文脈主義と選択的文脈化――オープンレターの署名者としての覚書 | 埼玉的研究ノート

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特定のスタイルを気にしない歴史と社会についての覚書。あくまでもブログであり、学術的な文章の基準は満たしていません。

私も署名した下記のオープンレターについて、これがもとで呉座氏が勤務先の日文研から「内定取り消し」(任期なしポストへの移行の取り消し)となったとして、オープンレターに責任がある、これはネットリンチだ、もしこの事態を想定せずに署名したのなら馬鹿だ、これだから人文系は云々、という議論がツイーターを中心に出回った。

 

 

このレターを素直に読めば、呉座氏一人になすりつけてトカゲの尻尾切りすれば済む問題ではなく、むしろ、悪しき文化に呉座氏自身が流されてしまった部分があり、それこそを断ち切らなければならないということしか書かれていない。日文研が厳重注意を行うことですでに呉座氏は処分を受けたので、むしろ処分されないままの、この悪しき文化の他の担い手全体を問題にしなければならないというニュアンスである。

 

「中傷や差別を楽しむ者と同じ場では仕事をしない」というレターの記述が日文研をして呉座氏を遠ざけたとの理屈を立てる者も見られたが、呉座氏はこのレターが出る前にすでに真摯な反省を述べ、ツイッターもやめているから、過去において「楽しんだ者」ということであって、現在「楽しんでいる者」ということにはならない。呉座氏の解職を求めているとする解釈は、結果のみから判断した合理性を欠く文脈化である。

 

それにしても、なぜこのようなすれ違いが起こるのか。そのことについて考えてみたい。

 

差別というのはあくまでも社会的なものである。単にある人が別のある人を嫌いで攻撃をするというだけでは差別ではない。単なる中傷や暴力である。

 

社会的属性に基づいて個人を判断するとき、そこに差別が発生する。このブログで以前書いたように(以下の2つの記事)、それは「差別」と明示されるときのみに発生するのではなく、様々なところで日常的に発生していて、特に目に余るものが差別認定される。

 

 

 

ネット上では、この件に限らず、差別でないものが差別認定されていると憤慨する意見が多いように思うが、実際には、差別認定されるのは差別のなかの一握りに過ぎない。

 

では、どのようなときに差別認定がなされやすいのか。それは、「社会的なもの」(緩やかにであれ人びとがまとまっている状態)が巨大で、被差別者に大きな不利を強いる場合である。

 

いわゆる部落問題において、例えば、非部落の人が被差別部落の人に属性に基づく悪口を言った場合、それは間違いなく差別とされる。それは、非部落のほうが明らかに巨大で、そことの関係を断たれることは被差別部落の人びとにとって大きな不利益になるからである。

 

逆に、部落の人が非部落の人に対して、非部落の人だという理由だけで悪口を言った場合、それも個人を属性で判断した点で差別に含まれる。だが、もちろん決して褒められたことではないが、一般には非難される度合いは小さい。これは部落の人に対して遠慮しているというよりも、非部落のほうが圧倒的に大きいので、部落の人から関係を断たれることによる不利益は一般的には小さく(もちろん、例えばその個人が部落の人のみを相手に商売しているなど、特別な状況があれば別だが)、また、一般的に部落のほうが差別被害に遭うことが多いという、社会的な非対称関係による。

 

もちろん、非部落のなかにも貧しい人、様々な理由で不遇にある人は決して少なくないだろう。しかし、それはそれとして、社会内の格差調整の問題であって、部落-非部落という社会間の問題ではない。

 

部落/非部落という線引きは社会的なものである。部落差別が激しい地域においては、非部落の人びとは、薄くであれ被差別部落に対して否定的感情を一様に持っている。それに対して個人で対峙することは不可能である(せいぜい、個別に「善良な部落民」のポジションを得られるかもれない、というぐらいである)。

 

力のある側の社会は、その成員は大抵は意識していないが、その存在自体が、力のない側にとっては潜在的な脅威である。まとまって襲われたらひとたまりもないからである。

 

男/女の問題はこれより複雑ではある。まず、ほぼ同数であるので、数による有利不利は全人口で見れば存在しない。数が多い分、身近な事例も多様であり、あるところでジェンダーの問題だと言われていることが、身近な例でピンと来ないということもあるだろう。ただ、逆に言えば、どちらかが数で圧倒しているわけではないので、巡り合わせによっては、部落差別と同様の状況が発生しうるということでもある。そもそも、日本の国会議員の1割しか女性でないことをはじめ、社会のなかでどちらが力とつながりやすいかは言うまでもないだろう。

 

私に馴染みのある例で考えてみたい。

 

分野にもよるが、コロナ以前、研究会のあと、飲み会が行われるのが定番になっている研究者の集まりは少なくなかった。私が出入りする分野は、女性のほうが大抵は少ない。家族のある女性は、家事育児を担当している/させられていることも多い。日本の伝統文化では、女性の方がアルコールの習慣は少ない。このような背景から、飲み会まで残る女性はさらに減る。

 

私が参加するようなところでは、飲み会の話題がいかにも男っぽいという感じになることはまれであるような気はするが(これは男性である私が鈍感だからという可能性もある)、それでも、逆に女性が多く集まると展開されがちな話題は展開されにくいかもしれない。

 

飲み会に参加した人同士のほうが当然、そのあとに仲良くなりやすいし、情報交換も進む。

 

私が知る限り、参加者の男性で女性差別的な感じがある人はほとんどいない(これも私が男性で鈍感なうえ、女性として対峙していないから見る機会がないだけという可能性はかなりあるかもしれない)。

 

では、この状況は女性差別と関係ないだろうか。

 

もちろん、男性が意図した状況でないことは確かだ。だが、先に、差別は社会的なものであると述べた。社会は意図の通りになるものではない。少なくとも結果的には、以上の状況は男性中心的であり、そこで形成されるのは男性中心文化である。女性が対等でいるためには、男性側があからさまな女性差別をしないだけでは、たいていの場合は足らない。

 

その意識がないまま、単に「差別なんてないだろ」などと放言することは、この、確かに存在する社会的なカタマリを無視することになる。明示的な差別事件は確かにないのかもしれない。だがそうだとすれば、それは、このカタマリにぶつけられないように、女性の側が慎重に運転してきたからなのではないか。

 

オープンレターに関して、呉座氏の内定取り消しの責任を声高に叫ぶ者は、レターで言及されているお遊び文化が女性に対して持つ含意も、呉座氏自身のツイートが持った重みも十分に呑み込めていないように見受けられる。もちろん、その人たちが女性に対するあからさまな差別意識を持っているわけではないのだろう。しかし、差別が社会的なものである以上、個人の意図を云々しても仕方がない(一人一人が差別意識を持たないことは当然重要だとしても)。社会的な次元を見る必要がある。

 

上記の部落差別の例で、同じ悪口でもどちらの方向であるのかで差別の度合いが異なるというのはこのことと関係する。度合いを決めるのは社会関係である。発言の意味はあくまでも文脈(この場合は社会関係)のなかで決まるのである。今回問題とされたツイートは単体で見れば、表現としてそれほどおぞましいものではないかもしれないが、文脈に当ててみれば、上記のような「社会的なカタマリ」が我が物顔で突っ走ったものであったことは見えてくるだろう。

 

一方、オープンレターを攻撃する人は、そのなかの文言を、選択的に文脈化するだけである。例えば、明示されていなくても、このレターが日文研に対する圧力になったという文脈化である。1300人という数が圧力になった(上記で言う数の力ということか)とする説も見られたが、日本の研究者だけでも84万7100人(2016年)もいて、そのなかの1300という数字は、少なくともそう簡単に因果関係を断定できる数でないことは確かだろう。

 

社会関係を見ることはとても手間がかかり、明確な結論は出にくい。しかし、男性が気づかない社会関係の非対称性が至るところにある可能性、そして言葉の意味が、その文脈のなかで確定することについては、この際強く心に留めておきたい。言葉の意味は発した人の意図だけでは決まらない。ハラスメントの加害側が「意図していなかった」と弁解することが多いのはそのためである。そして、二次被害は、文脈を無視し、勝手な文脈化を行うことから始まる。

 

◆追記12/11

レターが呉座氏の処遇をターゲットにしたものでないと気づくかどうかは、上記の「社会的なカタマリ」の存在に気がついているかどうかが大きく左右する。そこに理解がある人はすぐに、あ、そっちのほうね、と呉座氏個人、特にその処遇に矛先が向いているのではないことに気がつく。しかしそこが曇っている人は、呉座氏の名前ばかりが気になり、その中途半端な理解のまま、ネットリンチとかキャンセルカルチャーとかを連想してその文脈化を勝手に行ってしまうのである。本ブログがこの「社会的なカタマリ」を長々と説明しているのはそのためである。