反・反の陥穽―池内恵氏のイスラーム論をめぐって | 埼玉的研究ノート

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イスラーム思想・中東政治が専門の池内恵氏によると、日本の中東学界ははじめにアメリカ批判ありきの傾向が強い。近代社会への不満を、かつてのマルクス主義に代わってイスラームに投影し、イスラームを理想視したうえで、それと対峙するアメリカを批判するのだという。現在の中東で最も反米的な勢力は、かの「イスラーム国」であり、その使命は、イスラーム法が支配する国家の再興である。ある意味で、多くの中東研究者と利害が一致している、というわけである。だから、そうした研究者の「イスラーム国」論は思い込みに基づくものであり信用ならない、と。もっと自分みたいに事実に基づいた党派性のない議論をしましょうね、と。

確かに、私が知っている狭い範囲では、日本の中東学界でアメリカが好きだと素朴に公言する人はあまりいないし、論壇誌レベルの議論では、アメリカの政策に批判的な印象を受けることが多い。他の第三世界研究同様に、反植民地主義的な志向性の強い人々を集める磁場が中東にもあり、特に上の世代ほど、雑にまとめるならば、その色が濃くなる気はする。そして、若い世代も、それに反発するよりは、多少影響を受けているかもしれない。少なくとも、池内氏のように、わざわざ反旗を翻す例はほとんどない(が、実際には、スタイルや立場は結構多様であるし、いわゆるノンポリも多いと思う。この辺の「事実」には触れずに想像力逞しくされているようだ)。それがもし硬直性を意味するならば、学問的に有害な場合も当然あるだろう。

だが、かれこれ10年以上、散発的に池内氏の議論に接してきて、どうしても違和感を禁じ得ないことが2点ほどある。

1つ目として、端的に、ずるいな、と思う。何もかもアメリカのせいにする議論が本当にあるのだとして、そうした大ざっぱな結論が、学問的に間違いであることは容易に想像がつく。世の中そんなに単純ではない、という経験則から類推すればよい。だから、そこを突くことには間違いがない。確実に勝てる。しかも氏は「日本の中東研究者の大半がこうだ」とだけ言って具体的な人物を挙げないから、反論がしにくい。議論の内容そのものよりも、「反米」という動機を揶揄するので身も蓋もない。「どうせ○○人だからこういうことを言うのだろう」「右翼だからこういうことを言うのだろう」という類の決めつけとあまり変わらず、相手は脱力してしまう。また、多くの日本人はよく知らないながらも(よく知らないからこそ)本心ではイスラームに懐疑的であるだろうから、なんとなくというレベルの支持者も得やすい。ちなみに、論敵を愚かな存在として描き、批判しやすくする――逆に言えば自分を高みに立ちやすくする――ことを、「藁人形論法」と呼ぶ。

しかし、仮に「反米」とまとめられる大ざっぱな議論があるとして、それにはそれ相応の背景があり、少なくとも私は氏のように辛辣に揶揄する気にはなれない。

戦後の日本において、日本人がありがたがってきた知識の大半は欧米から来ている。イスラーム圏と戦うことも多かったキリスト教圏において、イスラームは決してイメージがよくない。中東・イスラームについての知識をほとんど持たない日本人は結局欧米産の知識を身に着けることになり、どうしても見方に偏りが生じる。そしてニュースに上がってくる「イスラーム」といえば、ビンラーディンだとかイラクでのテロだとか、ハマースのロケット発射だとかばかりである。偏見を持つなと言うほうが難しい。

日本人の思考のデフォルトとして、悪いことが起こったらまずイスラームに原因ありという発想をするのは目に見えている。中東の日常をよく知る者からしたら、「いや、違うんですよ」という「弁明」から入らざるをえない。そして数の少ない中東研究者しかそのことが言えないことを知っている。こうした背景からのある意味でのイスラーム擁護は、アメリカや日本への不満の捌け口をイスラームに求めるなどといった次元とはまったく違う。

もちろん、こうした即興の「バランス取り」が、目の前の事態の冷静な分析を阻害する可能性はあるだろう

しかし、私は専門ではないのであくまでも予感レベルだが、池内氏の議論もまた、反「反米」のバランスを取ろうとするあまり、逆の方向に振れているように見える。しかも、上記のような事情のなかで出来上がった「反米」という構図を裏返すことで、当初の文脈が失われ、より先鋭化した(場合によってはやせ細った)議論となっている。

そして、池内氏の議論へのもう1つの違和感は、このことがただの予感ではないことを予感させる(結局予感だが)。

氏は、しばしば「イスラーム国」の主張は、日本社会も則っている西欧近代の原則と相いれない、だから西欧近代的な自由社会を守りたいならば、明確に「イスラーム国」の主張を批判しなければならない、と論じる(というか踏み絵を迫る)。もちろん、それはそのとおりだろう。

だが、なぜあえて西欧近代とだけ対照させるのか。一言、「イスラーム国」はイスラムの原則とは相いれない、となぜ言えないのか。本人たちがイスラム法を振りかざすから、ムスリムも明確には反論しにくい、ということを書かれているが、果たして本当にそうなのか。

『クルアーン』を読めば(私は日本語解釈しか読んだことはないが)、いろいろ激しい記述に出くわして面食らうことはある。だが、岩波文庫でいうと全3巻を読み終わって感じるのは、すべての記述が、神(アッラー)がいかに偉大でかつ慈悲深いかということ、そして神のみが唯一全能であるということ、逆に言えばいかに人間がちっぽけで限界を持った存在であるかを強調することに費やされているということである。そんな神が、人間の勝手な判断で、神の創造物たる人間を簡単に惨殺することを許すはずがない。「正当な理由による以外は、アッラーが尊いものとされた生命を奪ってはならない」とある(日本ムスリム協会の声明にも書かれている)。「正当な理由」が何かが問題だが、日本の法律も「正当な理由」があれば国家が生命を奪うことを認めているから同じである。

極めつけに、『クルアーン』の最初のほうで、「宗教に強制はあってはならない」という明確な章句に出くわす。

「イスラム国」の行為は完全にアウトである。

「イスラム国」は『クルアーン』その他聖典のなかの特定の章句を取り出して自己正当化しているようだが、法というのは体系であって、都合のいいところだけを取り出す使い方は本来できない。イスラーム社会においても、訓練を積んだ法学者が解釈を出す。解釈に余地はあっても、法全体の体系からしてあまりに恣意的にすぎる場合、それはもはや法の側の問題ではなく、解釈する側の問題である。日本の法律を曲解する集団があるとして、それは日本の法律の問題というよりも曲解する集団の問題であるのと同様である。

■追記3/1 >>>キリスト教世界にも、例えば進化論を否定する聖書原理主義があるが(ちなみにこれが世の「原理主義」という用語の起源である)、これがキリスト教全体の問題として捉えられることはほとんどないし、そのことは正当化しうるだろう。キリスト教に聖書原理主義を許す余地があると言えないわけではない。だが、だからといって、キリスト教を全面改訂し、それ以外をキリスト教とは呼ばせない、といったことが不可能であることは容易に想像がつく。「キリスト教全体の問題だ」という言明は誤っているわけではないから、議論としては「勝てる」。だが、その議論は何も生まないし、残るのは他のキリスト教徒が抱く不快感(と非キリスト教徒の一部が持つ優越感)だけである。同様に、「イスラーム国」を許す余地がイスラームにあると言えないわけではないのだとしても、そうした議論は不毛であり、ごく限られた専門家集団の自己満足的な範囲を超えた、公共的な価値は持たないだろう。何の解決にもならないからである。少なくとも、池内氏が呼び掛けるように(というか、そうしたレベルに達していないと嘆いて見せるように)、日本の市民社会なるものが全体として共有すべき議論であるとはとても思えない。<<<

にもかかわらず、解釈の問題だからムスリムは反論しにくいなどとことさらイスラームの問題であるかのように匂わせる一方で、西欧近代の基準ではありえないといった対照のさせ方をするのは、氏が言うところの従来の反米(もしくは西欧近代)的議論の裏返しにすぎないのではないか。実際には複数あり複雑で、建前と実態の乖離も激しい西欧近代を、躊躇なく単純明快に定義づけているあたりもそのことを暗示している。こうした二項対立を押し出すことで、世の中には「イスラーム国」と西欧近代しかないような印象が生まれる。それは、氏が批判する人々が最も恐れてきた事態であるから、池内氏の思うところかもしれないが、こうした「反・反米」の結果犠牲になるのは事実認識である。

ムスリムたちは、氏が見るように、「イスラーム国」に対して必ずしも明確な反論を行っていないかもしれない。そして、それは恐怖による沈黙だけではないだろう。だがそれは、「イスラーム国」のイスラーム法解釈を、イスラーム的な観点から否定できないからではなく、「イスラーム国」を全否定したくない心の隙に起因すると見るべきではないのか。つまり、西欧社会と対立しているのはイスラーム法ではなく、それを解釈する人間とその社会である。対立は、池内氏が考えるような文明論的な次元よりも、もっと日常的な次元にこそある。

2003年にイラク戦争が始まったとき、ちょうど私は1か月ほどヨルダンを中心に中東イスラーム諸国をバックパック旅行していた。ヨルダンで、アンマンのダウンタウンの人々と友達になった。その多くはイスラエル建国により故郷を追われたパレスチナ人(の子孫)だった。何人かにこう聞かれることがあった。なぜ日本は、ヘロシーマとナカザーキ(ママ)に原爆を落とした天敵アメリカのイラク攻撃を支持するのだ、と。日本人自身は、今では日本とアメリカがすっかり仲良しなのでそういう発想がないが、同じアジアで、アメリカの攻撃にもかかわらずいち早く復興を遂げた我々のプチヒーローであるあの日本がなぜ、という想いがあったようだ。

もっとも、日本と言えばすぐシャッキーチェーン(ママ)とか言ってくるように、日本のことなどほとんどよく知らないので、話半分に聞いたりするわけだが。

だだ、アンマン市内を車で送ってくれていたパレスチナ人が、サダム・フセインが好きだと言っていた。私は、アメリカのイラク攻撃に疑問を感じつつも、だからといってフセインも褒められたものでは決してないと思っていたから、なぜだ、と訊いた。すると彼は嬉しそうにこう言った。「ただ一人サッダームだけが、イスラエルにロケットを落としてくれた」。

数々の不条理に自らが何もできないなかで、そして欧米諸国がイスラエルの肩を持ちながら結局何もしてくれなかったなかで、果敢に立ち向かう勢力がある。そのような捉え方は、むろんアラブの失政や固有の社会問題から目を背ける弊害を確実に持つ。それは氏が強調するとおりである。だが、この捉え方は、単なる鬱憤の産物ではなく、重い事実を含む。

それを抜きにした、「グローバル・ジハード」概念と併せて宗派対立を基軸に据える分析は、一見すると現実と合致し、明快である。「事実」に基づいた議論であることも確かだろう。

だが、学問において事実に基づくのは当然のことで、肝心なのはその先、つまり無数の事実のなかで何をどのぐらいの配分で取捨選択するかである。くわえて、見えやすい事実と、そうでないものがあるということも、謙虚な研究者ほど肝に銘じている。研究者の都合で前者ばかりを追っていると、その結果浮かび上がる像は、実像と大きくずれることになる。ちなみに、池内氏は第一著である新書『現代アラブの社会思想』から、いかなる基準で文献を選択したのかをまったく記しておらず、本書を読む限りは、議論に都合のいいものを選択したにすぎないという疑念を払しょくすることができない。

この点について、日本研究を例にとると、政権与党の動きは最も見えやすく、情報も入手しやすいわけだが、そればかりを追って、しかも素材選択の基準を示さずに(これは学術論文が学術的であるための条件の一つである。なおこのブログはあまり踏まえていないので学術的ではない)したり顔で現代日本の真の姿ここにありとする研究者を想像すればわかりやすい。他の複数の政党を考察に含めたとしても、政治の世界は政治の世界である。なぜそのような政治の構図になっているのかは、それだけ見ていてもよくわからない。ましてや、政治自体も混乱の只中にある中東に関して、政治と、特権的な人々による(そして日本より識字率の低い世界における)思想だけを追って、既存の研究を(ルサンチマンの産物と一蹴できるほどに)根本的に論破したと言えるのだろうか。

例えば、世界の他の地域では宗派・党派・部族対立が暴力化しないことも多いのに、中東ではすさまじく暴力化するのはなぜか。イスラームの語彙を用いつつも政治や思想の世界に限定した分析では、このことは説明しえない。

幾度とイスラーム世界を旅行するなかで私が一つ確実に学んだのは、そうした彼らも、日本人と同じように笑って楽しそうに暮らしていたということである。本当に、普通に社会が回っていた。イスラーム思想によって説明できる部分が多いようには見えなかった。むしろ、イスラームを媒介として人々が交流していると感じた(イスラームはしばしば社会的な宗教であると言われる)。その交流自体は、すぐれて人間の論理によって動いているのではないか。その可能性を捨象してイスラーム思想自体に解を求めても肩透かしを食らうかもしれない。

イスラーム社会は、無邪気に擁護できるような平和で能天気な状態にはない。ただ、だからといって、一気に西欧近代の価値観が云々とか、イスラーム社会がまだ中世の状態にあるなどといった議論に向かうのは飛躍に過ぎる。前記事とも関連するが、「イスラム国」と西欧近代という政治的な両極端の間には、いまだ議論されつくされていない、決して理想視できないが無視もできない、そして何より単純に語れない広大な社会的領域が広がっているのだろうと、専門外ながら感じるのである。

池内氏が専門とするイスラーム思想と政治ゲームとは異なるこうした領域に切り込む際、つまるところ、例えばアメリカのイラク攻撃が与えた社会的影響について触れないわけにはいかないのだと思う。思想史と政治学のみを総合する試みは、この重大な領域をなかったことにしかねない。

■追記1 池内氏は、しばしば、イスラームが神を上位に置くのに対して、西欧社会は人間(性)を上位に置くから両者は相いれないと説く。社会の教科書的に言えばそうかもしれない。だが、実はこれは比較がおかしい。「主権国家」という言葉があるように、西欧社会において、事実上一番偉いのは法の源泉たる主権を持った「国民」という集合体であって、個々人ではない。正しくは、「イスラームは神を上位に置くのに対して、西欧社会は国民という集合体を上位に置く」である。

西欧社会は建前として個人の権利を重んじるが、実際には、「国民」の代表たる政府が決めたことには逆らえない。個人的に、あるいは少数者がどんなに国のトップが嫌いでも、引きずりおろすことはできない。他方、「神中心」という言葉とは裏腹に、イスラーム社会でも、実際にはかなりの部分人間中心的である。神は自らの言葉をムハンマドに託し、それが『クルアーン』となっているわけだが、ムハンマドの言行録である『ハディース』を含めても、その後は無言を貫いており、あとはすべて、まさに人間が解釈を行っていろいろ決めている。神は具体的に何も命令していない。

池内氏は、イスラームにおける平和は、イスラーム優位のなかでのみ達成されると述べ、それがいかに限定的なものであるかを説く。だが、彼が理想視する西欧社会も、決して万人が実際に平等なわけではない。西欧社会の基本原理である民主主義は多数決だから、社会のなかの少数派は、常に多数派優位のなかでのみ平和が享受できるに過ぎない。だから、場合によっては、どちらの社会でも大差がないこともありうる。もちろん、西欧社会は、それでも少数者を対等に扱うための窓口を用意していることが多く、少数者の権利擁護にはより積極的であるとは言えるが、氏が対比するほど、実質的な面で何もかも違うわけではない。

■追記2 池内氏は、西欧諸国や日本から「イスラム国」に参加する人々を、エーリッヒ・フロムの『自由からの逃走』の議論になぞらえて、自由を与えられた近代社会における、目標のなさという心の隙にイスラーム、さらには、氏がその極端な形と考える「イスラム国」が入り込むと説明している。

だが、例えば、日本でキリスト教に改宗した人に向かって、あなたは自由が耐えられなかったのですか、何か社会に対してご不満でもお持ちだったのですか、などと訊くのだろうか。

もちろん、心理状態といったプッシュ要因は、それはそれで検証すべきだが、それがなければイスラームに引き寄せれらるはずがないという想定は、端的に言って、失礼にもほどがある。イスラーム諸国を巡って、少なくとも私はイスラームは十分に魅力的な宗教で、心の隙の有無にかかわらず、引き寄せられても不思議ではないと感じたし、それは日本人がキリスト教の教えを読んで、時に感動する場合となんら変わりないと思う。こればかりはなかなか証明のしようもなく私見で恐縮だが、結果としてある集団の評価を下げることを言う際は根拠の提示が不可欠だろう。

■追記2への追記 下のコメントのところでの議論を踏まえて、批判のポイントがややずれていることに気づいた。より的確に批判するならば、氏は欧米人が「イスラム国」に惹かれる要因をイスラム的要素に求めているが、中東での欧米諸国の軍事行動を不正義と感じ、具体的な行動を起こしたいと感じた、という動機も十分に考えうる。もともとムスリムであったから絆を感じたという要素はもちろんあるにしても。いずれにせよもしそうならば、自由を重荷と感じる云々は特に関係ないことになる。

そもそも、建前としては西欧社会はいわゆる消極的自由(~からの自由)を保障する社会だが、実際にはたくさんの、重い不文律が存在する。例えば、日本を西欧(型)社会に含めるとして、受験信仰はその最たるものであって、決して目標を与えない(押し付けない)社会ではない。受験への自由(積極的自由)は与えても、受験からの自由は乏しい。仮に、イスラームが西欧的な基準で不自由な社会像を持っているのだとしても、西欧社会も、建前ほどには自由ではない。氏は、渡航した人々は裕福で高学歴が多いから貧困と差別は関係ない、自由からの逃避だ、と主張しているが、金持ちでも差別には遭う。むしろ、経済的・社会的上昇にもかかわらず、二流の位置づけをされれば、その不自由に対する失望は大きい。

建前で言えば、西欧社会も不正義を嫌う。その建前に影響を受けて中東での不正義が許せなくなった(あるいはその建前の欺瞞性が許せなくなった)、という経路も考えうる。その可能性を捨象して「自由」というキーワードをことさら強調する背景には、やはり「西欧=自由」「イスラム=不自由」という構図を強調したいという意図が透けて見える。つまるところ、「反米」という、氏によると大半の中東研究者が持つらしい構図を気にするあまり、その裏返しを「はじめにありき」とした議論をしているのではないだろうか。