急に時間が空いて、気が抜けたのでバスで10分の距離にあるオペラシティのアートギャラリー
『五線譜に描いた夢ー日本近代音楽の150年』を観に行ってきました。
専門外といっても、楽譜を読むことには変わりありませんから、
展示物は充実でした。
個人的には伊福部昭の『ゴジラVSキングギドラ』のスコアと、
早坂文雄の『羅生門』のスコアが面白かったですね。
Lotus-seedの亜流の、分けの分からない映画批評の輩ではなく、
ちゃんと楽譜を読んで映画音楽の研究をすると、たぶん色々分かってくることでしょう。
珍しいところでは萩原朔太郎愛用のギターがありました。
帰り際ミュージアムショップでカタログを見ていたら、
隣に立っていた二人連れがどうやら萩原朔太郎記念館の人だったらしく、
「あれ、ギターの弦の上2本、切れてたよね。」
「張ってくれたのかね、でも、一言いってくれてもいいと思うけど。」
え?
勝手に張っちゃったんでしょうか、弦。
博物館学的にというか、貸借の常識としてだめでしょう。
宮沢賢治の『春と修羅』初版本もありました、
彼は浅草オペラに通い詰め、給料をつぎ込んでクラシックのSPレコードを買っていました。
林光が編曲した《星めぐりの歌》を置いてあったのはよかったですが、
自筆原稿のフォトコピーを5枚も並べる必要があったのかは疑問です。
近代音楽館押しの割には、藝大所蔵が多かったですね、
そしてコピーが多い。
期間限定でもいいから、滝廉太郎とか何とかならなかったのかと思います。
実のところ、色々と資料があったのですが、
いま一つ記憶に残っていません。
馴染みが薄いからというよりも、
資料がやたらと多過ぎるのと、解説が多過ぎるのと、
それから、各展示室に解説ビデオがおかれてずっと音楽と解説が垂れ流しです。
お客さんのほとんどは楽譜について何も知らないし、読めないから仕方がないのかもしれません。
今どきなら、イヤホンガイドをおけばいいのに。
それで展示品の前に来たら簡単な解説と、音楽の触りが流れるようにすればいい。
品物はいいものがあるのです、ほんとに。
とくに日本のオペラ関連のことは、自分も関わったことがあるだけに興味深かったですね。
なのに、ですよ。
武満徹の《ノヴェンバー・ステップス》の草稿や、《弦楽のためのレクイエム》の自筆譜を前に
音を思い浮かべようとしたら、
横から「ド~~ミソ、シ~ドレド」などとくるのですから、たまったものじゃありません。
集中力の疎外も甚だしい。
また、一つの展示ケースにこれ見よがしに資料を詰め込み、上から覗き込むか、壁にかけてあるか、
これでは見にくい。
しかも、気を利かせたのかなんなのか、部屋に対して展示ケースが斜めです。
つまり、壁とケースの間に三角形のスペースが空いている、
なのに壁に資料がかかっている、これで見られるはずがない。
このご時世に、どこかの山奥の郷土資料館みたいな展示を見るとは思いませんでした。
残念ながら、音楽をやる人間は、ものを見る、ものを見せることに関しては、
全くのセンスがないと言うしかないようです。
物がありながら、物を殺すような展示の見本でした。
今日は午前中に皇后美智子様がいらっしゃいましたそうです。
私が着くつい1時間ほど前のことだったようで、
お姿を拝することができなかったことが残念ですが、
たぶん開館前にご覧になられたのでしょう。
同時開催をしていた大垣美穂子という人の展示がありましたが、
こちらの方が印象深かったかもしません。
繊細で綺麗な作品でした。
とくに、腿くらいまである卵形の上を切り取って、
星座早見の星をくりぬき、手回しのオルゴールにする。
回すことまでを含めて作品化するような、何か静かなかなしみめいたものがありました。
今回の展示のテーマであるcontstellationは、星座ですが、それぞれのイメージの断片を観る者が
継ぎ合わせていく、その行為もまた作品なのだろうと。
Star Talesと名付けられた一連の作品のうち、皺の寄った紙に、一枚につき一体の人体のシルエットがさまざまなポーズをとり、連連と吊られている作品がありましたが、
これなどは作家のHPを見ると、いろいろな場所につり下げられるようで、
今日観たように、ただ横に並べるのが一番面白くなかったかもしれません。
横に並べた時、連続性は観る者の移動によって決定され、相互の関係性の自由度が限られてきます。
あるポーズとポーズとの間に空間があり、面でありながら立体のイマジネールを作るところに、
この作品の面白みがあるのでは、と思います。
それが「星座」であり、時と空間を面の距離で表しうることが面白いのです。
http://www.operacity.jp/ag/exh159.php
思わぬ副産物、というより、こちらの方が印象に残ったかもしれません。
物を活かすも殺すも展示次第、これが今日の教訓。
『五線譜に描いた夢ー日本近代音楽の150年』を観に行ってきました。
専門外といっても、楽譜を読むことには変わりありませんから、
展示物は充実でした。
個人的には伊福部昭の『ゴジラVSキングギドラ』のスコアと、
早坂文雄の『羅生門』のスコアが面白かったですね。
Lotus-seedの亜流の、分けの分からない映画批評の輩ではなく、
ちゃんと楽譜を読んで映画音楽の研究をすると、たぶん色々分かってくることでしょう。
珍しいところでは萩原朔太郎愛用のギターがありました。
帰り際ミュージアムショップでカタログを見ていたら、
隣に立っていた二人連れがどうやら萩原朔太郎記念館の人だったらしく、
「あれ、ギターの弦の上2本、切れてたよね。」
「張ってくれたのかね、でも、一言いってくれてもいいと思うけど。」
え?
勝手に張っちゃったんでしょうか、弦。
博物館学的にというか、貸借の常識としてだめでしょう。
宮沢賢治の『春と修羅』初版本もありました、
彼は浅草オペラに通い詰め、給料をつぎ込んでクラシックのSPレコードを買っていました。
林光が編曲した《星めぐりの歌》を置いてあったのはよかったですが、
自筆原稿のフォトコピーを5枚も並べる必要があったのかは疑問です。
近代音楽館押しの割には、藝大所蔵が多かったですね、
そしてコピーが多い。
期間限定でもいいから、滝廉太郎とか何とかならなかったのかと思います。
実のところ、色々と資料があったのですが、
いま一つ記憶に残っていません。
馴染みが薄いからというよりも、
資料がやたらと多過ぎるのと、解説が多過ぎるのと、
それから、各展示室に解説ビデオがおかれてずっと音楽と解説が垂れ流しです。
お客さんのほとんどは楽譜について何も知らないし、読めないから仕方がないのかもしれません。
今どきなら、イヤホンガイドをおけばいいのに。
それで展示品の前に来たら簡単な解説と、音楽の触りが流れるようにすればいい。
品物はいいものがあるのです、ほんとに。
とくに日本のオペラ関連のことは、自分も関わったことがあるだけに興味深かったですね。
なのに、ですよ。
武満徹の《ノヴェンバー・ステップス》の草稿や、《弦楽のためのレクイエム》の自筆譜を前に
音を思い浮かべようとしたら、
横から「ド~~ミソ、シ~ドレド」などとくるのですから、たまったものじゃありません。
集中力の疎外も甚だしい。
また、一つの展示ケースにこれ見よがしに資料を詰め込み、上から覗き込むか、壁にかけてあるか、
これでは見にくい。
しかも、気を利かせたのかなんなのか、部屋に対して展示ケースが斜めです。
つまり、壁とケースの間に三角形のスペースが空いている、
なのに壁に資料がかかっている、これで見られるはずがない。
このご時世に、どこかの山奥の郷土資料館みたいな展示を見るとは思いませんでした。
残念ながら、音楽をやる人間は、ものを見る、ものを見せることに関しては、
全くのセンスがないと言うしかないようです。
物がありながら、物を殺すような展示の見本でした。
今日は午前中に皇后美智子様がいらっしゃいましたそうです。
私が着くつい1時間ほど前のことだったようで、
お姿を拝することができなかったことが残念ですが、
たぶん開館前にご覧になられたのでしょう。
同時開催をしていた大垣美穂子という人の展示がありましたが、
こちらの方が印象深かったかもしません。
繊細で綺麗な作品でした。
とくに、腿くらいまである卵形の上を切り取って、
星座早見の星をくりぬき、手回しのオルゴールにする。
回すことまでを含めて作品化するような、何か静かなかなしみめいたものがありました。
今回の展示のテーマであるcontstellationは、星座ですが、それぞれのイメージの断片を観る者が
継ぎ合わせていく、その行為もまた作品なのだろうと。
Star Talesと名付けられた一連の作品のうち、皺の寄った紙に、一枚につき一体の人体のシルエットがさまざまなポーズをとり、連連と吊られている作品がありましたが、
これなどは作家のHPを見ると、いろいろな場所につり下げられるようで、
今日観たように、ただ横に並べるのが一番面白くなかったかもしれません。
横に並べた時、連続性は観る者の移動によって決定され、相互の関係性の自由度が限られてきます。
あるポーズとポーズとの間に空間があり、面でありながら立体のイマジネールを作るところに、
この作品の面白みがあるのでは、と思います。
それが「星座」であり、時と空間を面の距離で表しうることが面白いのです。
http://www.operacity.jp/ag/exh159.php
思わぬ副産物、というより、こちらの方が印象に残ったかもしれません。
物を活かすも殺すも展示次第、これが今日の教訓。