」

 ・・・仙台市在住。東北大学経済学部卒業 放送作家(日本脚本家連盟会員)  詩集「ひとり荒野」 小説集「明日。」 「セクシードラゴンの夏」などを出版。アマゾンの「伊藤修二」から購入できます。寄せられたコメントは公開していません。フォロワーも求めていません。

 

どうでもいい話③ 

秋保の高級旅館  

 

 さて、わたしはふしだらな学生生活を送りながらも、フランス留学を画策していた。大学の授業には出ていないし、就職する気持ちもまったくなかったので、いろいろな人生の選択ができたのだ。留学するには、今まで以上にアルバイトで金を稼がなくてはならない。そこで住み込みで働くようになったのが、秋保有数の高級旅館であった。ここにも大きな恩義がある。

 

  この旅館は、大学のアルバイト係の紹介ではなく、河北新報社の求人広告を見て応募した。フロント係だったが、一週間後に会計主任の女性が突然、辞めたので、わたしにその仕事がまわって来た。東北大学経済学部の学生だから会計には詳しいだろうというのが旅館側の考えだった。いやいや、わたしは授業に出ていない経済学部の学生であって、会計のノウハウなどはまったく知らなかった。しかし、退職する会計主任の女性が負い目を感じたのか、一日がかりで指導してくれたおかげで、なんとか初歩のホテル会計はマスターすることができた。最新の会計システムを導入していたから、その操作を学べばなんとかできたのだ。この旅館は今は、日本を代表する大きなホテルになったが、当時は従業員四十人ぐらいの温かみのある旅館だった。そして、ここは、わたしにとって人生最初にして最高の楽園でもあった。

 

  会計係は、朝の六時から十時まで、そして午後は四時から九時までが基本の勤務時間だった。その間は、自由に時間が使えた。客がいない時間は温泉にも入れた。午後の時間は主にフランス語の勉強に充てたが、掃除パートのおばさんたちが特別に、私の勉強部屋になっていた観光バスの運転手さん用の小さな部屋を一番最初に掃除してくれていた。みんな本当にいい人たちだった。昼ご飯も、その掃除のパートおばさんや雑務係のおばさんら十数人と一緒に食べた。おかずに前夜の宴席で手が付けられなかった鮎の塩焼きがよく出た。仲居さんがパートのおばさん用にときれいに取り分けてくれていたのだ。まかない係のおばさんが、その冷めて固くなった鮎を塩を入れて煮切った日本酒の中で一度洗った後、再び木炭コンロで焼いてくれた。これが実においしかった。要するに鮎の酒びたし焼きである。なんでも、そのまかない役のおばさんの夫はアユ釣りの名人で、釣った鮎は一度焼いてから数か月間、天日に干し、正月に酒で戻して食べるのだそうであった。だから、このまま客に出しても喜ばれるような出来栄えになっていた。掃除のおばさんたちは、調理長より料理が巧いと笑っていたが、わたしもそう思った。朝の会計の時に、料理への不満を訴える客が多かったからだ。おそらく、社長も女将さんもそう思っていただろう。それほど料理に工夫がなかった。かといって簡単にクビは切れない。他の温泉地も同様で、全国の旅館の調理師たちは都道府県の調理師会からの推薦で入って来ているからクビにしたら、後釜の調理師を入れてもらえなくなるのだ。昔はそうだった。今はワカラナイ。

  旅館はどこも、調理師がいなければその日の営業が成り立たなくなる。「渡りの調理師」を探すにしても時間がかかったのだ。ここに、現在の旅館の最大の欠陥があるかもしれない。調理長、調理師が幅を利かせている旅館は経営も怪しいと思う。逆に調理長が腕が立ち、あまり野心がない調理長なら、このコロナ禍でもやって行けるだろう。単に高価な本マグロの大トロを膳に乗せて満足しているような調理長はダメで、その大トロの柵をさっと湯通ししてから、自家製梅干しを使った煎り酒につけて食べさせるとかの工夫がある調理長は旅館にも繁栄をもたらすということである。

 

  当時の旅館の大風呂は混浴だったので、客が寝静まった頃、フロント主任と大風呂に入っていると、よく仕事終わりの芸者さんたちも入って来た。「いい?」とは言って入って来るのだけど、混浴である。断る筋がない。わたしとフロント主任はお互いスッポンポンのまま、芸者さんたちとお風呂談義していた。ニコニコ顔の芸者さんに背中を流してもらえる。そんな学生はおそらくいなかっただろう。
   ちなみに、わたしが贔屓した芸者さんは千代屋の一也姐さんと小春さん。チップが弾む他県からの政治家たちの宴会には決まって、一也姐さんと小春さんを入れた。アルバイトの会計係はいつのまにか芸者さんの手配までするようになっていた。一也姐さんの三味と小春さんの踊りは美しく、芸術そのものだった。広島県の県議団の宴席では、合わせて四万円(現在では十二万円ぐらいかな)のチップが、小春さんの和服の胸に入って来たと、のちに小春さん自身から聞いた。酔った政治家はいいカモだった。視察と称して、税金で遊びに来ていたわけだからカモになってもしかたがない。現在の広島県議団はそんなことはしていないだろう。視察は視察、私的な観光は私的な観光と区別しているはずである。誰も政務調査費を使って旅行はしていないだろう。と思う。

 

  旅館では三食付きで住居費も無料。下着などの洗濯も雑務係のパートのおばさんが一緒に洗ってくれたから、金の使いようがない。バイト代をそっくり貯蓄に回すことができた。まさに天国であった。フランスなんかに行かないで、このままこの旅館に居座ろうと思ったほど居心地が良かった。給料以外の収入としてチップもあった。朝食の前に会計を済ませた人たちが宿泊代金の釣りをチップとして置いていくのである。そのチップはかなりの額になり、プールしておいてフロントの人たちに分配した。しかし、それは仲居さんたちから文句を言われる原因にもなった。それまでは、仲居さんが勘定書きを部屋に持参して、その釣りは仲居さんたちの貴重な収入源になっていた。ところが、わたしが会計係になると、みんなフロントの会計で清算するようになったのだという。仲居さんが怒るのも当然である。集団でわたしのところまで文句を言いに来た。そこに割って入ったのが、若くてきれいなR子さんだった。「ねえ、みんな、伊藤さんが夜、フロントに来たお客さんたちに丁寧に仙台の観光案内しているのを知らないの。チップは一番親切にしてくれた人にあげたいというのがお客様の気持ちではないの。特にお年寄りはね、ちょっとした親切が心に響くものなのよ」というようなことを言ってくれた。30代のR子さんが、60代のキヌさんや50代の里子さんたちをたしなめたのである。R子さんは横浜のヤクザ屋さんから逃げて来た女性といううわさがあったが、もしかしたら本当だったかもしれない。R子さんの迫力に他の仲居さんは何も言えなかった。

    確かに、わたしは仙台での観光を尋ねて来たお客さんに、ガイドブックにはないところも紹介していた。庭がきれいな輪王寺とか、花が好きな人には無料の養種園を勧め、その前にある江刺家のおいしい揚げパンなども交通手段と一緒に教えていた。実際に江刺家の揚げパンを食べながら養種園のバラ園を楽しんでいたし、バイト先の裏千家の知り合いに連れられて輪王寺の茶会にも行っていた。しかし、仲居さんのことも考えて、チップは仲居さんにも分配することにした。わたしの取り分が少なくなるがしかたがない。その仲居さんたちにも休み時間に個人的にお茶とお菓子をごちそうになるなど、ずいぶんとお世話になっていたからだ。

 

  R子さんはとにかくきれいな人だった。本館のすべての風呂が定義参拝の日帰り客でいっぱいになった日、わたしは自炊部のお風呂に一人で入っていた。そこに、「お邪魔するわよ」とR子さんが丸裸のまま入って来たのだ。ここの風呂も混浴なのであたりまえのことなのだが、憧れのきれいなR子さんである。身体の線が少し崩れかけていた芸者の花丸さんたちとは違うのだ。ツンと上を向いているふたつの乳房、引き締まった白い肢体、形のいいお尻、そして身体の中央にある黒々とした小さな繁み。R子さんはそれらをまったく隠さず、湯船の中のわたしの前を行ったり来たりしているのだ。21歳のわたしは不思議と性的に興奮するわけでもなく、美術品を見るように髪を洗うR子さんの後姿をずっと見ていた。15分ほどしてから自炊部に逗留しているお婆ちゃんたちも入って来て、極楽浄土の美術館はやがて、民謡アカペラの賑やかな社交場になった。

 

   半年過ぎて、フランス留学資金もかなり貯まり、ソルボンヌ大学からも入学許可書が届いたので、旅館を辞め留学の準備をすることになった。東北大学にも一年間の休学届を出した。

ソルボンヌ大学の入学許可書の一部

  旅館での最終日、R子さんがフロントに来て、わたしに封筒を手渡した。「あなたから分けてもらっていたチップ分と私からのささやかなお餞別よ」。周囲に誰もいなかったら、わたしはR子さんをきつく抱きしめていたことだろう。

 フランス留学については、次回の「どうでもいい話④」に書く。