差別はアヘンである――なぜ差別してはいけないのか | 埼玉的研究ノート

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東大の教員であり、会社経営者である大澤昇平氏が、差別発言を繰り返して炎上するという一件があった。中国人は「パフォーマンス」が低いので、自身の経営する会社では、中国人は書類で落とす、それは企業として当然の行動だと言ってはばからない。その後批判があっても、新卒採用は大卒しか認めないという選別と同等のことだとうそぶいている。

 

こうした発言は取り合うまでもないふざけたもので、本来、言語道断ゴルゴンゾーラだと言ってやればそれ以上語る価値もないものだが、ネット上では彼を擁護する発言も散見されることから、以下、改めて差別というものについての整理をネット上に残しておきたい。

 

<差別の意味>

一般には、「差別」を、「蔑むこと」や「見下すこと」と同義で用いる傾向があるように思うが、それは差別の本質ではない。「見上げる」タイプの差別も存在する。政治家などが、差別発言をした際に、「差別するつもりはなかった」と「釈明」することがあるが、それは「見下すつもりはなかった」と言っているのだろう(11/28追記:大澤氏はその後、まんまと自分は中国人には「差別意識はない」、ただの「区別」だ、とトゥイッターでのたまっている)。しかし、「差別」のポイントは、見下しているかどうかにあるのではない。差別とは、ある属性を持つ人々を、根拠が薄弱なまま一括して同列に論じることを言う。簡単に言えば、合理性が低い区別のことである。

 

例えば、「女性は子育てを優先すべきだ」という発言がなぜ差別になるのかといえば、それは女性を見下しているからではない。こうした発言をする人は、もしかしたら「母なる女性」に対して敬意を持って言っているのかもしれない。問題は、女性には様々な人がいて、しかも子を産むというのはその一側面にすぎず、産む以外の子育ては男性でも同等にできるにもかかわらず、子育てを一様に女性に押し付けようとすることにあるのだ。つまり性別という、人間のさまざまな側面の中の一つにすぎない属性一つのみによって、社会のなかでの役割を一様に決めつけることが差別なのである。

 

根拠が薄弱(皆無ではなく)というのもポイントである。差別はたいていの場合、何の根拠もなくなされるのではなく、根拠らしいものを一応打ち立てて行われる。確かに、女性しか子どもを産むことができないのは事実だ。しかし、それだけを根拠に、子育ての多くを女性に押し付けることには大きな飛躍がある。子どもは母親に育てられたほうがいいとする都市伝説はあるが、それは都市伝説の域を出ていない。差別はたいていの場合、ごく一部、ごく小さな側面を過剰評価し、その属性を持つ人すべて(ないし大半)に当てはめようとすることによって発生する。喩えて言えば、アメリカ国旗の赤い部分だけを見てアメリカ国旗は赤い、と言うようなものだ。

 

件の大澤氏は、自分は北京で暮らしたこともあり、中国人と一緒に仕事をしたこともあって、その経験から中国人のパフォーマンスが低いと判断しているとツイッターで語っている。これは典型的な、一事例の過度な一般化である。たまたま周囲の中国人がそうだったにすぎないかもしれないし、自身の稚拙なコミュニケーション能力によってうまく意思疎通できていなかっただけかもしれない(仕事の指示が通じていないのに仕事ができないと判断されてはたまらない)。木を見て勝手に森を想像するのが差別の本質である。

 

<なぜ差別してはいけないのか①>

ではなぜ差別してはいけないのか。大澤氏によれば、「差別をしてはけない」というのは道徳的な建前にすぎず、それを強調するのは、理想主義者・観念論者である「パヨク」ということになるらしい。

 

しかし、実際には、以下に述べる理由で、何であれ差別することは得策ではない。

 

1つは、言わずもがな、中百舌鳥、であるが、端的に事実認識として間違っているからだ。間違っている以上、それは害をもたらす。大澤氏の会社が何をする会社なのかよく知らないが、そこで有用な人材になるために、中国人であるか否かは、そのための能力の判断基準としてはあまりに意味がなさすぎて、本来は選考の役に立たないはずだ。中国人を採用しなくても会社がつぶれないのだとしても、それは別の基準、つまり、仕事に直結する能力の判断が適切に行われ、残った中国人以外の候補者のなかにその基準を満たす者が十分にいただけのことだろう。現在のAIはかなり緻密な論理を用いることができると理解しているが、十数億の中国人を一括りにしてしまう発想との落差が半端ない。自分の会社に必要な能力が何かがわかっているならば、何国籍であろうとその点にだけ探りを入れれば済む話である。

 

大澤氏はひょっとしたら、犬と猫が別々の生物であるように、中国人と日本人というくくり方ができるのだと思い込んでいるのかもしれないが、その認識は生物学的に間違っている。同じ人間を、まったく異次元の経緯によって分けたのが国籍であって、それはその国籍を持つ人の個人としての性質を何ら説明しない。説明しているように感じるとしたら、それは疑似相関にすぎない。

 

女性は育児を云々、というのも、その一般論風の議論は粗雑すぎて一般論として使い物にならないので、やめたほうがいいということになる。

 

<なぜ差別してはいけないのか②>

2つ目の理由は、現実の世界はあまりに差別にあふれているので、これ以上差別は必要ない(というか、少しでも減らすべき)ということだ。

 

このブログですでに一度言及したことがあるが、国籍という制度はその最たるものである。あまりにありふれていて、しかも廃止するのが現実的にはなかなか難しく、何といってもそれこそ国のお墨付きがついているものなので、わざわざ差別として論じられることは一般にはほとんどないが、国籍という概念は上記の差別の要件をきれいに満たしている。

 

今日の世界で、国籍は人生を大きく左右する。行政サービスへのアクセスにしても、賃貸住宅の入居条件としても、国籍の有無は、人生にとって本質的な問題になる。国籍はそれを持つ人の重要な部分を一様に決定してしまうのだ。ところが、ある人ないし領土に生まれた者には自動的に国籍が付与される一方で、そうでない者が国籍を取得することは非常に困難である。まったくの不可能ではないという点では、黒人はどんなに頑張っても白人にはなれないとする典型的な差別よりは幾分かましかもしれないが、実質的には五十歩百歩である。

 

だから、この点だけをとっても、差別に一切関わっていない人など、この世にはおよそ存在しない。そのうえ、世の中にはほかにも差別があふれている。だから、多少でもそれを中和することが必要なのであって、さらなる差別は必要ないのだ。いわば、右(と仮にしておく)に振れすぎているものを少しでも逆側に戻してバランスを取ろうということなのであって、それだけをもって「パヨク」というのは、いささか視野が狭すぎるだろう。

 

<なぜ差別してはけいないのか③>

最後に、3つ目の理由はこうだ。

 

差別というのは、される人にはたまったものではないが、する側にとっては非常に楽なことでもある。少なくとも一時的には。

 

すでに居住国で国籍を持っている人、特に、先進国のそれを持っている人にとって、国籍は既得権である。例えば経済的に貧しい人に新たに国籍が付与されると、自分の既得権が侵された気になるだろう。だから、ハードルはなるべく高くして差別は維持したほうがとりあえず気分的に楽である。税制の計算をしても、少なくとも一時的にはそのほうが損をしない(「一時的には」というのは、新たな国籍取得者がやがて経済的に活躍して税収を上げる可能性もあるからである)。

 

もっと一般的には、差別は人間の認知能力の本質と不可分な関係にある。人は日々、当たりをつけて生きている。例えば、普段歩いている道でいきなり襲われることはないだろうと信じ込んで生きている。だが、本当にそうであるか絶えず精査しているわけではない。あくまでもこれまでの経験を踏まえた主観的な思い込みにすぎない。しかし、日常的にいちいち何でも精査する余裕はない。前に進めなくなってしまうからだ。

 

人に対する差別も同様の性向から生まれる。つまり、特に悪意があって差別が生まれるのではなく、いわば、横着によって差別は生まれる。しかし、いかなる横着もせずに人付き合いをするのは難しい。すぐに断定するということではないにしても、初対面では属性によってある程度その人の人となりを推測するということはよくあることだろうし、それを一切排除することは不可能かもしれない。

 

それこそ、大澤氏が挙げた、企業が採用に際して大卒に限る、という条件は、横着の一種である。本当にその会社に必要な能力を見るためには、独自にその人を精査すればいいのであって、その会社にカスタマイズされて作られたわけではない「大卒」という条件で判断するのは正確には合理性を欠く。

 

実際に企業はそのことに気づき始めているが、それでもやめられないでいる。

 

それは、コストの面である程度正当化されるだろう。ある仕事をするうえで、現状の日本社会においては、高卒と大卒で能力に差が出ることは、例外というには多すぎるほど例外は結構あるにせよ、ある程度は確認されてきたことなのだろう。すべての候補者を精査するコストをかけられないために、また、実際そこまで精査する必要もない場合が多いため、ひとまず大卒で絞り込みをかけるのである。

 

つまり、横着は横着だが、様々なバランスのなかで、多少は許容されうる部分を含んだ横着なのだ。ただし、そのことで潜在的には高卒者と大卒者のあいだに歪んだ関係性が生まれ続けていることも事実だろう。あくまでもそれが爆発の限度に達していない(とされている)にすぎない。

 

大澤氏はこれと同じつもりで、中国人を排除するのもコスト削減の一環だとしている。しかし、中国人であるか否かは、大卒か否かと比べて対象となる領域はあまり広すぎて、仕事内容に照らし合わせると、絞り込みの意味をなさない。日本人であれば誰でも採用するというのと同様である。そんなザル人事を本気でやるならば、会社の将来は危うい。差別が与える悪影響と天秤にかけた場合、メリットがほとんどないこの差別はかなり悪質な横着になる。

 

ついでながら、大澤氏はまったく言及していないが、ネット上で大澤氏の方針に半ば賛同する意見のなかに、中国人はスパイ活動をする可能性があるから採用できない、とするものがあった。これも、国籍の意味を大きくはき違えた暴論だ。そもそも、中国政府が、中国のスパイだと疑われやすい中国人をわざわざ送り込んでくるだろうか。「ネトウヨ」の人たちの頭のなかの「お花畑」ならぬ「爆弾倉庫」のなかでは日本人はみな日本政府のイエスマンであることになっているのだろう(そして中国人はみな中国政府のイエスマンなのだろう)が、残念ながら、お金のために節操なく動く日本人は、いくらでもいる。振り込め詐欺組織の人間が、金を積んだ中国政府からの誘い(仮にそういうことがあったとして、だが)に乗らない保証がどこにあるだろうか。

 

国籍というのは、生まれ持ったものであるからこそ、そういう意味ではむしろアテにならないのだ。つまり、本人の意思によって取得したものではないので、その国に忠誠を誓う動機は初期条件としては存在しないのである。だから、国籍を持っている人は自動的にその国に忠誠を誓うはずだと考えるのはあまりにお花畑(爆弾倉庫?)にすぎる発想だ。むしろ逆に、国籍を持っていないにもかかわらず、その国で頑張ろうとしている人(例えば、日本で日本語をしっかり学んで働く中国人)のほうが、よほどその国に対する思い入れは強いと想定すべきだろう。

 

やや話はそれたが、いずれにしても、差別は横着さ、つまり楽さとの関係のなかで存在している。例えば、採用の応募に日本人と同数中国人が採用予定数の何倍もの数殺到した際(つまり買い手市場の場合)、国籍フィルターにかけてしまえば、採用担当者の労力は一気に半減し、それでもまだ倍率は十分あるならば、そこそこの人材が手に入る可能性はある。

 

国籍とスパイ行為を結びつける人にとっても、複雑極まりない世界を、複雑なまま理解するのはいかにも難しく、また不安で仕方がないので、単純な図式に落とし込むのが楽だ、ということになる。

 

だが、同じ横着=差別でも、学歴による選別は異なる部分を含む。様々なことのバランスのなかでぎりぎり許容され、持続しているのである。しかし常に議論が付きまとい、少しずつ変わってもいる。一部の人の横着と、一部の受益者と、一部の受苦者のせめぎあいのなかでかろうじて維持されているのだ。

 

つまりたった一人の横着によってだけでは、差別はとても正当化されないのである。国籍差別は、何のメリットもない横着だから、現実社会のなかでも居場所を持たないだろう。人を傷つけるだけなので、即刻やめるべきなのだ。重要なのは、ひとかけらの事実(仮にあったとして)ではなく、全体のなかでのバランスである。

 

<差別アヘン論>

以上まとめるならば、差別は以下の理由で道徳以前の問題として、してはならないのである。①事実認識として間違っているから②もう十分に世の中にはびこっているのでこれ以上必要ないから③差別は横着によって生まれるが、辛うじて許容されているものは、その横着に多少の理由がある場合に限られ、それも常に検証にさらされているのであって、単なる思い付きの横着が許容される余地などないから。

 

世の中は平等にできていない。だから差別/被差別の機会も不平等だ。つまり、よく差別する人とよく差別される人に別れがちである。だが、横着=楽をする人と、苦悩する人のバランスがあまりに悪くなった場合、それはなにがしかの大きな動きを帰結する。苦悩する人の反乱が起こる場合もあるが、歴史上深刻なのは、おそらく横着に歯止めがかからなくなった場合だろう。そしてそれは連鎖していく。

 

ヘイトスピーチは積もりに積もってホロコーストのような事態になる、というのは今回の大澤氏に対して警告されたことだが、それは飛躍だと大澤氏は噛みついた(その文脈で大澤氏は、じゃあ高卒を差別したら高卒に対するホロコーストが起こるのか、などと頓珍漢な反応をしていた)。しかし、ホロコーストに続きがあるを忘れてはならない。パレスチナ問題は、ホロコーストがなければ、少なくとも今日のような形では生じなかっただろう。一度崩れたバランスは一度の大惨事だけでは止まらなくなってしまう。

 

差別は人間の横着さと結びついている。それをやればやるほど、一時的には楽である。だがその社会的帰結はすさまじい。差別はアヘンなのである。

 

しかも、アヘンをやったことがない人にとって、アヘンは何でもないのに対して、上記のように今日の世界で差別に一切加担していない人は存在しない。みな差別の味を実はよく知っているのだ。だからこそ、それをせめて最低限のところでとどめておく不断の努力が必要なのであって、わざわざさらに差別を重ねる暇などまったくないのである。