フェミニストと「非モテ系アンチフェミ」のあいだ――「男らしくない」人が割を食わない社会のために | 埼玉的研究ノート

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ソ連崩壊直後、ロシアの男性のアル中率と自殺率は急増した。男性は、その意味で明らかに割を食うことになった。ソ連時代、男女平等を掲げたソ連にあっても、男性は女性に対して優位に立っているはずだった。それがなぜこのようになったのか。

 

そのからくりは終盤で明かすとして、まずは現在の日本で起こっていることについて考えてみたい。

 

Twitter等では、呉座氏をめぐる一連の事態を引き金に、フェミニストとアンチフェミニストの「論争」が繰り広げられている。もっとも、「論争」の名に値するものは少なく、基本的には(以下で論じることからすると、大抵は後者からの)言いがかりが大半だ。

 

「アンチフェミ」、なかでも「非モテ」(=客観的にモテないというより、そうしたアイデンティティを持っているということ、より具体的には、モテてキラキラしている人たちと自分は違うという卑屈半分誇り半分といったようなもののようだ)の人々の言い分を総合すると、次のようなことのようだ。すなわち、フェミニストは、自分の不利益を喧伝してばかりで、男性の全員が、女性よりも優位に立っていることを前提にしているが、男性のなかにも割を食っている人たちはたくさんいて、フェミニストのほうがよほど恵まれているのではないか、つまり、不幸な原因を何でも女であることに求めるのはおかしい――。

 

そのような認識でフェミニストを一様に敵視する背景には、「非モテ系」の文化のなかには、アニメやアイドルが重要な位置を占めている場合が多く、そこに登場する、性的特徴が強調された(少なくとも、ある人にはそのように見える)女性キャラに対して、フェミニストが異議申し立てするといった構図もあるようだ。つまり、彼らにとって、どうせ自分たちのことを馬鹿にしているであろうフェミニストは自分たちが大切にしているものに、いちいちいちゃもんをつけてくる人たちという印象なのだろう。

 

そうした不幸な出会いは、その行く末を考えるとやはり不幸である。なぜそう言えるのか。

 

「非モテ系」の人々がどのような思いのなかで、あるいは経緯のなかでそのような自己認識を持つに至っているかは想像の域を出ないが、様々な要因の一つに、「男らしさ」のヒエラルキーがあるはずだ。

 

モテるのは「男らしい」男性だ、という、一部事実でもあるイメージである。要は、「背が高く、運動と勉強ができる子」だ。高校でも大学でも、そして企業でも老人会でも、そうしたタイプの男性に一定の需要があることは事実であり、そうでない男性は一様にどこか引け目を感じるものである。

 

このブログではあまり私自身の個人的なことは書いてこなかったが、少しだけ開陳するならば、私は運動音痴でもやしっ子で童顔であるため、およそ「男らしさ」とは遠い存在であると自負してきた(今でこそ多少自負しているが、大学ぐらいまではただただ辛いと思っていた)。中学ぐらいから勉強は多少できるキャラにはなっていたと思うが、それがモテにつながる実感はまったくなかった。

 

これは、半分事実でもあったが、半分思い込みでもあったと今は考えている。つまり、男らしい男性に惹かれる女性が一定数いるのは事実だろうが、私は女性は誰しもそうであると思い込んでいたのだ。そこから、無意識的に女性全般に対して淡い恨み(というと仰々しいが、ちょっとひねくれた感情といったところか)を抱くようになったのかもしれない。実際にフラれたわけでもないのに、勝手に全女性にフラれたような感覚を持っていたのである。

 

しかし、なぜそのような思い込みを持っていたのか。それは、社会に蔓延る「男らしさ」のヒエラルキーの仕業だと考えている。「力強さ」とも言い換えられる「男らしさ」は、単に世の中に男と女がいて、前者の特徴である、というだけにとどまらない。後者を含めて社会を引っ張っていく迫力を持っている。

 

自分はそうではないけど、どうせみなんそっちに惹かれていくんでしょ、という感覚はそうしたヒエラルキーのなかで自然と生まれる。自分はそうではないので自己卑下しているわけだが、女性も男らしくないことになるので(もちろん実際には「男らしい」女性もいるだろうが)、同じ基準で卑下することになる。

 

端的に言って、このヒエラルキーがなくなってしまえば、ずいぶんと楽になるだろう。少なくとも、私の青春時代の悩みの多くは解消されていたかもしれない。今でも企業などに根強く残る「体育会系」文化も「男らしさ」のヒエラルキーのなかにあるものだろう。

 

もっとも、力強いものへの憧れを一様に否定すべきかどうかには躊躇がある。そもそも絶滅することなどありえないだろう。しかし少なくとも、別のまったく異なる基準を同時並行させることならできるのではないか。それをあえて「女らしさ」と呼ぶかどうかは別にして、「強さ」とは別のベクトルのヒエラルキーができれば、「男らしさ」が無理な人はそっちを目指す(あるいは「男らしさ」を目指さないことが自動的に「不戦敗」とされることがないような)選択肢もできる。ヒエラルキーなどという考えがそもそも間違っているという向きもあろうが、おそらく消えることのない「力強さ」のヒエラルキーに実効的に対抗し、心底、男らしくないことを卑下しなくてよくなるためには、やはりオルタナティヴも、それこそ力強くあってほしい。

 

冒頭のソ連の話のからくりはこうだ。ソ連崩壊によってロシアの経済は散々な状態になり、仕事は消えていった。ソ連は、職場の男女比率こそ、当時の世界のなかでは異例なほど平等が達成されていたが、「男らしさ」のヒエラルキーは温存されていた。歴代の書記長も、各共和国の第一書記も、みな男性ばかりであることが象徴するように、社会の主導的立場は常に男性が占めていた。女性は家庭を守るべきだという規範も残り続けた。女性は職場と家庭のダブルワークをこなすことを事実上強いられ、そもそも昇進には不利になっていたのだ。

 

完全雇用のソ連が存在するあいだ、そのことは多くの男性にとって特に問題であるようには見えなかった。

 

だがそのソ連が崩壊して失業すると、男性は居場所を失った。一方、女性には家庭というもう一つの持ち場が残っていた。しかも団地のなかで、女性の親族を含むネットワークが作られていたから、人間関係には困らなかった。だが職場を失った男性は、そこにあった人間関係からも遮断された。家庭での居場所を失い、生き甲斐も見失い、アルコールに溺れるようになったのは当然の流れだった。

 

つまり、男らしさの呪縛は、男性にとってもリスキーなのである。

 

フェミニズムは決して女性のためだけにあるのではない。実のところ、「男らしさ」をあくまでも重視したいタイプの女性にとっては不要かもしれない。それは本質的には、「男らしさ」の呪縛に苦しんでいる――現実的には、そのことに気づいてすらいない――人すべてにとっての、もう一つの選択肢なのである。

 

【追記】

・本記事に対して、特にソ連崩壊期の男性については、妻に先立たれた、もしくは妻が病気で倒れた男性にそのようなパターンが見られるという指摘をいただいた。年を重ねてから気づくのでは、本人も残念だが、女性のほうがさんざん待たされていることになるので、やはり早いうちから反省しておきたいと思う。

・本記事に非常に通じる論点として、ちょうど以下の記事が本記事の直前に書かれていることも指摘いただいた。なお、いずれの記事も、男性にメリットがないとフェミニズム的なものを受け入れない(=男性本位の視点)という趣旨では決してなく、ジェンダー平等を達成するうえでは男性の既得権が侵食されるだけの場合も避けられないが、すべてを既得権の侵食と考えないほうが(実際にそうだろうし)、無用に膠着状態が続くことは避けられるのではないかという見通しのもとで(少なくとも私は)書いている。