先日の雪が溶けきる暇もなく、今朝もまた雪がしんしんと降っています。
交通の混乱ばかりがニュースになりますが、
もう少し情緒を覚えるようなことがあってもいいのではないか、と思います。

雪は好きですが、近頃はさすがに雪合戦をする勇気はなく、ストーヴを足元に置いて懐手に梅の花に積もる雪を眺めている方がいい。
円山応挙の雪中に梅の花が咲いているという襖絵を前に三井美術館で見たことがありますが、
これはほとんど墨一色なのに、雪を被るその雪の重さも、それに堪える梅の枝と花の芯の強さも、
峻烈な冷たさの底に潜む柔らかな温かみも、梅の花の香も漂うような、
気品があって感銘を深くしました。
それは迫真というよりは、自分がその絵の世界の側に入り込んでしまう、
境界がぼやけていくような不思議な心地がしました。
そういう絵を、あえて閉て切った部屋で薄明に見るなら、それは現実離れした仙境を作りだすことでしょう。
若冲の動植採絵の雁や梅の図にあるもったりとした、妙に質量感のある雪もそれはそれで面白く、
雪にせよ雁にせよ梅にせよ、風流の先入観に覆い隠された存在が激しく主張するかのようです。

しかし、今日の雪を眺めていると、そういう江戸の画工たちの作品よりは、
川瀬巴水の木版や小村雪岱の挿絵のようなもののほうが、身近に思われます。
そうして、雪の日になると必ず口ずさむのは、中原中也の詩です。
中也の雪の詩はいくつもあり、どれも魅力的です。
『汚れっちまった悲しみに』もありますし、『雪の宵』も『生ひ立ちの歌』もどれも愛して止みませんが、つい口ずさむのは中也の『雪が降ってゐる…』という詩です。
こんな詩です。

雪が降つてゐる、
  とほくを。
雪が降つてゐる、
  とほくを。
捨てられた羊かなんぞのように
  とほくを、
雪が降つてゐる、
  とほくを。
たかい空から、
  とほくを、
とほくを
  とほくを、
お寺の屋根にも、
  それから、
お寺の森にも、
  それから、
たえまもなしに。
  空から、
雪が降つてゐる
  それから、
兵営にゆく道にも、
  それから、
日が暮れかゝる、
  それから、
喇叭がきこえる。
  それから、
雪が降つてゐる、
  なほも。


なんともたわいもない詩ですが、この延々としたリフレインが、
静かに雪が空から沈んでくる様を映し出しています。
中也の言語センスは本当に素晴らしいのですが、
この単純な詩にも、さまざまな工夫が駆使されています。

リフレインが、雪の降る様子を表すことはいいでしょう、
奇数行の8音を基調とした自由な詩行に対し、
偶数行の4音が調子を整えます。
均質な降り様ではなく、ムラを持って降ってくる雪のリズムです。

この詩には一つしか比喩が用いられません。
「捨てられた羊かなんぞのやうに」だけです。
しかも、両端を「雪が降つてゐる」で合わせており、
この明らかな〈字余り〉は、リズムの反復に対する裏切りとして現れます。
大事なのは「捨てられた」で、「羊かなんぞのやうに」だけでは単なる風景描写ですが、
「捨てられた」をどのように取るか、解釈するかによって詩のイメージは全く変わってきます。
それを悲しみととるか、悲しみの中にもどうしようもないユーモラスな感じを受け取るか、
綺麗な白色か、それとも薄汚れた灰色のイメージを持つか、それでこの詩のイメージが変わります。
どれが正解ともつきませんし、つかないからいいのです。

偶数行をみましょう。
「とほくを」ということは、目の前に降っていない、「どこか」を指しているようです。
そのどこかは分かりません、日本か、大陸か、それともヨーロッパか。
いや、目の前かもしれません、自分のところにも降っていて、遠くまで果てしなく降っている。
あるいは、自分の過去、未来、そういう「遠さ」であるかもしれません。
「とほくを」としたことで、ここでもイメージの揺らぎが生じ、
個人個人がそれぞれの「とほくを」降る雪を思い描きます。

そして、「とほくを」という、オ音を基調とした低い響きに対して、
「それから」は、ア音の高い響きに向かっていきます。
さらに絶妙なのは、「それから」に一度だけ「空から」を挟み込むことです。
「とほくを」と「空から」は、「高→低」の同じ発音で、
「それから」は逆に「低→高」の発音になります。
「空から」は単に洒落なのではなく、発音によって「とほくを」を呼び起こします。
(「高い空から/とほくを」という詩行があることも抜かせません。)
そのリフレインを「なほも」と3音で締めくくり、
「とほくを」と同じ発音で、1音足りないために、消えるように響きます。

音韻と発音は、厳密に作られており、奇数行の「降っている」が「高→低」で
「とほくを」と重なりますが、
「雪が」の母音a-i-aは「とほく」の母音o-o-uと対照的になります。

そして、各行末の句読点により、区切られるテンポが変化し、
奇数行の音数とともにムラを作ります。
最初は2行単位で同じ詩行を反復して、リズムを偶数単位に確保します。
次に4行で句点がつきます。偶数単位は守られます。
ところが、次の「たかい空から、/とほくを、/とほくを/とほくを、」
の奇数行にリフレインの「とほくを」が用いられるときに読点が消え、
音数が4文字と最小になります。
偶数単位ですが、「とほくを(とほくを)、」とエコーのように奇数行に近くなります。
次は、5行単位、リズムが変化します。
奇数行で句点が置かれることで、これまでの読み方とは休止の置き方が逆になります。
今までは「奇数行-偶数行」だったのが、「偶数行-奇数行」という読み方に変わるのです。
そのテンポの倒置に合わせるように、「それから」は「空から」変わり、
「雪が降つてゐる」が再び現れますが、その読み方は冒頭詩行の読み方とは異なるわけです。
次は8行ですが、前半の奇数行の読点が抜かされます。
最後の3行のことを考えましょう。

「なほも」がリフレインの締めくくりとして、字足らずになり静かに消えるように収まるのですが、
このとき、中也はこれまた絶妙の仕掛けを施してきます。
その直前の奇数行を見てみましょう。
「日が暮れかかる」
これまでの詩行は常に具体的な視覚的イメージを伴っていました。
現実か想像かはともかく、詩人は雪を「見て」います。
ところが、その見ている世界の光は次第に弱まり、
「喇叭がきこえる」
で、聴覚に感覚器官を移します。
「兵営にゆく道にも」とありますから、喇叭は点呼か何かでしょう、
それは、「とほく」であり夕闇と雪の紗幕を通すことで「かすかな響き」として聞こえてきます。
そのとき、
「雪が降っている」
は、もはや視覚世界ではなく、想像のうちの、イメージの残像として雪が降っている、
と考えることができます。
映画か芝居のフェイドアウトのように、次第に光が減り消えていく、
その準備が前の詩行から始まり、
回帰したと思われた「雪が降っている」という詩行は、
冒頭の詩行の残像となっているのです。

そこで尋ねるべきは、「いつまで雪は降っているのか」ということです。
「それから」は、事物の追加の意味の接続詞でもありますが、時間の継続の意味もあります。
最初は場所の追加でしたが、「日が暮れかかる」で時間の意味が現れてきます。
「なほも」は、時間と事物の継続を表します。
いつまで降るのか、わかりません、もう目には見えていません。
いえ、最初から見えていない、目の前には開かれていない風景かもしれません。
光の消えていった風景にいつまで雪が降るのか、
この余韻が延々と私たちを捉えます、捉えるべきです。
そこまで読んで初めて、私たちはこの詩を味わうことができます。
その雪は何を表そうとするのか、表しうるのか、
詩人の、あるいは読み手の人生においてどのようなものの隠喩として働くのか。
でも、そういうご立派な人生訓に仕立てなくて構いません、
その微妙な言葉の世界に留まれればそれでいいのです。

徹底的に抑制されたリズムの中で、
かすかな揺らぎや移ろいに、耳を傾け、イメージを膨らまさなければなりません。
この抑制は、音もなく静かに降りしきる雪の気配を表しており、
たわいもないと思われる詩の反復とその揺らぎは、
むしろ、静けさを表現するための技巧なのです。

足を止めて、雪の音を聴いてみましょう、静かに、静かに。