独裁国家の軍事力強化を過度に恐れる必要がない理由――武器ではなく、武器の持ち手を見る | 埼玉的研究ノート

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中国の軍事大国化は、米中対立の激化と相まって、多くの関心を集めている。香港やウイグルに対する締め付けに象徴される習近平体制の強化もその不気味さに拍車をかけている。

 

以下のような記事は、そうした雰囲気のなかから出たものと考えることができるだろう。

 

 

この記事は、「中国軍がもつ主力の戦闘機は〔日本の〕3.7倍、戦闘艦艇1.5倍、潜水艦2.5倍にのぼる」などと指摘して、日本の軍事力が中国に明らかに劣っていて、それは東アジアの米軍を加えても覆らないと強調する。それに対峙するには、日本も軍事力を強化すべきだ(豪印英仏独などとの連携強化も含め)というのがこの記事の趣旨である。そのように鎧をしっかりまとったうえで「対話」すべきだという。

 

だが、この記事は2つの重要な前提の違いに言及せず、その結果、いたずらに恐怖心を煽り、近視眼的な思考に読者を陥らせかねないものとなっている。武器のみを見て、その持ち手を見ないという近視眼である。

 

1つ目の前提の違いは、国土と人口の違いである。中国の面積は日本の25倍、人口は11倍である。仮に軍事力を対外的なものとして見るのではなく、「国内警備体制」として見た場合、中国は面積・人口当たりの警備が依然として日本よりはるかに手薄である。対外的に見た場合でも、軍事大国であるインドやロシアと国境を接している中国が対応しなければならない国境線だけでも相当な距離にのぼる(ロシアとは現在そこそこ友好的であるにしても)。

 

2つ目の前提の違いはより本質的で多義的である。中国は(ほぼ)独裁国家であり、日本は(ほぼ)民主主義国家である。歴史的に見て人民解放軍はまず何と戦ってきたかといえば、それはまずもって国内の「敵」である。習近平が進める国内の締め付けは、国内の反乱分子に対する恐れからも来ている。一方、現在の日本において、中央政府に対して武器を持って戦う国内勢力はほぼまったく想像できない。最低限の公安の監視はあるにせよ、習近平的な締め付けは一切ないにもかかわらず(というよりは、ないからこそ、なのだろう)、である。

 

先ほど、軍事力を仮に「国内警備体制」として見ると言ったが、独裁国家においてこれは必ずしも的外れではない。軍は何より国内体制安定化のための重要な道具である。つまり、政府は外国からの侵攻よりも、国内のどこにいるかわからない潜在的な敵に怯えているのである。外国についても、外国軍そのものが攻めてくることと同時に、それが国内の反乱分子とつながることを恐れている。そして、独裁を続ける限り、国内の敵対勢力は潜在的に維持される。独裁はその代償として、安全保障を国内問題にしてしまうのである。

 

もし大規模な戦争に発展すると、それは国内のバランスを崩し、反乱分子が息を吹き返す機会を与えかねない。例えば、1世紀前のロシア帝国は、第一次世界大戦時、その後勝利した連合国の一員であったが、戦争は国内のバランスを崩し、ツァーリ体制を崩壊させたのち、厭戦派が最終的にロシアの政権を握ることになった。外国から攻められて崩壊したのではなく、国内の、政権を守るための戦争を放棄した勢力が優勢になって崩壊したのである。

 

考えてみれば、政権側に(今のシリアのように)大国の後ろ盾がないという条件下では、独裁国家が戦争という一大事に弱いのは道理である。政権に近い人々は当然政権を守るためにあらゆる非人道的手段に訴えるが、政権から遠い人々は、まさにそのことによって、その政権が崩れたほうが自らが解放されるのではないかという期待を持つからだ。

 

中国がどのような武器をどれだけ持っているのかを知ることはもちろん重要である。だから、上記の記事のような比較には意味がある。だが、その持ち手を長期的・多角的観点から見ることも同時に必須である。戦争はいつの時代も、決して一枚岩ではない(それは集合としても、また個人としても)人間が行うものだからである。もちろん、20世紀後半以降主流となっている局所戦についてはその限りではないこともあろうが、局所戦が大戦に移行しない保証は独裁国家の側にもない以上、独裁国家も局所戦を気軽に行うことはできない。

 

上記の記事に欠けている視点は、安全保障が国内化している独裁国家と、国民に対して自衛隊は災害時に助けてくれる優しい存在以外ではなく、政府も国民を軍事的脅威とは捉えない民主主義国家の違いを踏まえたうえで、前者に対してどのように働きかけていくかという視点である。独裁国家はその統一性を強調するが、そのプロパガンダに騙されてはならない。中国人もまた、多様である。真に実用的な軍事力をつけるためには独裁は足かせになることをあの手この手で示すことをもっとやってもいいのではないか。