区別と差別の違い――国家による差別の独占について | 埼玉的研究ノート

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曽野綾子氏が産経新聞のコラムで、南ア滞在の経験から「居住区だけは、白人、アジア人、黒人というふうに分けて住む方がいい」と書いた。これがアパルトヘイト是認だとして批判が巻き起こった。ご本人は、それに対してチャイナタウンやリトル・トーキョーをイメージしたものだと反論している。あるラジオのインタビューでは、「差別」ではなく「区別」だと述べた。しばしばネトウヨが使う論法をまんまと使った格好である(ちなみに「ネトウヨ」などと言うのも本当は差別ですが…)。

アパルトヘイトにおいては、政府は強制的に人種別に居住区を分けた。一方チャイナタウンは、社会経済構造や多数派の偏見をさしあたり無視するならば、自発的な集住といえる。曽野氏は自発的に人種ごとに集住することを推奨したつもりで、だからアパルトヘイトとは違うと言いたいのだろう。

だが、言わずもがなであるが、これも残念ながら第一級の差別である。氏は、自分が差別なんかするはずがない、と考えておられるのかもしれない。しかしここが差別の難しいところで、結論から言えば、近代国家に居住している限り、みな自動的に最低限の差別をしている。だから、自分は冷静に区別をしているだけで、差別などという次元は自分には無縁だという考え方は成立しえない。

では「区別」と「差別」の違いは何か。両者とも日常語でもあるため、時に似た意味で使用されることもあるが、ここでは、社会的な局面に限定する。一般的には、区別は水平的なものであり優劣をつけず、差別は優劣をつけるものと考えられることが多いだろう。だが、結果的にそうである場合は多いが、それは本質ではない。

より本質的には、「区別」は、あるものとあるものの間に違いを認めることを意味するのに対し、「差別」は、合理的根拠を持たない区別を指す。そこには、ある特定の区別に、別の意味を追加することも含む(そしてここがしばしば忘れられがちな肝である。カテゴリ自体が合理性に基づいていると、それに非合理性が加えられても気づきにくくなる)。例えば、ある国籍を持つ個人がいるとして、国籍が違うと言うだけなら区別だが、彼/彼女は犯罪者かもしれない、だって他の同じ国籍の人がそうだったから、などと考えるのは差別である。国籍の区別に、別の否定的意味を追加しているからである。

血液型をA、B、AB、Oに分けることは区別である。輸血の際、血液型に応じて人を振り分けることも区別である。なぜなら、人と血液は分離できず、違う血液型を輸血すると死んでしまうので、分けることに合理的根拠があるからである。

しかし、例えば、血液型に応じてトイレを分けるとしたら、それは差別である。なぜなら、その分離に合理的必要性がないからである。また、血液型によって性格を決めつけるのも差別である(もちろん、会話のなかでお互いに、話半分に心底楽しんでいるだけなら特に問題ないと思うが、定義上は、ということである)。なぜなら、それは現在のところ、科学的に実証されておらず、根拠が弱いからである。こうした発想は、それ自体は合理性を持つ区別である血液型に、合理的な根拠なく別の意味を追加しているのである。

「黒人」や「白人」に代表される人種概念が、肌の色の違い以外に意味を持たないことは今日の科学では常識となっている。血液型さえ同じであれば黒人から白人に問題なく輸血できるが、血液型が違えば、いくら肌の色が同じでも輸血できない。だから、生物学的には肌の色より血液型のほうがよほど重要である。

曽野氏は、血液型による居住の分離ではなく、それにもまして合理的必要性が薄弱な、肌の色による居住の分離を唱えた。こうして見ると、「区別にすぎない」という主張が詭弁にすぎないことが浮き彫りになる。

曽野氏は、人種により生活習慣が違うから居住区を分けたほうが実用的だと言いたかったようだが、「○○人の全員または大半がこうだ」と考える発想も区別ではなく差別である。肌の色は、生活文化と何ら因果関係がないからである。肌の色は客観的に測定可能である。生活文化も、ある程度客観的に析出できる。だか、双方の間の結びつきを合理的に説明することはできないのである。

もちろん、まさに実社会のなかの差別ゆえに、白人と黒人が社会的に分かれることが多く、その結果、ある特定の地域の白人と黒人それぞれの文化が異なる傾向を持つことは往々にしてある。だが、それはあくまでも傾向にすぎず、例外の多い区別は合理的でないから区別とはいえない。しかも、その傾向自体が、すでに存在している差別ゆえに生じたものであるのだから、結果から判断して「黒人はこうだ」とするのは、原因と結果を取り違えている。肌の色の違いが直接の原因となって文化の違いが生まれたのではない。肌の色の違いを文化の違いと取り違える偏見が社会的分離を生み、それが結果として文化の違いを生んだのである。

くわえて、社会の問題を考える際は、生物学的な次元だけを考えればよいのではない。百歩譲って、同じ文化を持つ者同士が集住することに一定の合理性があるのだとしても、簡単に人を差別する性質を残念ながら持っている人間が、居住の分離によって生まれた社会的亀裂をさらに拡大解釈し、いよいよ差別が激しくなる可能性を考えなければならない。

要約すると、曽野氏の提案は、差別に基づいているという点と、その提案が実行に移されるとさらなる差別を生む可能性が高いという点から、アパルトヘイト級の問題発言だということになる。

ただ、ここで我々が考えなければならないのは、曽野氏は必ずしも異次元に特殊なことを言ったわけではないということである。特殊で、また批判されるべきではあるが、それは他の人間が前提としていることと次元的な違いがあるわけでは必ずしもない。

再度、先の「差別」の定義に立ち戻ってみよう。「合理的根拠を持たない区別を指す。そこには、ある特定の区別に、別の意味を追加することも含む」と述べた。

実は、これは近代国家がどこもやっちまっている。

国籍は何によって決まるかといえば、日本の場合は主に血縁で決まる。ヨーロッパの多くやアメリカでは、出生地で決まる。どれだけダメ国民でも国籍は剥奪されない。

「人を生まれや出身で差別してはいけない」というのはよく聞く訓示であるが、国家が率先してこれに反してしまっているのである。これは単なる区別ではない。なぜなら、国籍の有無で人生が大きく変わるのだから、それは、生まれや出身による区別に、とてつもなく大きな意味を追加しているからである。同じ人間なのに、なんなら肌の色も同じなのに、両親の国籍によって、もしくは生まれた場所によって、罪のない子どもは人生の重要な部分を決められてしまう。

なんだか理屈っぽい、と思われるかもしれないが、まずここから考えなければならない。曽野氏に限らず、誰もが、生まれながらにして差別のうえに立ってしまっているのである。

それでは、なんだそれなら差別ってそんな特別なことではないんだ、国家がやってるぐらいだから自分だって少しぐらいやったっていいではないか、となるのだろうか。そうはならない、というのもまた近代国家の約束事なのだろう。

マックス・ヴェーバーは、国家を「暴力の独占」によって定義した。国家のみが暴力の行使が許され、またいつどこで何に対して行使するかを決められる。だから、一個人が勝手に他人に暴力をふるうことも、私刑も許されない。

暴力は危険であり、本当は誰も行使しないのが望ましい。だがそれは難しい。次善の策として誰が暴力を行使できるのかをあらかじめ決めておくことにしたのは、人類の知恵である。

これと同じで、近代国家は、さしあたり「差別の独占」をしていると考えるべきである。生まれというただ一つの単純な区別によって、とてつもない差別を、いわば合法的に行っているわけだが、それは国家の専売特許であって、一個人が勝手に他人を差別することは許されない。

差別はないほうがいい。だが、世界国家というのが当面難しい以上、線引きがどうしても必要になる。そうしなければ、暴力の行使についての秩序が崩れてしまう。次善の策として、国家のみが差別が許されるとしたわけである。

だから、曽野氏ほどのお偉いさんであっても一個人が勝手に人を差別することは、非道徳的であるのみならず、近代国家においては非合法的でもある。

少し話を膨らませると、生活保護の受給に関して、日本国籍保持者に限定すべきであるとし、外国人に支給しないのは差別ではなく、国籍による区別である、という議論がある。これに対しては、どのように考えることができるだろうか。

まず、国籍は上記のようにそもそも差別に基づいているので、「国籍による区別」というのは、「差別に基づいた区別」と言うに等しい。区別の根拠が差別なので、正真正銘の区別とは言えない。少なくとも、ドヤ顔で「区別です」「今でしょ!」などと言うのは、なかなかこっぱずかしい。近代国家は、誰が国籍を持つかを決める際に差別の原理を利用しているが、その先にまで差別を延長していく必然性はない。

事実、現実の近代国家は、国籍によって何もかも分け隔てしているわけではない。警察や消防は、外国人に対しても平等に対処する。道路や公園の使用料を別に徴収することもない。むしろ、国籍の付与という点で自動的に差別をしてしまったことを取り返すかのように、他の部分ではなるべく分け隔てをしないようにしていると考えることもできる。

国籍は何のためにあるかといえば、一義的には、暴力の独占という国家の機能の必要上である。主権を持った国民が暴力についてのガイドラインを決める以上、暴力をなるべく手なずけたい、つまり秩序を確保したいならば、国民の範囲を限定する必要がある。生まれによって自動的に決めるのが他の国との関係で最も混乱が少ないだろうということで、差別の原理をその限りにおいて用いているわけである。

だから、それ以外の領域、つまり人間としての生活という部分については、別の原理によって改めて考えなければならない。例えば、外国人の家が火事になったとして、出身国の消防隊の到着を待てというのは、国籍による「区別」とはいえない。なぜなら、国籍は、暴力の管理に関わるための資格にすぎず、人々の社会生活の領域は暴力とはあまり関係ないからである。国家は税の再分配というもう一つの重要な機能を持つが、外国人も同じ税制のなかで納税しているから、国籍保持者と外国人を分ける究極的なポイントは、暴力の領域に限られる。

生活保護の受給も、完全雇用がありえない資本主義下の社会生活のなかで必ず誰かに降りかかってしまう問題である一方で、暴力の管理とは基本的に無関係な話であるから、国籍を基準に受給を決めるのは、区別ではなく差別となる(繰り返すが、外国人も等しく納税しているから、日本国籍保持者の金で養ってやっているという考えは間違っている)。それは人の命に関わる限りにおいて血液型による区別が許され、それ以外のことを血液型を基準に決めることが差別になるのと同じである。