この数日間、私は浮き足立ってついついニュースをチェックしてしまいます。
何しろ、全聾の作曲家、現代のベートーヴェンが真っ赤な贋者だったというのですから、
もうこんな面白いニュースは、ちょうど10年前の有栖川宮詐欺事件以来です。

実のところ私たちが「何も聞いていない」ということが暴露されたのです。
あえて「私たち」と言っておきます、私は胡散臭い眉唾で横目に見ていましたが、
そういうのは後だしジャンケンです、とはいえ私の近くで話題にでたことすらない。

CDの売り上げだけ見れば、18万人がだまされたわけです。
みんなだまされた、と言います。
でも、何にだまされたというのでしょう、作品がよかったと思うならそれでいいでしょう。

誰もが「全聾」という障碍、ハンディキャップを乗り越えるエピソードに感動し、
「独学」という反-権威の立場にエールを送り、
原爆2世が「広島」を題材にした交響曲を書いたこと、に感慨を覚えたのです。

それを助長したのがNHKです、これが最大の詐欺の片棒担ぎです。
おそらく、フジコ・ヘミング、辻井伸之ときて味をしめたのでしょう、
障碍を超えるという人間ドラマはウケる、「苦悩から歓喜へ」は永遠のモットーだ!

私には、それが汚らわしい。障碍があろうがなかろうが、
いいものを作る人間が認められるべきです。
たしかにハンデはプラス・アルファですが、それと本質的には関係がない。

全く下らない、と思うのですが、とまれ私たちは「曲そのもの」で音楽を聴くことも、
「絵そのもの」で絵を見ることもなかなかできないことです。
どうしても、私たちは作品を通してその作者を知りたいと思う。

とりわけ、感動的な作品を作る人なら、感動的な人生のエピソードがあるはずだ、
創作には苦悩はつきもの、天才はすべからく変人たるべし。
ベートーヴェンもモーツァルトも半分は伝説で売れているようなものではないでしょうか。

『アマデウス』のモーツァルト、「運命が扉を叩く」ベートーヴェン、
これらはほとんど捏造です、どのエピソードもほとんどといっていいほど根拠がありません。
みな神話化され、ナショナリズムのプロパガンダに利用されてきました。

ヴェルディもイタリア統一戦争時に、その名VERDIがあちこちの通りで叫ばれた、
これはVittorio Emanuele Re D'Italiaの略である、とうのは19世紀末に現れたエピソードです。
偉人に仕立てる、そして、そのエピソードを私たちは作品同様に味わうのです。

ところが、ある段階で、とくににわか知識がついてきたときが危ない。
骨董品の由来書きなどもその手の類いですが、エピソードにだまされるのです。
曖昧な知識を持っていると、いかにもそれが価値をもっているように見えてくる。

専門家までだませれば大したものです、日本だと加藤唐九郎の応仁の壷事件が思い返されます。
海外だとメーヘレンのフェルメール贋作事件でしょうか。
知略のかぎりを尽くし権威を欺く贋作者は楽しい。

エピソードしかないのですから。
そのエピソードの作り手をエピソード化する、なんとも愉快な評伝になります。
気になる人は種村季弘の『贋作者列伝』、『ハレスはまた来るーー偽書作家列伝』をどうぞ。

これは今に始まったことではありません。
例えばヴァザーリの『画人伝』は現在では間違いとされる部分が多くありますが、
16世紀にもすでに作品以上に、作者のエピソードが期待されていたのです。

いや、作品が残っていなくてもエピソードだけが生き残るというのは、
古代ギリシアから延々と続くわけです。
私たちは、エピソードを愛し、神話を期待し、それを味わうことに貪欲なのです。

佐村河内守という人は、この私たちの注文を巧みに利用し、
NHKという権威に与り、指揮者や音楽学者のお墨付きをいただき、
私たちに燦然たるイメージを提供しました。

耳が聴こえないのも嘘、多分そうでしょう。
彼の喋り方は尋常でしたし、暗くてもサングラスを外さないのは、
音に反応して目が動くのを見せないためでしょう。

おそらく、「耳が聞こえないわけではないが、難聴と耳鳴りは本当」などとごまかすでしょう。
耳鳴りは原因が不明なことが多く、本人以外に知りえないという場合が多いのです。

交響曲第1番〈HIROSHIMA〉を改めて部分だけ聴いてみました、
ばれてから聴いてみると、かえっていい曲に思えてきました。
ただし、目新しさはありません、従来的な技法を用い、ほどよく無調でほどよく調性的、
ショスタコーヴィチ風、シュニトケ風、バルトーク風、ストラヴィンスキー風etc, etc...

一言でいえばキャッチーです、だからそれが売れていることに馬鹿馬鹿しさを感じていました。
でも、それがきちんとした作曲科を出た人間が、自分の作風を封印して書いたなら納得です。
一般にウケる盛り上げどころを分かっている、気が利いている。

何しろ、いいとこ取りです、ここで私は考えてしまいます。
世の中の傑作にも引用や作風の模倣はあります。
ラヴェルの《ボロディン風》などいい例ですし、クライスラーの《愛の喜び》ももとは古いウィーンの俗曲ということでした。

まあ、それで何か利潤をむさぼったわけでもなく、
代作したわけでもなく、実際に本人が作っていたのですから、
この問題とは方向性もレベルも全然違う。

ただ、私はこのニュースを見ながら、パロディと剽窃、引用の問題を考えずにはいられません。
誰かの作風に似ているとき、これを剽窃とは言いがたい。
いったいパロディと剽窃の境目はどこなんでしょう。

剽窃は、その引用元そのものになりすまそうとする行為であり、
パロディは、その引用元の文脈に批評を加え、文脈を変えるのです。
そのとき、パロディによってイロニーが生じます。

あるいは、イロニーではなくオマージュであるかもしれません。
この交響曲はあからさまな引用はありません、しかし、その手法に様々な作曲家の
いいとこ取りで作るのは、線引きがきわめて難しいといえます。

私はパロディが好きな上、引用を織り込んでくる作品は、ジャンルを問わずに愛する癖があります。
とりわけ、それがイロニーとなればなおさらです。
でも、佐村河内もとい新垣さんの作品は、イロニーがありません。


それにしても会見を見てちょっと痛々しくなりました、たぶんこの人、相当真面目です。
何だか、浮かれているところに水をかけられた気分です。

80分にもなるフルオーケストラの交響曲を、手際よく技法を織り交ぜてキャッチーに作る、
真似ても普通の人にはできるものじゃありません。

ある音楽学者が言っていましたが、この曲を書いた人はあらゆる作品に通じている、と。
そうだったのですから、なるほど当然です。
作曲家はまず売れません、それが現代音楽となればなおさらです。

この人が器用な商売人で、映画音楽や劇音楽、テレビのBGMの作曲の仕事がたくさんできていれば、
たぶんこういうことにはならなかったでしょう。

あの会見が自己弁護の芝居だったらそうとうな狸親父ですが、
どうも世知に疎い不器用な人なようです。

個人的にはこの人が、自分の作品で広く認められることを願うばかりです。
しかし、首を吊らないか、それが心配です。
彼は片棒を担いだとはいえ、それを助長しそれを喜んだのは、マスメディアとマスです。

エピソードの制作者(佐村河内)と内容の制作者(新垣)と、
そのエピソードの拡散者(NHKなど)、そのエピソード故に感動を共有した者(大衆)、
彼の責任は、利権関係を抜きにすれば、ほぼゼロに等しいのです。

ただ一つ言えば、そのエピソードに適うにちょうど良い作品を書いたということです。
それが彼の唯一の汚点かもしれませんが、
器用に技法を使いこなすことも芸のうちです。

しかし、誰もが気にするのは利権関係であり、作品の質などは誰も問わないでしょう。
私たちは曲などどうでもいいのです、物語は次の場面に来ました。
いかに彼らを断罪し吊るし上げるか、処刑法をあれこれと考えているのでしょう。

一人3,000円程度の感動で、人を一人殺すことはありますまい。
現代のベートーヴェンとはしょせんは幽霊。
幽霊の正体みたり枯れ尾花、それだけのことです。

諸君、喜劇は終わった、客席は明るくなりました。
ああ、面白かった。